目を覚ますと、賢者は見知らぬ部屋で倒れていた。
頬を床につけたまま、ぼんやりと周囲を見渡す。天井から吊り下げられたランプ。豪奢なベッド。壁にかけられた絵画。そして、視界を遮るようにして目の前に鎮座する、革靴の爪先。あと数センチでもずれていたら、賢者の顔か手を踏みつけていただろう位置にそれはあった。よく磨かれて、濡れたように光る、品の良い革靴。
「ずいぶん、堂々とした泥棒だね」
頭上から降ってきたその声は、賢者にとってひどく聞き慣れたものだった。穏やかな、若い、男の声。床に頬をつけたまま、革靴を履いた脚を辿っておそるおそる視線を向ける。
ぞくりとするほどに美しい男が、こちらを見下ろしていた。白い肌に、薄青の髪。賢者の予想通り、彼の目の前に立っていたのは、南の魔法使いフィガロだった。
「フィ……」
名前を呼ぼうとして、出かかった声が喉奥で詰まる。賢者の背中を、冷や汗が伝った。目の前の男と、記憶にあるフィガロの姿は、重なり合うようでどこかずれている。体温まで奪われてしまいそうな、冷ややかな瞳。少なくとも、自身のことを「優しいお医者さん」などと自称しないだろう表情。この男は、自分の知るフィガロではない。賢者はそう確信した。
「あ、あの……」
「どこから忍び込んだのかな」
忍び込んだ、なんて、まるで賢者が泥棒のような言い方だ。
フィガロが目の前にしゃがみ込む。そして、賢者の顎を指ですくい上げた。美術品でも検品するかのように、じっと彼を観察する。微笑んでいるのに、温度の感じられない視線。賢者の体が恐怖ですくむ。息詰まるような沈黙が、しばらくの間続いた。
「……スノウ様の、いつもの気まぐれかな」
そう言って、不意にフィガロは手を離した。
「愛玩用って感じ」
わざと聞こえるように言ったのだろうか。そう思わせるような声量のひとりごとと同時に立ち上がり、興味を無くしたかのようにあっさりと賢者に背を向ける。そのまま、ベッドのある壁際へと向かって行った。
「あの……」
おそるおそる賢者が声をかけても、こちらを振り返る気配は無い。聞こえていないのか、無視しているのか。仕方がないので、そのまま部屋の隅に座り込み、フィガロを眺める。
フィガロはそのまま、賢者など居ないかのように、気だるげな仕草で次々服を脱ぎ始めた。手袋、コート、身に着けていたアクセサリーも全て、ベッドの上に投げだされていく。魔法舎にいる彼よりも髪がほんの少し短いのだろうか。ぞっとするほどに白いうなじが目に焼き付いて離れない。白いシャツと黒いスラックスのみの姿になると、フィガロは不意に「ああ」と声を上げた。そして、賢者の方を振り返り、にっこりと笑う。
「忘れてた」
「……」
賢者は閉口した。声も表情もわざとらしすぎる。明らかに「忘れてた」という風ではなかった。
「勝手に出て行っても良かったのに。お行儀がいいんだね」
ベッドに腰かけながらフィガロが言う。何故かその言葉に、悪意を感じるのは気のせいだろうか。泥棒だと疑われて、弁明するわけでも、この場から逃げるわけでもなく、部屋の隅で縮こまるばかりの子供へ向けた、棘のある揶揄。
「おいで」
「え……」
「おいでってば」
フィガロが自身の膝をぽんぽん叩きながらそう声をかける。賢者は一瞬ためらった。その様子を見て、フィガロが続ける。
「なに?言うことが聞けないの?」
声に含まれたわずかな苛立ちを、賢者は敏感に感じ取った。背中を丸めて、怯えるようにおずおずとフィガロの元へ向かう。それを眺めるフィガロの目は楽しげだった。
「いいね。君とは仲良くなれそうだよ」
「…………」
フィガロの前まで来ても、賢者は何をするべきか分からず、木偶の坊みたいにその場に突っ立っていた。居心地悪そうな顔をして。フィガロはやはり楽しげな表情をしていたかと思うと、片手をひょいと差し出した。
「はい」
差し出された白い手に、何の意図があるのか分からず賢者がきょとんとしていると、「握手」とフィガロが言った。
「え、あっ、はい」
賢者は慌てて、両手でその手を掴もうとする。しかしそれらが触れ合う寸前に、白く骨張った手がするりと抜けて、賢者の胸ぐらを掴み、引き寄せた。
「ひっ……!?」
賢者が体勢を崩す。いつのまにか、フィガロの膝に座り込むような形になっていた。しかしひどく不安定な姿勢のために、フィガロが手を離したら、そのまま床にずり落ちてしまいそうでもある。
すぐそばに、フィガロの体がある。形容しがたい恐怖が、賢者の胸を満たしていた。彼の視界は、フィガロの白い鎖骨で占められている。前髪に、生ぬるい吐息が吹きかけられた。「へええ」という声とともに、くん、と匂いを嗅がれる。
「いろんな魔法使いの気配がする」
それはおそらく、普段魔法舎で触れ合っている魔法使い達の気配なのだろう。どうして彼がそれに興味を持つのだろう。賢者が不思議そうにしていると、ひどく楽しげな、それでいて嘲笑を含んだ声がかけられる。
「可愛い顔して、ずいぶん遊び歩いてるんだね」
その言葉の意味を、すぐには察せなかった。理解した瞬間、賢者は弾かれたようにフィガロを見上げた。白い顔。怖いほどに整った微笑が、賢者を見つめていた。
「っ違います……!そういう関係なんかじゃありません!ただ……」
「ただ、なに?」
「……ただの、友達、で……」
冷えた視線に、賢者が身を縮こませる。言葉は自然と尻すぼみになっていった。
賢者は、この男に何を言っても、無駄なように思えてしまった。どれだけ言葉を尽くしたって、彼には分かってもらえないと。魔法使いたちと一緒に、お茶を飲んだりお喋りをしたり、故郷を見せてもらうことで、少しづつ育んでいったものを、おそらくこの人は分かろうとしない。
「あはははははは。いいね。友達か」
乾いた笑い声が室内に響いた。もちろんそれはフィガロの喉から絞り出されたものである。
「俺もお友達になりたいな」
不可思議な形をした瞳孔が、賢者の目を覗き込む。ぐ、と白い顔が距離を詰めた。唇が触れ合いそうな距離である。けれど、この状況を前にして、甘やかな興奮は訪れなかった。人外の視線。瞳を隔てて、賢者の体内にまで注がれるそれは、血肉まで凍らせるかのようだった。息詰まる沈黙を、先に破ったのはフィガロの方だった。
「オズの匂いがする」
静かな声だった。それだけに、どこか恐ろしいものがあった。
「スノウ様と、ホワイト様の匂いも」
賢者の体が微かに震えていた。
「俺をのけ者にして、みんなで何をしてたの?」
「ちがいます、フィガロ、聞いてください……」
「そんなに君の『具合』はいいんだ?」
怖い、と賢者は思った。けれど何に恐怖しているのか、自分のことなのに分からない。目の前にいるのは、こんなにも美しい微笑を浮かべた男だというのに。笑みを描いているのは唇だけで、その目は明らかに笑っていなかったが。
「どれくらい咥えこんで、この部屋に通してもらったの」
生温かい吐息が、賢者の唇に吹きかけられた。その感触に、頭の中が真っ白になる。快感のためではなかった。その証拠に、賢者の体の奥底を、小蝿が這い回るような寒気が走っていた。体に力が入らない。そう自覚する頃には、既にベッドの上に組み敷かれていた。
絡みつくシーツ。香水の匂い。覆いかぶさってきた体を押しのけようと、必死に伸ばしたつま先へ、宝石を散りばめた金細工が触れる。金属特有の、氷のように冷たい感触。ついさっきフィガロがベッドへ投げ捨てたものだと、そう気づく余裕は賢者になかった。
尊厳を奪うための性行為。そういうものが実在することを、賢者は知らなかった。悪趣味な物語の中にだけ登場する、フィクションなのだと、今この瞬間まで思い込んでいた。
賢者はもう、何も考えられなかった。シーツの上で、身を固くして、震える体を必死に抱きしめる。それしかできなかった。助けてくれる人も、慰めてくれる人もここにはいない。ゆっくりと、音も無く意識が遠のいていく。賢者はそれを、現実から逃れるための解離なのだろうと思った。
「そう」
静かな声がそう相槌を打った。同じ声だった。夢の中で、賢者に危害を加えようとした男のものと。
「そんな夢を見たんだね」
賢者は頷いた。彼は寝間着姿のまま、フィガロの部屋を訪れていた。窓の外は暗い。まだ明け方にもなっていなかった。
俯いたまま、手の甲で顔を拭う。肌寒い夜だというのに、彼の肌はじっとりと汗ばんでいた。目を覚ました直後は、もっとひどかった。水を浴びたように全身がぐっしょりと濡れていて、寝巻きがべっとりと肌に張り付くほどだった。
「あれは、夢ですよね」
賢者が問いかける。夢のあらましを全てフィガロに語った後だった。起きてすぐに、彼は自身の体を確かめた。強姦の跡は、どこにも無かった。あれは夢の中のできごとなのだ。そう思い込みたくて、それでも染みついた恐怖は拭えなかった。そして、フィガロのもとを訪れた。
賢者の問いかけは、答えを求めてのものではなかった。安堵を得たかったのだ。きっと肯定してくれるはずだろうと、あれが夢の中のできごとであると、断言して欲しかったのだ。しかし、その望みはあっさりと断たれた。
「うーん。どうだろうね」
「……え」
「だって、この世界は何が起こっても不思議じゃないだろう?」
フィガロは椅子から立ち上がると、ベッドに腰掛けた賢者の元へと近づく。目の前に立ったフィガロを、賢者がおそるおそる見上げた。恐怖が渦巻いた瞳で。フィガロは笑みを浮かべていた。完璧に整った微笑。
「過去の俺が、嫉妬したのかもね」
「……嫉妬?」
「こんなに可愛い子と仲良くしてる俺が羨ましくて、夢の中から干渉してきたのかもしれない」
「……そんなことができるんですか?」
いくら魔法が存在するとはいえ、信じがたい現象に思えた。過去の人間が、夢を隔てて干渉してくるなど。しかも、今この時間に生きている本人とは、違った意図を持って。
「前例は無いよ」
フィガロが静かな声で言う。しかしそれは賢者の心を軽くはさせなかった。あどけなさを残した両手が、また小刻みに震え始める。その手を、フィガロの白い手が包み込んだ。
「大丈夫。安心して。次にこんなことがないよう、俺がなんとかしてみせるから」
「でも……」
「それにね、その夢の中のことだって、俺なら忘れさせることもできるよ」
「……記憶を消すってことですか?」
「うん」
フィガロがにこりと笑う。善性に満ちた笑顔。
ひたひたと、賢者の中で蓄積されていく何かがあった。彼は、もっと別の言葉を期待していたように思えた。かけて欲しい言葉。しかしそれが、具体的にはどんなものなのかというのは、自分でもうまく思い描けなかった。
「それにね、賢者様」
生ぬるい手が、賢者の手を離れて、今度は彼の頬を這う。
「今の俺は優しいから、昔の俺みたいなことは絶対にしないよ」
「やさしい?」
「そう!」
フィガロが楽しげに答える。
「俺は優しい、南の国のお医者さんだから」