虚像の巣穴

 深紅の絨毯が敷き詰められたその部屋は、貴族の屋敷にある大広間のようなつくりをしていた。しかし、壁の端から端までが、額縁入りの肖像画で埋め尽くされているのを見ると、個人がコレクションを鑑賞するためか、もしくは何らかの権威付けのために用意された部屋であると誰もが察するだろう。
 ドクターはその部屋の真ん中に立ち、ぐるりと室内を見渡した。部屋は入り組んでおり、奥に続く廊下にまで絵が飾られているので、それだけでは肖像画すべてを把握することはできなかった。しかしそれでも、何やら圧倒されるものがある。この部屋、というより屋敷それ自体が、シルバーアッシュのものであると知っているからこそ、威圧じみたものを感じてしまうのかもしれない。
 シルバーアッシュの屋敷に泊まったこの日、「面白いものがある」と言われ、ドクターは奥まったこの部屋へと連れてこられた。面白いもの、という呼び方に、また源石氷晶の類だろうとドクターは思っていたのだが、それが絵画であるとは彼の予想を外れていた。
 何十枚もの肖像画には共通点があった。一枚の絵に一人しか描かれていないこと、そしてそのどれもが同じ人物を描いているのだろうという点だった。一部屋を占領する扱われ方を見るに、この家の初代当主だろうかと思いはするものの、少女じみた容貌をしたその姿は、シルバーアッシュの顔とは似ても似つかない。
 ドクターの背後で、誰かが足を止める。それがシルバーアッシュであると、振り返らずとも彼は分かっていた。普段響かせている革靴の音は、毛の長い絨毯に吸われたらしい。気配と衣擦れの音だけがそこに存在している。絵画を見上げたまま、背後の彼に向かってドクターは口を開いた。
「なんだかみんな私に似てるね」
「当然だろう。すべてお前を描かせたものだからな」
 ドクターはシルバーアッシュを振り返った。いつも通りの愛想のない顔がそこにあるだけだったが、彼が「冗談だ」と付け加えるのを期待して、無言でその顔を見つめ続けた。しかしその言葉が返ってくることはなく、ドクターは仕方なしに絵画に向き直ることにした。
「あんな服は着たことないよ」
 ドクターが指さす先には、イェラグの民族衣装らしき服を身に着けた彼の絵があった。他にも、見慣れた防護服を着た絵もあれば、エンヤが着ているような、宗教色の濃い恰好をしているものまである。
「そのままのお前を描かせたわけではない」
「どういうこと」
「お前の写真を見せたうえで、私の口から語って聞かせた情報や、イェラグの民が持っている印象まで含めて、絵の中に落とし込んで描くように命じた」
「ふうん」
 奇妙な心持ちのまま、ドクターはそれらを眺めた。これが自分だと言われると、そうかもしれない、とぼんやり納得し始めているところである。
 絵画の中の「彼」を、今一度観察する。少年と呼べる体つきをしていた。髪の色は淡く、目が大きい。抜けるように白い肌をしていて、特に袖口から覗く手首が特に顕著だった。肉つきは薄い。膝の上で組み合わされた指を見て、まるで実際にその手を握ったかのように、余分な肉の無さが伝わってくる。
 絵の中のドクターは、椅子に腰かけているか、胸から上を切り抜かれた姿でそこに存在している。浮かんでいる表情はひどく曖昧だ。わずかに微笑しているような、もしくは無表情にこちらを見つめているような、どちらとも取れる顔をしている。目元にかかる陰鬱とした影が、余計に感情を読み取りづらくしていた。
「腕のいい画家だね」
 本心からドクターはそう言った。これが自身に似ているのかは正直判断のつけようがなかったが、引き寄せられるものがあるのは確かだった。絵を見つめているだけで、額縁の向こうにある空気が、そのままこちらにまで流れ込んできそうな、そんな錯覚を抱かせてくる。見ている者にそうまで思わせるのは、画家として抜きんでた何かを持っているのだろう。
 ドクターは順々に、飾られた絵を見ていった。シルバーアッシュも、その後ろからついて行く。しかし彼の視線は、絵画ではなく「絵を鑑賞しているドクター」に向けられているのだろうと流石のドクターも気づいていた。見られること自体は、ロドスではいつものことだった。しかしここはシルバーアッシュの屋敷で、しかも二人きりなのだ。そして見せられているのが自分を描いた絵だと思うと、うさぎが捕食者の巣穴に連れ込まれ、調理された後の姿(シチュー、ステーキ、ジビエ、パイ)になった自分を見せつけられているような、形容しがたい不気味さがあった。
 防護服の下で、うっすらと汗ばんでいく肌を感じながら部屋の端まで来た。そこにも相変わらずドクターの絵が飾られているだけだったが、その一枚はどうにも他とは違う、違和感を抱かせるものだった。どこがどう、とはうまく言い表せない。他よりいくらか彩度が低いが、違和感のもとはそれだけではないだろう。そんな疑問を読み取ったのか、背後で笑みを含んだ声が言う。
「興味深い絵だろう?」
「そうでもないけど」
「他と何が違うのか、当ててみろ」
「どこも同じにしか見えない」
「数年後のお前が、どんな姿になっているか想像で描かせたものだ」
 は、とドクターは息を呑んだ。絵の中の彼を見る。確かにその通りだった。今までは少年らしい容貌をしていたのに、これに限っては「青年」と呼んでもいい姿をしている。今まで見てきた絵と、そう大きな違いがあるわけではない。しかし、落ち窪んだ目元や、乾燥してわずかに毛羽立った肌が、そうと感じさせるのだ。骨ばった手の甲に、少年のなめらかな肌の質感はない。表情の憂いは増していて、それが妙になまめかしくもあった。
 ドクターは、服の上から腕をさすった。皮膚の下のざわめきを抑え込もうとする。今まさに、この絵の通りの姿に、体が変質しようとしているようにえたのだ。そんなことが有るわけないと分かっているはずなのに。
「……腕のいい画家だね」
 他に言い返しも思いつかず、さっきの言葉を繰り返した。シルバーアッシュが、唇の端を吊り上げてこちらを見ている。絵の中の「彼」と、今目の前にいるドクターとを見比べるような目をしていた。

 この時点で嫌な予感がしていたが、ドクターは結局残りの肖像画も見て回ることにした。もう片側の端に向かう。そちらは廊下の奥へ続いていて、さっき室内で見渡した時には視界に入らなかった作品ばかりだ。こちらは、さっきよりもずいぶん分かりやすかった。絵の中で、白い膝小僧が露わになっている。半ズボンを履いているドクターの姿は、明らかに今より幼い姿をしていた。
「子供の頃の私かな」
「ああ」
 これも画家に想像で描かせたものであるのだろう。しかも、シルバーアッシュの理想と妄想を過度に含ませて。
 子供用のフォーマルスーツを着て、胸ポケットからは鮮やかに青いハンカチーフを覗かせている。その表情自体は、今までの絵とそう変わらない。微笑んでいるのかも曖昧な、大人びた顔をしてこちらを見つめ返している。なんとなく、無邪気にまっすぐ育つことが出来なかったのではないか、と思わせる雰囲気があった。
 その絵を見た瞬間に、ドクターはむず痒いような、不条理なものを目にした時のような感慨を抱いた。なぜなら、未来の姿は完全な空想上のものであるのに対し、幼少期の姿は確実に「事実」が存在していて、つまりはこれが完全なる捏造であるからだろう。そう、ドクターにも幼少期は確かに存在していたのだ。ただ、本人も忘れているというだけで。
「私でさえ、小さい頃のことなんて覚えてないのに」
 気になって、ケルシーに尋ねたこともあった。しかし彼女でさえ、バベル時代より前のことは知らないと言っていた。明らかな空白になっているそこへ、無理やり架空の記憶を押しつけられたように感じてしまう。
「調べて分かるのなら、そのままの姿で描かせただろうな」
 背後からかけられたその言葉に、なぜか背筋が寒くなるのを感じてドクターは身震いした。
 奥へ向かうほどに、絵の中の彼は幼くなっている。次の絵へ移ると、似たような恰好をしたドクターが赤い風船を手に立っていた。上半身と下半身を斜めに切るように影が大きくかぶさっていて、そのせいで風船が赤黒く染まっている。
 次の絵は、椅子に腰かけた姿だった。内腿に両手を挟んで、上目遣いにこちらへ視線を寄こしている。暇を持て余しているような、ふてくされた表情をしている。初めて子供らしい表情が表に出た気がして、空想上の存在だというのにドクターはなぜだか安堵を覚えた。
 しかしその安堵も、次の絵に移った瞬間に怯えへと変わった。その絵は、これまでの体裁とずいぶん違っていた。今までは、肖像画としての形式を保っていたのだが、その絵はどちらかというと、家族写真をそのまま絵に写し取ったようなものだった。
 本棚の前にドクターが立っている。本を一冊抱えており、はにかんだ笑顔を浮かべてこちらを見上げていた。ひどく子供らしい姿だった。膝頭に降り注ぐ陽射しや、足元の毛羽立った絨毯までが不快なほどに生々しい。空中に舞っている埃が光に透けて反射している。さっきまでの格式ばった絵とは明らかに違う、他人の家庭を勝手に盗み見ているような気がしてくる絵だった。
 これが、写真で撮られたものであったなら、むしろ微笑ましかったのかもしれない。まだ小さい頃の姿は家庭内で撮った写真だけで、大人しくできるようになってからは肖像画として記録するようになった、という風に。しかしこれは写真ではなく、一枚ごとに途方もない時間をかけて描き上げた絵であり、しかもここに描かれた光景はこの世に存在していないのだ。メインに据えられたドクターでさえ、こんな姿で存在していたのかも怪しい。それが、執着の異様さを浮き彫りにしていた。
 次の絵は、より幼くなったドクターが、鳥かごを覗き込んでいるものだった。手前に鳥かごがあり、大きく目を見開いた彼が、不思議そうに中を見つめている。籠の中に鳥はおらず、飛び散った羽根だけが散乱している。
 その次は、テーブルに着席している姿だ。手前には皿に盛られたクッキーが置かれているのだが、ドクターの視線はこちら側をぽかんと見るのに注がれている。大人用のテーブルに無理やり座らせられているのか、子供らしい肉つきをした両腕が、ぺたりとテーブルに押しつけられる形でようやく座った姿勢を維持できている。
 ドクターは、もうこれ以上見ていたくないと思った。廊下の先にはまだまだ絵画が飾られているものの、向かう足を押しとどめるように吐き気がこみ上げてくる。どうして肖像画じみた絵から一変して、こんなにも不気味さが増していったのか。それはおそらく、前者はドクターの姿のみを捏造していた絵だったのに対し、後者は彼がどんな風に生活していたのかまで綿密に作り上げようとしていたからだろう。
 この廊下の端までたどり着いた時、そこには胎児の姿をした自分が描かれている。ドクターはそんな気さえしていた。
「そろそろ戻らなきゃ」
 ドクターがそう切り出すと、意外にもシルバーアッシュは素直に受け入れた。
「もう夕食が用意されてる頃じゃない?」
 そう続けると、シルバーアッシュは何か言いたげな顔して、けれども口をつぐんだままそれ以上何も言わなかった。
 来た道を引き返す。額縁の中の彼の、成長を追うような形になった。それらを横目で見ながら、赤い絨毯を踏みしめていく。この続きを無理強いされなかったことに、ドクターはひどくほっとしていた。だから気が緩んだのだろうか。明らかに聞くべきではない言葉が口をついて出た。
「こんな風に私に育っていて欲しかった?」
 藪蛇だ、と気がついたのは言い終わってからだった。
「どうだろうな」
 摩耗した老人のような声だった。この一瞬のうちに、何十歳も老け込んでしまったかのようで、慌ててシルバーアッシュの表情を窺う。しかし年老いた彼がそこに立っているなんてことはなく、あの彫刻のように美しい横顔がそこにあるだけだった。視線に気がついた彼が、唇を歪めて笑う。自虐するような笑みだった。
「どうせただの一人遊びだ。お前に理想を押しつけるつもりはない」
 シルバーアッシュが絵画に向き直る。ドクターの視線から逃げるような仕草に見えたのは気のせいだろう。「ただ、」と彼が言葉を続ける。
「こうしていると、お前のすべてを知っているような気持ちになるだけだ」
 「それは君の気のせいだよ」ドクターはそう言おうとした。シルバーアッシュが絵として形にして、作り上げたドクターの幼少期はすべて妄想の産物で、それを知っているからといって他者よりドクターを理解していることにはならない。しかしそのことを、他でもない彼自身が理解しているだろうと考えて、ドクターはそれ以上追及しなかった。

 翌日、ドクターはまたあの画廊を訪れていた。特に深い意味はなく、もう一度だけ眺めて、それで見納めにしようと思っていた。さすがに廊下の奥にあったものまでは見る気になれなかったが、それ以外のものは目を通しておこうと思った。背後には、昨日の繰り返しのようにシルバーアッシュが立っている。普段は人が好き勝手出入りしないよう施錠されているため、彼に鍵を開けてもらったのだ。
 仰々しい額縁に飾られた、絵のひとつひとつを検分するように眺める。防護服を着た自分や、イェラグの民族衣装を身に着けた自分を。それらを見返してみても、やはりドクターは自分に似ているとは思えなかった。ただそこに描かれた自身の鼻梁や唇を、「こんな形をしているのか」と今初めて知ったように眺めるだけだった。
 初めて立ち入った時も感じたのだが、やはり妙に閉塞感のある部屋だ。四方を絵画で囲まれていることと、何十もの同じ顔が並んでいるせいだろうとドクターは推測していたのだが、それにしたって妙な重圧がある。この部屋だけ酸素が薄いのではないか、という疑問さえ出てきた。こうも白い顔に囲まれていれば、神経衰弱の一つくらい起こしていてもおかしくないが。
 ドクターには一番に見慣れた、防護服を着た絵の前でふいに立ち止まる。背後のシルバーアッシュを呼びつけ「ねえ」と切り出した。
「ひとつだけ提案があるんだけど」
「言ってみろ」
「私の隣に、君も描いてもらったらどう?」
 シルバーアッシュが目を瞬かせる。ドクターにとって、これはいい提案のように思えた。一人きりでこちらを見つめ返している肖像画より、家族写真のように二人一緒に並んでいる絵の方が、少なくとも不気味さは薄れるだろう。それに何より、趣旨が分かりやすい。シルバーアッシュが呆けるか死ぬかした後に、当主でも何でもない見知らぬ男の絵が発掘されるよりは客観的にましだ。
「全部描き直せってわけじゃなくてさ、もし次に描いてもらう機会があるならでいいし」
 そして、ドクターの頭の中には、きっとシルバーアッシュが喜ぶだろうという算段があった。昨日のシルバーアッシュの姿を顧みて、慰めたいというわけでもないのだが、彼の機嫌を良くしてやれるだろうという打算によるものだ。
 自分はシルバーアッシュに好かれている。その好意の種類はよく分からないが、それはドクターが確信をもって言える、数少ない自負だった。
 しかしその期待に反して、シルバーアッシュは探るような目をしてドクターを見つめ返している。ドクターは冷や汗をかいた。どうしてこんな目で見られる謂れがある? 彼に歩み寄ったつもりでいたのに。実際は何も理解できていなかったのだろうか。廊下の奥に飾られた、異様な絵のひとつひとつが思い出される。「その提案はありがたいが」とシルバーアッシュが口を開いた。
「それをできない理由がある」
「なんで」
「画家に一つ注文をつけていた」
 黒い革靴の先が、絵画の方を向く。
「絵の中にいるお前の視線の先には、必ず私がいるようにしろと」
 寒気がぞわりと体を走った。室内を見渡す。部屋一面に飾られた白い顔。そのどれもが、視線の先にシルバーアッシュがいる想定で描かれたものであると知った瞬間に、言いようのない恐怖が胸を満たした。
 額縁に閉じ込められた彼らの、わずかに微笑しているような、もしくは無表情にこちらを見つめているような、どちらとも取れる顔。白い手指や、額にかかる影も、全てシルバーアッシュの視界に収まった姿として描かれていたのだ。
 そして、この異様な閉塞感の理由もようやく分かった。ふたりきりの世界として完結した取り入る隙の無い絵に囲まれているのだから、息苦しくもなるだろう。シルバーアッシュは、自分以外の視線が絵の中に入り込むことさえ許せなかったのだろうか。彼がこの部屋にひとりきりになって、絵画と見つめ合う状況になったとすれば、それは絵に落とし込まれた光景が完璧に再現された空間になるのだろうと思った。
「気が触れているとでも言いたいのだろう?」
 その声を聞いて我に返る。ドクターはシルバーアッシュの顔を見つめ返したが、そこには何の感情も浮かんでいない。行きつくところまで行きついた人間のする目に思えた。その通りだね、と肯定したいのをこらえて、当たり障りのない返答をする。
「君が好きなようにしたらいいんじゃない」
「お前がイェラグに残ると言うなら、こんなことをする必要もなかった」
 恨みがましそうな声が言う。端正な顔がほんの一瞬、苦痛で歪んだように見えた。本当に「好きなように」していたのであれば、こうはならなかったという脅迫めいたものが言外に匂わされている。今この瞬間に縄で両手両足を縛られて、地下室に監禁されてもおかしくない空気だ。確かに、この部屋を訪れさえすれば、彼は仮初の「ドクター」と二人きりになれるのだろう。本物のドクターがイェラグにいなくとも。
 数日後にはロドスへ帰らなければならないドクターには、どんな返答もしようがない。一刻も早くこの部屋から立ち去りたい、と思いながらドクターは「絵の中の私と仲良くしなよ」と返した。どんな意図があってそう言ったのか本人にもよく分からなかったが、少なくとも憐みと怯えが含まれていたような気がしていた。