ヒースから向けられる好意について、うすうす勘づきながらも、心の中では否定していた。ただの思い込みだ、とか、親切にしてくれてるだけの彼に失礼だ、という風に。
「賢者さまは、恋人や伴侶を作る気はないんですか」
随分直接的に、ヒースにそう聞かれたことがある。夜、二人でバルコニーから中庭を見下ろしている時のことだった。夜風が冷たくて、寝巻きの隙間から冷たい空気が入り込んできた。「寒くありませんか」とヒースが時々尋ねてきたけど、こちらの露出した鎖骨や首筋に視線を向けていることへの言い訳のように感じられていた。
淡く蕩ける青い瞳に、焦燥が混じり始めたのはいつからだっただろう。向けられる好意に気づいてるはずだろう、と責め立てる視線。
「もう、こちらの世界に来て長いでしょう」
「長いって言っても、二年も経っていませんよ」
あの、大いなる厄災を無事退けることができて、もう半年は過ぎただろうか。集団生活を始める理由にあった「大いなる厄災の襲撃に備える」は、既に意味を失っていたけれど、全員がなんやかんや理由をつけて、いまだに魔法舎で暮らし続けていた。
「それでも、恋人を作るのに二年は十分な期間だと思います」
たしかにヒースの言う通りなのかもしれない。二年。正確には、一年半。恋愛を自分から遠いもののように処理しながら、この世界で生きてきたことを思い出す。
「俺、この世界では恋人も伴侶も作らないと思います」
「どうして」
「前の賢者さまは、俺が来る前に突然姿を消したでしょう」
大いなる厄災戦の途中で。
「多分、本人の意思で居なくなったんじゃなくて、なにかの力で不意に、この世界から消されたんだと思います。もしかしたら俺も、自分の意思に関係なく突然居なくなる可能性があります。そう思うと、大切な人は作れません」
この言葉は、ヒースを傷つけたかもしれない。彼から向けられる特別な感情を、真っ向から拒絶する言葉だからだ。あの整った顔が、悲しみで歪んでいるのを覚悟しながら視線を上げると、予想に反してヒースは真正面からこちらを見据えていた。何の感情も浮かんでいないように見える、透明なまなざし。不思議な気持ちで見つめ返していると、薄い唇がゆるやかに開いた。
「……それでも、賢者さまは、優しいから」
優しいから? 嫌な予感がした。褒められているはずなのに、これから脅迫されるのを待ち受けるような、奇妙なざわめきが胸をよぎった。
「賢者さまは優しいから、好きでいること自体は、許してくれますよね?」
ひたと見つめてくる瞳。心臓が早鐘を打つ。
「よく分からないけど、好きの、度合いにもよりますよ」
笑顔を作りながらぎこちなくそう返す。何事も無くこの場を収められる会話に持っていきたかった。ヒースは何も言わなかった。無言のまま、不意に距離を詰めた。驚いて後退する。すぐ壁に行く手を阻まれた。驚いて、悲鳴も上げられずにいるうちに、頬に手を添えられて、上を向かされる。普段、意識しないけれど、この子は自分より背が高かったことを、こちらを見下ろす青い目を見て思い出した。
「こういう意味の、好きだって言えば、伝わりますか」
ヒースの鼻先が、すぐそこまで迫る。慌てて顔を逸らした。唇が、触れ合いそうだったから。それを追いかけるように、彼の親指が唇に触れる。愛撫するようになぞる指先。こんなにも密着して唇を弄ばれるのは、キスしているのとほとんど同じように思えた。
「……本当は、唇同士でしたいです」
「あ、諦めてください」
「賢者さま、俺の顔を見て」
ぎゅうっと目を閉じて、ふるふると左右に首を振る。さっきだって、すぐ近くまで迫ったヒースの顔に、正気でいられる気がしなかった。ガラス細工のように整った、きれいな鼻梁や頬のライン。わずかな月明かりに照らされたそれらに、心を奪われそうになる。
「かわいい」
ほとんど独り言のように、ヒースが言った。
「賢者さまが俺の顔を好きなように、俺も、賢者さまのお顔が好きですよ」
顔が熱くなる。今まで彼に言われてきたどんな言葉よりも、羞恥を煽るもののようにに思えて、がむしゃらに腕を伸ばして、力任せに突き飛ばした。その場から一目散に逃げだす。自室に駆け込んで、ヒースが追いかけてくる気配がないことに安堵した。それでいて、もっと俺を引き留めてくれても良かったのに、と期待している自分も何故だかそこにいた。
翌日、何の依頼も無い日なのを良いことに、自室の床に座って、ぼんやりと宙を眺めて過ごしていた。机に向かう気にもならず、だからといって午前中からベッドで横になる気にもならない。こちらの世界に来てから、床に直接座る機会はあまりなかった。元の世界では、狭いアパートの中で床に座って暮らす生活だったので、自分としてはむしろこちらの方がなじみ深い。ベッドを背もたれ代わりにすると、より落ち着く感じがした。
「……」
昨晩のことを、考える。考えないようにしてるのに、熱を持った頭の芯が強制的に思い出させそうとする。本当に、あのヒースが迫ってきたんだろうか? 思慮深く控えめな彼だから、その好意に気づいていないフリをしていれば、彼もその想いを胸に秘めてくれるはずだと、高をくくっていた気がする。「恋人や伴侶を作る気はないんですか」彼の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
不意に、ドアをノックされた。時間的にカインかアーサーが、お昼に誘いに来たのかもしれない。そう思って返事をすると、現れたのはヒースだった。昨晩のことを思い出し、あ、と一瞬気まずさを覚えるものの、あの月明かりの下で見せたような翳りはその顔にはない。あまりに別人のようで、昨日のことは夢だったのだろうか、という疑問が浮かぶほどだった。それ故に、いつものように彼に声をかけることができた。
「なにかご用ですか」
「いえ、ただ、賢者さまとおしゃべりがしたくて」
お邪魔しますと言って、ヒースが隣に腰を下ろした。二人並んで、窓から差し込む日差しを頭から浴びる。
「賢者さまと会う前なら、こうやって床に座るのも抵抗を覚えたでしょうね」
「すみません」
「謝らせたかったわけじゃなくて、」
そう言いかけてから「賢者さまだって、俺の言いたいことは分かってるでしょう」と少しむくれたような声でヒースが言った。その、年相応の少年らしい口ぶりを、ひどく愛おしいものに感じた。日差しの中で、埃がきらきらと光っている。それを目で追いながら、いま隣を見たら、ヒースの顔がすごくきれいに見えるんだろうな、と思った。思ったから、隣を向けなかった。夜とは違う色をまとった横顔。偶然にも、昨晩バルコニーで話していた時と、同じ位置で並んでいることに気づく。再演。その言葉が頭をよぎった。
「傷になりますよ」
ヒースにそう声をかけられて、意識を取り戻す。彼の視線を追って、自分の指先を見た。無意識のうちに、人差し指の爪の脇を、親指の爪の先で抉っていたらしい。子供の頃からの癖だ。出来かけのささくれみたいに、そこだけ皮膚が白く毛羽立っている。
「癖なんですか?」
横から伸びてきた指先が、そっと賢者の指に添えられる。手袋をしているから、露出している肌は少ないはずなのに、まるで人形のそれのように、つくりものめいて美しい指だと分かる。わずかに露になっている手首の、日焼けとも色素沈着とも無縁そうな肌。なんとなく気恥ずかしくなって、ヒースの手からそっと逃れた。
「すみません、痛みましたか?」
「そうじゃないんですけど、ヒースの手が汚れる感じがして」
「汚れる?」
「ヒースの手はきれいだから」
「…………」
ヒースが何かを抑え込むみたいに、目を閉じて、開けた。その間の沈黙が居心地悪くて、傷の目立つ指を手の中に握りこむ。
「賢者さまはそういうところがありますよね」
「そういうところって?」
「俺に対して引け目を感じてるみたいな」
「それは……その通りじゃないですか」
ヒースはきれいで優しい。地位もあるし、それに見合う能力もある。
「俺は賢者さまのことは好きだけど、そういうところだけは嫌いなので、やめて欲しいです」
「そうは言われても、ヒースが俺よりきれいですごいのは、事実じゃないですか」
それに、と続ける。
「昔のヒースだって似たようなことを話していたでしょう。自分にはふさわしくないから申し訳なくなる、とか」
「…………」
ヒースは黙り込んで、代わりに俺の手に触れた。弱く握りこんでいた手が、そっとほどかれる。
「昨日の続きをしましょうか」
「え?」
白い顔が寄せられる。
「賢者さまのお顔のどんなところが好きか、具体的には言ってなかったなって思い出したので」
「あの、」
「お顔が小さくて、大きな目がそこに収まってて、女の子みたいな鼻梁をしてるところと、」
「ちょ、ちょっと待ってください」
距離を取ろうと後退したところで、背中が壁に当たる。逃げられない。一気に冷や汗が出た。そこへ覆いかぶさるようにして、ヒースがより距離を詰める。両手は絡めとられたままなので、ほとんど昨日と同じ、拘束されているようなものだった。
「あの、こういうのはやめてください!」
そう大きくはないけれど、ヒースを制するには十分すぎる声が喉から出た。目の前で、彫像めいた顔が叱られた子供のようにしょげかえる。それだけで、つい、流されそうになる。
「……すみません、つい」
素直に謝罪する声に余計に庇護欲を駆り立てられて、だから、言い訳をするみたいに、彼をかばう言葉が自然と出た。
「俺、ヒースのことが好きなので、こういう風にされると受け入れそうになるんです」
「…………」
「なんでもっと顔を近づけるんですか!」
ヒースの肩を押し返して叫ぶ。
「今のは賢者さまが悪いですよ」
「悪くない、悪くないです……」
ヒースが手を離し、距離を取ってくれたので、一応の安堵を得る。
「……賢者さまって、無理やりしたら、流されてくれそうですよね」
「む、無理やり……?」
「無理やり」
「何を、無理やりするんですか?」
「賢者さまが想像されている通りのことですよ」
ひどくいかがわしい妄想が思い浮かんで、頭の中で必死に否定する。
「なにかは分かりませんけど、やらないでくださいね」
ヒースはにこりともせずこちらを見つめている。美人の無表情って、かなり迫力があるんだなといま初めて気がついた。たとえ突拍子もないことを言われたとしても、二つ返事で受け入れてしまいそうな魔力が、整った顔の端々にある。
「ヒースにそうやって無理やり迫られたら、誰だってヒースのことが好きになっちゃいますよ。俺だけが流されやすいわけじゃないです」
「『誰だって』って言うのをやめてください」
彼にしてはめずらしく、ややきつい声色でそう言った。
「賢者さまって、俺に惹かれてるのを指摘されるたびに、その他大勢を引き合いに出して、自分に責任はないみたいに言いますよね」
「そんな、ただ、そう思ったから口に出してるだけで……」
そう言い訳するも、ヒースはじっとこちらを見つめるだけだ。いつもの彼ならば、俺が反論したら目を伏せて「すみません」と謝って、俺の意思を汲んでくれるだろうに。今は、逃げ道を一つずつ塞がれてるみたいで苦しい。
「今日のヒース、なんだか怖いです」
「あなたが、怖くさせてるんです」
仕切り直すように、ヒースが再度手を取った。ついさっきまで見せていたものとは違う、友人としての親しみを感じさせる触れ方。
「もうお昼ですね」
一緒に食堂へ行きましょう、と彼が言う。少し戸惑いながら、手を引かれるまま連れ出される。魔法舎の廊下。あたたかい日差しに包まれている。健全な空気の中に突然放り込まれたみたいな心地になりながら、何も言わず二人して食堂へ向かった。
それから数日経って、ヒースはいよいよ好意を隠さなくなった。二人きりになるたびに、さっきまでの穏やかな顔が嘘みたいに距離を詰めてくる。早まる鼓動の理由が、怖いからなのか、嬉しいからなのか、もう自分でもよく分からない。
いくら拒絶しても、収まる気配のないあれこれにもう万策尽きた気持ちになって、ヒースの目をかいくぐるように魔法舎を歩き回り、ようやくフィガロを見つけた。頼みたいことがあるんです、と言いながらその腕を取る。「うん? なあに?」と聞き返してくる声に途方もない安心感を得ながら話を切り出した。
「あの、フィガロってお医者さんですよね」
「そうだよ、南の優しいお医者さん」
「それなら、カウンセリングとかも得意ですか?」
フィガロが目をぱちくりさせた。あまり彼の予想にない言葉だったらしい。
「得意なのかな? よく頼られはするね。南の国でも色んな相談を受けてたし、まあ、ワルプルギスの夜も、実質的にはそうか」
「じゃあ、恋人同士の仲裁もできますか?」
「ん?」
「いや、まだ恋人ではないんですけど……」
「んん~?」
わざとらしく首をかしげてみせるその姿に、北に陰口を叩かれるのはこういう所なんだろうなと思いつつも、今はこの軽薄さが逆にありがたい。ヒースからたびたび迫られていることを、かいつまんで打ち明ける。フィガロとしても俺たち二人を取り巻く空気が変わっているのはぼんやり感じ取っていたようで、その説明をすぐに飲み込んだ。
「つまり賢者さまは、ヒースからの好意は嬉しいけど、そういう関係になるつもりはないから迷惑だって断りたいんだ?」
「そ、そこまで露悪的に言わなくても……」
「実際そうでしょ。さすが、悪女っぽいふるまいが板についてきたね」
「悪女……?」
俺は男ですよ。そう訂正すると「比喩ね、比喩」と冗談めかして言われた。
「まあ綺麗に言い換えると、ヒースの立場を思うとその告白は受け入れられないから、控えてくれるよう俺に仲裁して欲しいってことね」
「そう、そうです」
ようやく自分の気持ちを他人に言語化してもらえたのが嬉しくて、嚙みしめるように頷く。
「ねえ、賢者さま、気づいてる?」
「はい?」
「俺に間男役をやらせようとしてるんだけど」
「は!? え!?」
「あの子に手を出さないでって言わせようとしてるんでしょ。間男じゃない? それは」
「そっ、そんっ、そんな、そういう、つもりは……」
あまりに驚きすぎて、舌がうまく回らない。絶対に溺れない浅瀬で溺れかけてる人を見下ろしているような顔で、フィガロが続ける。
「第一、カウンセリングだの仲裁だのを頼むなら、こうなって欲しいっていう結論を先に出さないで臨むべきだと思うよ。俺にその結論ありきでお願いしてる時点で誘導尋問みたいになってるし」
あまりに正論すぎた。正論過ぎて、俺は何も反論できなかった。
「約束のこともあるし、ためらう気持ちは分かるよ。相手がヒースなら、遊びじゃなくて絶対に結婚を前提としたお付き合いだろうし」
「そう、そうなんです……」
「だから、それを踏まえたうえで君にアドバイスするんだけどさ」
「はい……」
「一回くらいキスかセックスをさせてあげたら?」
「なんでそんなこと言うんですか!?」
真剣に考えてください、と思わずフィガロの肩を掴んで揺さぶった。
「いやいや真剣なアドバイスだよ。だってヒースの気持ちになって考えてみなよ。普段、眉目秀麗で若い……いや若いのは半分くらいしかいないか。俺みたいに眉目秀麗で若そうな見た目をした男が二十人も想い人の周りにいるんだよ? で、その懸想相手は『美形の男に迫られたらすぐにクラッときます』って公言してるわけだ。さっさと自分がアプローチかけないと横取りされるって、必死に思うのは当然じゃない?」
「そんな……そういうものなんでしょうか……」
「賢者さまって他人のこと恋愛的に好きになったことないでしょ」
図星すぎて何も言えなかった。
「だから、そういうのをさせてあげて、他より抜け駆けできたって思わせてやりなさい。そうすれば一旦は収まるでしょ、たぶん」
「……フィガロって、人でなしなんじゃないでしょうか」
「君がそれを言う? 今この場では君がそっち側だと思うんだけど」
俺が人でなし側? どう考えても、相手をコントロールするためにキスや性行為を差し出す方がおかしいように思える。でも、世間一般には、相手の告白を断り続けて好意だけ搾取している俺の方が異常なのかもしれない。
「まあ、でも、どうしてもヒースを大人しくさせて欲しいって言うなら、俺がしてあげるよ。魔法舎の風紀を乱してるからやめてねって名目で注意してあげる。カインとかシノみたいな友人側の子には言わせたくないし、スノウ様やホワイト様みたいな立場が上すぎる人に注意させるのも角が立ちそうで嫌なんでしょ」
「はい……」
「でも、嫌われ役を任されるわけだから、その分の対価はもらうけどね」
「対価?」
自分の全財産を頭の中で計算する。
「いくらで受けてくれますか」
「お金じゃないよ」
「じゃあ、何で払えば……」
「キスかセックス」
冗談だろうと思って、フィガロの表情を窺う。しかし予想に反して、静かな目がこちらを見つめ返していた。
「どうするの? する? 俺と。ヒースとはまだしてないのに」
改めて、フィガロの顔を見る。自分はフィガロ相手にそれをできるんだろうか? そういう目で他人を見たことがないから全く想像がつかない。そもそもとして、ヒースへの説得を他人に任せるために、そこまで体を張る必要があるのか。成功するかどうかも分からないのに。そう思うとやはり見合っていない気がした。
「……保留でお願いします」
「それがいいよ」
さして惜しむ様子も見せずに肯定したので、フィガロとしても本気の提案ではなかったのだろう。結局、何も進展していない。自分の靴先を見下ろす俺のつむじを、冗談っぽくつつきながらフィガロが言う。
「最後に、年長者として賢者さまに三つ忠告をしてあげる」
「忠告ですか?」
内緒話をするみたいに、フィガロが身をかがめて顔を寄せてきた。
「一つ目、ここまで追い詰められる前に、近しい人に情報共有を兼ねて雑談ついでに話しておきなさい。人間関係由来のトラブルならそれだけで相手を牽制できるから」
「はい……」
「二つ目、こういう相談は密室で、誰にも聞かれないような場所でやること」
「……」
それは、本当にその通り過ぎた。今日は正論ばかり言われる日だ。
「三つ目、これが一番重要なんだけど」
「はい」
「君の背後にヒースが立ってるよ」
冷水を頭から浴びたみたいに、全身の血が一気に凍りつく。確かめたくないのに、体が振り返ろうとした。フィガロの言葉が嘘だという一パーセントにも満たない確率に賭けて。
「…………」
数歩ほど離れた場所に、ヒースが立っていた。ちょうど柱の影に覆われる位置で。白く整った顔。怖いほどに何の表情も浮かんでいない。どこか黒々としているように思える目が、こちらをじっと見つめていた。それを直視したくなくて、フィガロの方を中途半端に何度も振り返る。
「い、いったいいつから……」
「キスかセックスをさせてあげなよって、俺が提案したあたり?」
「な、なんで教えてくれなか……」
言い終わるのを待たずに、フィガロが俺の頭を掴んで、ぐるりとヒースの方へ向き直らせた。目の前に見慣れた青いシャツが映る。いつの間にか、ヒースが目の前にまで距離を詰めていた。ひ、と悲鳴が漏れる。覗き込むように俺を見つめる青い瞳。
「ありがとうございます。フィガロ先生」
こちらから視線を外さないまま、ヒースが言う。
「あとは俺が引き取りますので」
「そう? じゃ、そうしてくれるかな」
手首を掴まれて、ヒースに連行される。そう強い力でないのが余計に怖い。
「フィガロ、待って、助けてください……」
自分でも情けなくなるような声でフィガロに懇願するも「じゃあね、若い者同士で仲良くね」とさっさと立ち去られる。
「ああ、間男役が必要になったらいつでも言ってね。ちゃんと二人が燃え上がれるように演じてみせるから」
「お気遣いありがとうございます」
俺に聞かせるためだけに喋っているような二人の声が頭上を飛び交う。戦々恐々とはこういう状況を言うのだろうかと思った。
「談話室と俺の部屋、どちらがいいですか」
手を引かれながらヒースにそう聞かれる。「人目がある方と、そうじゃない方の、どちらで話しますか」と。
「……ヒースの部屋がいいです」
「いいんですか?」
少し苦笑しながら彼が言う。
「だって、本当にひどいことをするつもりなら、最初から俺に選ばせたりしないと思ったので……」
「……」
ヒースは少し黙って、「間を取って、賢者さまの部屋に行きましょうか」と変な提案をした。
見慣れた自分の部屋で、ベッドに並んで座る。彼とは、横並びになってばかりだなと感じた。向かい合っているより、隣り合っている時の方が多い。片手は、部屋に連行される時と同じように、ヒースの手に繋がれたまま、彼の膝の上に置かれていた。
「あの、ヒース、怒ってます?」
「怒ってますよ。でも、同時に申し訳ないなとも思ってます」
「どうして」
「他人の手を借りたいほど、俺の扱いに困ってたんですよね?」
「扱いに困るってほどでは……」
でも、こう言ってくれたという事は、これから少しは控えてくれるのだろうか。そんな期待を込めてちらと上目遣いに窺うと「それはそれとして、俺の恋人になって欲しい気持ちは変わらないので、これまで通り接します」と言われた。
「そ、そうなんですね……」
落胆する。それと同時に、ヒースからの好意が少しも損なわれていないと保証された気がして、少し嬉しくなる。いや、こういう思考回路がもうダメなんだろう。
「ずっと考えていたんです、賢者さまが前に言っていた、恋人を作らない理由について」
「前に……?」
「急にこの世界から居なくなるかもしれないから、大切な人は作れないって」
「ああ」
「正当な理由だとあの時は思ってました。だから反論できなかったけど、あれからずっと考えていて」
「うん」
「それって、『自分はいつか死ぬからあなたの告白は受けられない』って断るのと同じだなって」
「うん?」
意味が分からず顔を上げると、青い目と視線がかち合う。吸い込まれそうになる瞳。
「今までの賢者が全員、そうだった訳ではないでしょう。前の賢者さまだって、大いなる厄災っていう異例のことがなければ消えなかったかもしれなくて……。だから、賢者ならいつか必ず消えるわけでもないのに、賢者さまはそれを理由にしている」
「でも、起きたからにはその可能性は絶対にあるでしょう」
「それは他の人だって同じですよ。突然大病にかかるかもしれないし、事故死する可能性だってあります。誰だって少なからず突然この世から消える可能性を持っているのに、『いつか突然死んでしまうかもしれないから』という理由で告白やプロポーズを断る人がいますか?」
「うう……」
予想よりもずっと説得力のある反論に、狼狽える。
「ええと、じゃあ、寿命差が……ヒースに寂しい思いをさせるかもしれなくて……」
「恋人になれないまま、あなたが亡くなった後の世界を過ごすより、たった一瞬でもあなたにとってかけがえのない存在になれて、それを思い返しながら余生を過ごす方が俺はずっと幸せですよ」
また、驚くほど綺麗に言い返されて、口をつぐむ。逃げ道を一つずつ塞がれていく。気づけば出入り口が一つしかない部屋へ誘い込まれて、最後の鍵をヒースの手の中で弄ばれているような気がした。
「なんでそうポンポン反論を思いつくんですか……」
「俺、賢者さまのことをずっと考えてますから」
視線を落とすと、繋ぎあった二人の手が視界に入る。こうして追い詰められている時でさえ、ヒースの手頸は見惚れそうなほどに白くて綺麗だ。
「こんなことを言えばこう返してくるんだろうなって、いつも空想してるんです」
「……なら、俺がなかなか恋人にならないっていうのも想像できてたんじゃないですか」
「分かってるけど、それでも欲しいんです」
「顔を上げてください」とヒースが言う。抗ってもいいはずなのに、導かれるように従った。ゆらゆらと揺らめく、青い炎をひそませた瞳。そこに映る自分の姿を、今だけはっきりと見れた気がした。不安そうに、怯えるように、それでいてもっと追い詰められたいと求めているような表情の男。
「あなたが欲しいです」
一瞬たりとも視線を外さないまま、ヒースが言った。
「俺のものにしたいし、俺のものだって分からせたいです……。あなたにも、あなたの周りの人にも」
こらえきれずに、先に視線を外したのは俺の方だった。ヒースはそれを咎めない。伏せた目元までが熱い。
「もしそうなったとして……喧嘩別れしたり、ヒースが少しでも寂しい思いをする可能性があるなら、俺は恋人になりたくないです。俺のせいでヒースが傷つくくらいなら……」
「いやだな、そんな風に思われるのは」
困ったように笑う声。
「あなたに選んでもらえたら、俺がどれだけ喜ぶか知らないから、そんなことが言えるんですよ」
一番重要なことは、あなたに伝わらないんですね。そう呟く声にこちらを責めるような響きは少しもなくて、愛おしむみたいに話すから、余計に胸が苦しくなる。
もう片方の手も取られて、両手を包み込まれる。プロポーズかなにかみたいに。伏せた俺のまつ毛の上を、鼻梁を、唇の上を、ヒースの視線がいとおしげに撫でていくのを感じる。
「もし、賢者さまの挙げる理由を、全部説き伏せることができたら」
「……はい」
「その時は恋人になってもらえますか? 結婚を前提にしなくてもいいです。お試しでもいいです」
「いいんですか? ヒースはそれで」
「その頃にはもう、後戻りできないくらいには賢者さまのことを追い詰めてる予定なので」
そんな楽しそうに言うことじゃないでしょう。そう言ってくすくす笑うと、ヒースが「よかった」と零した。「俺と話してる時の賢者さま、最近ずっと困った顔にさせてばかりだったから」と。俺が少し笑っただけで、こんなに安堵してくれる人がいるんだ。そう思っただけで、なんだか泣きたくなるくらい嬉しくなった。
「あれ」
そんな声を耳にして、二人同時に振り返る。フィガロが廊下に立って、俺たちを見ていた。廊下奥の日陰から、日差しにあふれたバルコニーの方へと、背の高いシルエットが近づいてくる。
「もう仲直りできたんだ?」
「はい」
隣にいるヒースを上目遣いに見て、俺は答える。昼間、初夏の葉っぱをつけた木々をヒースと眺めていたところだった。日差しが降り注いで、まるでステンドグラス越しの光みたいに、俺たちの手や顔にうす緑色の影が落ちている。フィガロがより距離を詰めると、ヒースが俺の腰に手を回して、抱き寄せてきた。それを見てフィガロが吹き出す。
「ねえ、待って、警戒しないでよ」
「そうですよ。ヒース」
「でも、賢者さまに体で払わせようとしてました」
そういえば、そんなこともあったなと思い返す。
「で、どうなったの? キスかセックスはもうした?」
「してません」
「いつかします」
二人同時に答える。どちらの回答がどちらのものなのか、説明せずとも伝わるだろう。
「ふーん」
好奇心を隠さず、あからさまにじろじろと俺たちふたりを見る。ヒースが未だに警戒を解かないので、俺とだけ話す方向にシフトしたらしい彼が、俺に顔を寄せて尋ねる。
「ねえ、あれからどうやって口説き落とされたのか知らないけどさ、君の彼氏、なんか理詰めで話してきそうで嫌じゃない? 絶対束縛屋だよね」
「それは、否定しませんけど、そのくらい逃げ場をなくしてくれる方が、俺には合ってる気がします」
「へええ? まあ、解決したんならいいけどさ」
少し呆れた風にフィガロが笑う。長く生きてきた彼の目からは、ずいぶん愚かしいカップルに見えているのかもしれない。
「じゃあ、間男が必要になったらいつでも呼んでね。倦怠期でも喧嘩中でも、いい感じに助けてあげる」
「あの」
「ん?」
久しぶりにヒースの方から口を開いたので、フィガロがいかにも親切そうな笑顔を作って応える。臨戦態勢。そんな単語が何故だか頭に浮かんだ。
「賢者さまを口説きたいので、早くふたりきりにしてもらえませんか」
「ヒース!?」
「あっはははは。そっかそっか。もう俺のこと、恋敵にも思えないくらいの仲になっちゃったか」
お邪魔虫は退散するよ。そう言ってフィガロは廊下に戻っていった。白衣の裾が陰に溶け込んでいく。バルコニーからの日差しが眩しすぎて、彼の姿はすぐに見えなくなった。
「ヒース、あんまりフィガロに意地悪しないでください」
「賢者さまが俺の恋人になってくれた後なら、余裕を持って接しますよ」
「そうやって、全部俺に結びつけるんですから」
「しょうがないでしょう。早く、賢者さまを俺のものにしたいんです」
いつになったら、そうなってくれますか。木漏れ日の下で、溶けた青い瞳が俺を見据える。
「……俺以外の人に、意地悪しなくなったら考えます」
目を伏せる。ほつれて落ちてきた横髪を、手袋を外した白い指がすくいとって、俺の耳にかける。それだけでひどく胸がどきどきした。こうやって、お付き合いできない言い訳を口にするたびに、残弾が少なくなっていくような心地を覚える。それが全て説き伏せられてしまったら、もうヒースに抵抗する術がなくなってしまうから。
手探りでヒースから逃げ惑ううちに、道は少しずつ細くなっていく。その先にある小さな部屋で、自分はいつか、ヒースに追い詰められるのかもしれない。けれど、最後の逃げ場に鍵をかけるのが彼の手なら、それでも構わないと、どこかで思っている自分がいた。