衣擦れの音と、金具がこすれ合う音で目が覚めた。まだ少しぼんやりとする視界の中で、こちらに背を向けて着替えをするカインの姿がある。まだ夢を見ているような心地で、黙ってそれを眺めていると、カインがこちらに気づいた。
「悪い、起こしたか?」
それに首を左右に振って否定する。頬に触れる枕の感触が心地いい。
カインはそのまま、何を言うでもなく俺のことを見つめていた。俺も黙って見つめ返す。愛おしげに、慈しむようにこちらを見る甘やかな瞳。自分も、同じような表情をしているのだろう。唇が微笑の形を描いているのが分かる。どれくらいそうしていただろうか。寝乱れた前髪をそっとかき分けられて、額にキスを落とされる。
「また後でな」
それに何かしらの言葉をむにゃむにゃと返しながら、また目を閉じた。これから見るのが、幸せな夢だと決まり切っているような、ひどく満たされた気持ちで眠りに堕ちていった。
カインと同じベッドで寝るようになったのは、約一か月前のことだ。数日実家に帰省していた彼が、魔法舎に戻ってきた翌朝「背中が痛い」と朝食の席でぼやいていた。向かいに座っていたヒースが「本当に床で寝たの?」と呆れ半分、心配半分の顔で尋ねる。
「おい言うなよヒース!」
「え? 床?」
聞くと、魔法舎に帰ってきてから荷ほどきをした際、机の上はすでに物を置けないほど散らかっていたので、とりあえずベッドの上に荷物の大半を広げておいたら、そこで気力が尽きてしまったらしい。よく靴下が落ちている部屋だとは思っていたが、そんなにまでなるのか。でも、億劫がる気持ちは自分にも分かる。カインの表情を見ても、あと数日は放置しそうな気配があった。
「あの、よかったら片付くまでの間、俺のベッドを使いますか? 二人一緒に寝るので、狭くなりますけど」
他の魔法使い相手なら、こんな提案はしなかっただろう。でも、彼ならこちらの親切を、茶化したりからかったりせず、まっすぐに受け止めてくれる気がした。
「いいのか!?」
提案したこちらが驚くくらい、ぱっと目を輝かせてカインは言った。勢いに気圧されて、手にしていたフォークの先から、ぽとりと肉の切れ端が落ちる。
「床で寝るよりは体にいいと思うので……」
あまりの喜びように、なんとなく気恥ずかしくなって、切れ端をフォークの先で捉え直しながらぼそぼそと言った。途端に首へ腕を回され、引き寄せられる。
「本当に今日寝に行くからな? いいんだよな? 晶?」
噛みしめるようにそう聞いてくるので、こくこくと彼の懐で頷く。ゆるんだ口元を誤魔化すようにお肉を頬張った。「お前ら行儀が悪いぞ。ヒースを見習え」と近くの席にいたシノが言うのが聞こえた。
そうして、カインと同じベッドで眠る日々が始まった。予想通り、変にぎこちない空気になることもなく、十年来の友人とお泊りしているような空気で、自然と添い寝することができた。時々、布団の中でカインがくすぐってきたり、それをやり返したり、眠くなるまでお喋りしたりする。夜が更けてくると「あまりうるさくするとダメだから」と内緒話をするように耳元に唇を寄せて話した。肌を湿らせる温かい吐息。数日もしないうちに、カインが着替えを俺の部屋に置くようになった。以前は起きると自分の部屋に戻って着替えをしていたのに。聞くと、「部屋を出るギリギリまで晶の寝顔を眺めていたいから」と言う。
「明日、丸一日休みなんだ」
一週間ほど経った頃だろうか。カインにそう教えられた時、実は既にそのことを知っていた。自分から話題に出さなかったのは、この添い寝が無くなってしまう気がしたからだ。「久しぶりに時間が取れたから、ようやく片付けられそうでさ、明日からは自分の部屋で寝るよ」そんな風に切り出されそうな気がした。
「ゆっくり休めるといいですね」
「うん……」
彼にしては珍しく、口ごもりながらこちらの手を取って、落ち着かなさそうに弄んでいる。長い指先だなあ。それにすごく体温が高い。ぼんやりそう思っていると、カインが視線を合わせて「あのさ、」と言った。
「明日、俺が部屋を片付けても……」
「はい」
「また晶の部屋に寝に来てもいいか?」
まっすぐに、正面からそう言われて、胸が跳ねる。
「今みたいにってことですか?」
「今みたいに、毎日」
こちらを見つめる金色の瞳は、いよいよ懇願するような真剣さを帯びていて、ドキドキを通り越して、くらくらしてしまいそうだった。唇が自然に持ち上がって、むずがゆさを吐き出すように「うれしい」と自然に口にしていた。
「俺も、そうしたいって思ってたんです」
「本当か!?」
俺が頷くのと、カインが抱きしめてくるのはほぼ同時だった。かなり強い力で、体が半分カインに埋まってしまいそうなくらい、深く深く抱きしめられる。こんな風に俺を求めてくれる人がいるんだ。そう思うとあまりに幸せでどうにかなってしまいそうだった。今この瞬間、人生で一番、誰かに愛されている時間のような気がした。だから、怖くて仕方がなかった。いつかこの好意が、少しでも損なわれる日が来るのかと思ってしまったから。
クロエの爪は、他の魔法使いよりも少し伸びている。けれど、きれいな卵型に整えられたそれは、都会的な彼の格好に良く似合っていた。
「本当は短くした方がいいんだろうけど、つい面倒くさくて」
自分の指先を見下ろしながら彼が言う。
「あと、細かい作業をする時も爪が長い方が便利なんだよね」
「ああ、俺も玉結びとか玉留めは長い爪の方がやりやすかった気がします」
家庭科の授業を思い出しながらそう言うと、身を乗り出す勢いで「そう、そうなの!」とクロエが同意した。
「だから、いつも短くしてるカインは偉いなーって思っててさ。その……賢者さまと恋人になってからは、もっと深爪くらいに短くしてるし」
そうだっただろうか。確かに清潔感のある手指をしてるイメージがあったが、爪にまで意識を配ったことがなかった。カインといえば、あのころころ変わる表情や、抱き寄せられた時に感じる胸板や体の厚みの方に、意識を割かれるから。それはそれとして、気になることが一点。
「俺、カインと付き合ってませんよ」
「え……えええ~~~~!」
クロエが丸い瞳を、いっそう丸くしながら驚く。
「だってだって、ずっと一緒に寝てるんでしょ?」
「寝てるだけですよ」
「寝る以上のことも、してるんでしょ……?」
「まあ、キスとかはたまに……」
「えええ~~~~~~~!?!?!?」
「いや、ほっぺとかおでこにですよ」
「そうだとしても! だよ!?」
家族や友人の頬にキスをするなんて、洋画だとよくあることじゃないだろうか。こちらの世界で例えるなら、西の魔法使いならそれくらいするだろう、に当たるかもしれない。
「賢者さま、本当にカインと付き合ってないの? 賢者さまが自覚してないだけじゃないの?」
「だって告白とかもされてないですし……」
「でも……大人って『お付き合いしてください』って言わないで恋人になることもあるんでしょ? 俺は、大人の恋愛なんて全然分からないけど……」
それは、自分も分かっていない領域なので、そこを突かれると痛い。
「カインなら、ちゃんと言葉にして俺に伝えてくれるんじゃないですかね」
「そっか……そうかも……」
なぜかしゅんと気落ちしながら、クロエが呟く。クロエは、俺とカインに付き合っていて欲しいのかな。それを聞いて何かするわけでもないけれど、そう言って欲しい気持ちがした。不意に顔を上げたクロエと、視線がかち合う。奥に火の灯った紫色の瞳。その目には西の魔法使いらしい情熱が宿っていた。
「じゃあさ、もし、カインに付き合ってくださいって言われたら、賢者さまはOKする?」
「それは……もしそうなったら、嬉しいし、お付き合いしたいって思いますけど」
「けど?」
「カインが俺を好きかどうかは分からないじゃないですか」
「そんなことないよ!」
拳を作りながらクロエが言う。
「絶対、ぜーったい賢者さまのことが好きだよ!」
ぎゅうっと目を瞑り熱弁する姿に、可愛いなあとつい思ってしまう。ここまで熱弁されてるのに、どこか他人事のように思ってしまうのは、カインなら誰にだって好意的に接してくれるだろう、という気持ちがあるからかもしれない。
今日は南の訓練に同行する予定がある。クロエとの話を切り上げて、談話室を出ようとした。
「うわっ」
薄く開いていたドアをそっと押し退けると、向こうからそんな声が聞こえた。ドアのすぐそばに、びっくりした顔のカインが立っている。ああ、俺が見えてないから勝手に開いたように見えたのか。そう納得して彼に触れようと手を掲げた後、今朝くっついて寝てたのだからそんなはずないだろう、と気がつく。慌てて引っ込めようとした手を、カインの気さくなハイタッチが捕らえた。
「クロエとおしゃべりしてたのか? いいな。俺も早く来ればよかった。これから用事なんだろ?」
「はい。カインはこれから休憩ですか?」
「ああ。夜にまた話そうぜ」
手を振って別れた後、数歩進んだ後に談話室を振り返る。ドアの隙間から、部屋に入っていくカインの背中とどこかむずむずした顔でカインを待ち受けるクロエの姿が見えた。
「見てください」
そう言って、中央の街で買った新しい寝間着姿を披露する。暖かくなってきたので、半袖のパイル地のものにした。紺地に、猫の刺繍が小花柄みたいに散っている。
「可愛いよ。似合ってる」
カインがぱちぱちと拍手をしてくれたので満足して、シーツの上に座る。寝間着がぐしゃぐしゃにならないように、女の子がするみたいにズボンの裾を手で押さえながら座った。その仕草を、どこか眩しそうに見るカインの視線がくすぐったい。
「カインとくっついて寝るから、触ってて気持ちいい生地のを選んだんです」
「俺のために?」
「はい」
「ふうん」
そう言って、一瞬の間のあとに「背中も見たいから、もっかい立って、くるって回ってみてくれよ」とカインは言った。
「いや、それほどのものでは……」
自分で披露してきながら、そんなに期待のこもった目で見られるのは何だか決まりが悪い。彼の目から逃れるようにベッドの中にもぐりこんだ。顔まで毛布を引っ張り上げて隠すと「あ、こら、逃げるな」とカインも後を追って隣に入ってくる。ぴったりと密着した体。抱きしめられて、分厚い手のひらで頭を撫でられる。彼の胸に頬を押し当てながら、くすくすと笑った。毛布の外で、カインも笑っているのが分かる。大事にしたい。優しくしたい。その気持ちを隠さずにいれるのは、こんなにも満たされることなんだなと思った。
いつの間にか眠っていたらしい。深夜にふと目が覚める。身を起こし、隣を見下ろすと、カインの寝顔がそこにあった。彼の方が早起きなのもあって、寝顔を見れるのは珍しい。あらゆる表情が抜け落ちたその顔は、普段よりずっとあどけなく見えた。少し開いた口のせいもあるのかもしれない。
暗闇に目が慣れてくると、首筋に髪が数本張りついているのが分かった。よく見ると少し汗ばんでいる。カインは体温が高い。ただでさえ夏に近づいているのだ。彼にとっては少し蒸し暑いのかもしれない。夏の盛りになれば、寝苦しさを理由にして、こうして一緒に寝ることもなくなるのだろうか。それは自然な終わり方のように思えた。波風を立てず、習慣化していたことを終わらせるための、自然なきっかけ。
「…………」
いやな想像をしそうになって、思考を断ち切る。意味もなく部屋を出てトイレに向かった。ひんやりとした廊下の空気が心地いい。俺がいなくなった分、カインも少しは涼しく過ごせているだろう。今日はもう部屋に戻らずに、魔法舎中をぶらぶらしていても良いかもしれない。トイレで用を済ませる。ドアを開けて廊下に出た瞬間、こちらを見下ろす人影と鉢合わせた。
「ひっ!?」
頭一つ分高い影が、崩れるように俺にもたれかかってくる。両腕が俺の首に巻きついた。うすく汗ばんで火照った肌。
「どこ行ってたんだよ……」
少し掠れた声がして、ようやくそれが寝ぼけたカインだと気がついた。職業柄、少しの物音でも彼なら起きてしまうかもとは予想していたが、それにしたって追いかけて来るとは思っていなかった。
「すみません、トイレに……」
「寂しいだろ」
普段聞くことのない、不貞腐れた子供のような声。胸がきゅっと締めつけられる。
「すみません」
「うん……」
半分寝ている彼を、下手くそな二人三脚みたいに連れて、部屋に戻る。ベッドに寝かせてあげると、すぐに寝息を立て始めた。もう一度俺がトイレに立ったら、また追いかけて来るんだろうな。そう思いながら、子供っぽい寝顔をずっと眺めていた。
買い物に付き合って欲しい、とカインが言うので二人一緒に栄光の街へ出かけた。
「寝る時につける香水を選んでほしくてさ」
店先を覗きながらカインが言う。出店のひさしに遮られて、彼の顔に大きな影がかかる。その中で光る金色の瞳。
「カインって香水つけてましたっけ?」
「いや、あんたが俺のために寝間着を選んでくれただろ? それと同じで、晶の好きな香りを使ってやりたくてさ」
予想になかった理由で、思わず動揺する。
「俺、カインのそのままの匂いが好きですよ」
くっついた時に感じる、あたたかな肌の匂いや、うっすらとした汗の匂い。この一か月でずいぶん慣れ親しんだものたち。カインは少し頬を赤らめて「それは、嬉しいけど」と口を開く。
「でも、できるだけ晶の前ではかっこつけておきたいんだよ。分かるだろ?」
あやすように言われて、そういうものなのかな、と飲み込む。安眠作用がある方がいいのかな、とか、夏になるから重すぎない香りの方がいいですか、と隣にいるカインに尋ねていった。その一つ一つに答えていきながら、「晶が好きな香りなら、なんでもいいよ」と優しい声で彼が言う。小瓶を手に取って試す動作すべてを、カインが愛おしそうに見つめているのが分かる。
いくつか店を回って、一番いいなと思ったのが、オレンジとイランイランの香水だった。俺は好きだけど、カインがつけるには甘すぎるだろうか。自分の手首に付けてみて、試しに嗅いでみる。人肌の上だと、一層その甘さが強調されるように思えた。
「これ、どうですか?」
テスターを彼に差し出したつもりだったのだが、カインは俺の腕を手に取って、手首に顔を埋めるようにして匂いを嗅いだ。前髪の毛先が肌に触れて、その甘やかなざわめきに、ぞくりと体が熱くなる。
「甘いな」
顔を上げて、低い声で彼が言った。カインも自分の腕にテスターをつけてみせる。俺がまとっているのと同じ匂いが彼の身体から立ち昇っているのは、不思議な光景だった。
「好きな匂いだ。晶も気に入ったんだろ?」
「はい、カインには甘すぎるかなって不安だったんですけど」
「良かったら、しばらく取っておきましょうか」
俺もカインも、驚いて店の奥を見る。今までずっと気配を消すかのように黙っていた店主が、突然声をかけてきたからだ。前髪の長い、若い男性だ。やや顔を伏せて、帳面か何かを見ていたらしく、視線だけをこちらに向けている。
「ああ、じゃあ、そうさせてもらおうかな」
カインが返答し、「もし気に入ったら、次の休みに買いに来るよ」と言った。店主は聞き取りにくい声でぼそぼそとなにか返事をし(おそらく、肯定の意味だろう)また帳面に向き合い始めた。それ以降声をかけてくることもなくなり、なんとなく俺たちは追い出されたような気持ちで、そそくさと店を後にした。
「店先でいちゃつきすぎたかな」
少し歩いたあたりで、カインがぼやいた。傷のせいで相手の表情を窺い知れない彼にとっては、俺よりもきつく聞こえたのかもしれない。空気を変えたくて「でも、良い匂いでしたね、あの香水」と明るい声を作って言った。カインも頷く。
「他にいいのが見つからなかったら、来週またあの店に行こう。晶と寝る時につけるようにするよ」
「後で戻って買わないんですか?」
今日また買いに行くのはたしかに決まりが悪いけれど、二度手間にならないだろうか。
「だってそうすれば、あんたとまた一緒に出掛ける口実になるだろ?」
頬が熱くなる。また来週も、俺と一緒にいたいと思ってくれてるんだ。億劫じゃないか、と思いかけた自分を少し恥じた。ほぼ毎晩のように一緒に過ごして、お喋りして、それでも俺と一緒にいる時間が足りないと思っていそうな彼の姿に、甘酸っぱいものが口の中に広がっていく。
「分かりました。じゃあ、来週も……」
「うん。また来週もデートだな」
一緒に寝るようになってから、カインとの距離が一気に縮まっている気がする。一緒に過ごす時間が増えて、肌が触れ合う時間も増えて。たでも、それがいつか損なわれるとしたら? これから先、カインに特別な相手ができるなんてよくあることだ。幸せの絶頂にいる人たちは、いつか下降することをどうやって受け入れているのだろう?
「嫌かな」
「ううん。嬉しいです。こんなにずっと一緒にいるのに、また俺と出かけたいって、思ってくれてるとは思わなくて」
「なんだよ。当たり前だろ。晶は俺の気持ちを低く見積もりすぎだ」
カインが俺の手を取って、手を繋いだ。まるで何年も前からそうしていたかのように、ひどく自然な手つきで。
「俺はずっと晶と一緒にいたいと思ってるよ。時間が許すなら、ずっと」
川沿いに着く。手は繋いだままだった。もう日が落ちようとしている。暖かい季節になったとはいえ、夕方の風は肌寒い。オレンジ色の夕陽が、川の表面を舐めるように照らしている。カインの輪郭や鼻梁にも、その光が溶かし込まれていた。「そろそろ帰ろうか」カインが言う。
「あの、忘れ物をしたので、取りに行っていいですか」
「忘れ物? 俺も一緒に行くよ」
「いえ、すぐに戻るので」
そう言って、カインを残して駆け足で来た道を戻る。出店に戻って、あの香水を買ってきて、カインにプレゼントしようと思った。それと同時に、こうやって寝るのはもうやめにしよう、と切り出すつもりだった。カインにお金を出させた後では、言い出しにくくなる。これが最後のチャンスのように思えた。
息を切らせて店先に着くと、あの店主が顔を上げた。「あの、プレゼント用に包んでください」そう言って香水瓶を渡すと、全部承知してるかのように何も言わずに包装し始めた。
「さっきの人、彼氏なんですか?」
不意に、顔を上げて店主が聞いてきた。真正面から見る顔は、思っていたよりも幼い。なぜそんな質問を、と不思議に思いながら「いえ」と返す。
「へえ、じゃあ、まだなんですね」
まだ。一瞬、その言葉に頭が白くなる。冗談を言った風でもなく、茶化したわけでもなく、ごく当たり前のことのように彼は「まだ」と形容した。俺とカインを周りから見た時のすべてが、そこに詰まってるかのように思えた。
「お幸せに」
薬局の受付で「お大事に」と言うような温度感で、店主が言う。礼を述べて受け取ると、彼はまた手元の帳面に顔を戻していた。
戻った時、カインは川沿いの柵に寄りかかって俺を待っていた。駆け寄って、あまりに髪が乱れていたのか、彼の指先が横髪をすくいとって、耳にかけてくれる。「そんなに急がなくても良かったんだぞ」そう言った彼の視線が、俺の手元に引き寄せられる。もしかして、と彼が期待しているのがその瞳から伝わった。
「カイン、これ、さっきの香水です」
あなたにあげたくて。そう言って差し出した香水を、俺の両手ごとカインの手が包む。あたたかい手。
「いいのか?」
噛みしめるようにカインが言う。
「来週一緒に買おうって、言ったのに」
拗ねたような言葉に反して、彼の声には抑えきれない喜びが満ちていた。多分、言葉にしたくてもできないものが、そこにあるのだろう。俺にも分かる。そういうものを、俺はカインからいっぱい与えられてきたから。俺の手を包み込む指先の力はすごく強くて、そこにカインの想いが詰まっている気がした。だからこそ、胸が痛くなる。不誠実なことを、これからするような気がした。カインに対しても、さっきの店主に対しても。
「もう、一緒に寝るのをやめませんか」
なんでもないことのように言いたかったのに、声が震えるのを抑えられなかった。カインの反応が返ってくるまでに、数秒の間があった。呆然とした、感情の抜け落ちた声。
「なんで」
「だって、もう暑くなってきて、カインが寝苦しそうだったから」
おそるおそるカインの表情を窺う。今にも泣き出しそうな、傷ついた子供のような顔をしていた。まるで俺がいじめてるみたいだ。カインの両手から力が抜ける。まだ受け取ってもらえてない香水瓶を握ったまま、その手から逃れようとしたら、彼の両手が俺の肩を掴んだ。強く、指が食い込むほどに。
「俺、なにかしたかな。あるなら、直すから、晶が嫌なところ全部」
「そうじゃないんです。ただ、カインが、」
卑怯だ。理由をカインに押しつけている。そう思うと、涙がにじんで、本心が言葉となって自然とこぼれた。
「カインにいつか嫌われるのが怖くて、俺、」
「なんで俺が、晶を嫌いになるんだよ」
困惑した声。正論だった。カインに責められてるように感じて、涙がこぼれる。今この世界にあるすべてのものから、責められている気がした。
「晶、俺と付き合ってくれ」
懇願するような声で、カインが言う。
「ごめん。今までずっと、甘えてた。恋人になりたい。晶の恋人になりたいんだ、俺」
声が詰まって、うまく話せない。無言で首を左右に振った。カインの手が俺の涙を拭う。
「なんで。何がダメなんだ。教えてくれ、なんでもするから」
「俺は、カインに釣り合わないから」
「釣り合うとか釣り合わないとかじゃないだろ!」
怒鳴るように言われて、体がびくりと跳ねた。「なに、喧嘩?」近くにいた人たちが小声で囁き合うのが聞こえた。心配そうにこちらの様子を窺う、善良な視線。誰か呼んできた方がいいのかな。巡回中の騎士団の人とか。ねえ、でも、あの人って。
「晶が俺を好きかどうかが、一番大事なことなんだ。なあ、そうだろ!?」
体温の高い指に、涙が触れるたびに蒸発して消えていきそうだった。それでも、後からどんどん涙が溢れてくる。
「俺も、カインが好きです」
だから、こんな俺でも良いなら。それ以上は言葉にならなかったけれど、カインには十分伝わったらしい。
「俺も、晶が好きだ。世界で一番、あんたを愛してる」
これ以上ないほど、強い力で抱きしめられる。胸が押しつぶされて、呼吸さえ苦しい。
「大きい声出して、ごめん」
もう隙間もないほど密着した中で、くぐもったカインの声が言う。
「俺を恋人にして良かったって、絶対に思わせるから」
それなら、もう。そう言いたかったのにしゃくりあげる喉のせいで伝えられなかった。涙が彼の服に染み込んでいく。さっきまで不安そうに見守っていた人たちの中から、まばらな拍手が起こる。それは徐々に揃い始め、最後には映画のワンシーンのように、俺たちは祝福の声に包まれていた。
数日後、カインが新聞のとある一面をベッドの中に持ち込んでいた。
「中央の出版社のうちの、特にゴシップ色が強いところのやつでさ。まあ真偽不明なニュースも多くて、ほとんどの奴は暇つぶしに見る程度のとこなんだが……」
そう言って、ばさりと俺の前に広げてみせる。この世界の文字を読めない俺にとって、細かい記号の羅列にしか見えないそれを、カインが指でなぞりながら読み上げていった。
「某日、某元騎士団長が栄光の街の川沿いで……」
「わーーーーっ!!!!」
読まれずとも、その続きは予想できた。叫びながら、紙面を手で覆い隠す。カインが笑った。
「こ、こういうの、当事者に掲載許可とか取らないんですか!?」
「だよなあ。悪い奴らだ」
そう言いながらも、カインは嬉しそうににやにやするばかりだ。
「だから、今度抗議しに行こうぜ。二人一緒に行って、そいつらの前で手を繋ぎながら『今度俺たちを記事に取り上げる時は、事前に許可を取ってください』って」
「うう……」
まあ、栄光の街はこれ以上のゴシップがわんさかある、数日経てば消える話題だよ。カインがそう慰めてくれるけれど、頬の火照りは未だおさまりそうになかった。照れ隠しに「もう寝ましょう」と布団を引っ張り上げてもぐりこむと、カインも素直に従ってくれる。空気が閉じ込められた毛布の中で、柑橘系の甘い匂いが強く香った。明かりを消して、素足を絡ませ合った中で、カインが「なあ」とぼそりと呟く。
「みんなに知られるの、そんなに嫌かな」
うす暗闇の中で、その言葉はひどく寂しげに聞こえた。
「だって……もしカインと別れることになったら、みんなどんな反応するのかなって、つい思っちゃうんです」
「なんでそう悪いことばっかり考えるんだ」
カインは心底不思議そうに尋ねる。きっとこの点において、思考回路の根底そのものが、俺とカインで違うんだろうなと思った。
「言っただろ、俺を恋人にしてよかったって思わせるって」
「思ってます」
毛布を口元まで引っ張り上げたのに、その言葉はむしろはっきりと聞こえた。
「思ってるから、今が人生で一番幸せみたいに思えるから、余計に怖くなっちゃうんです」
「晶は、いつもそうやって俺を喜ばせてばかりだな」
別に本心を話しただけです。そう言おうと思ったけど、堂々巡りになりそうだからやめておいた。代わりに、カインのほっぺに鼻先を擦りつける。カインも俺を抱きしめて、やり返してきた。子猫同士の挨拶みたいに。唇の端と端が触れる。そのまま唇を合わせた。
俺たちを置いて、夜が深くなっていくのが分かる。今が人生で一番、誰かに愛されている時間のような気がした。きっとこれから何度もそう思うのだろう。そしてその度にありもしない結末に怯えるのかもしれない。でも、こうして愛おしげに触れてくる体温の高い指先が、それを忘れさせてくれるのなら、何度だって繰り返したいと思えた。