意識を取り戻した時、賢者がまず知覚したのは、自分の体の形だった。頭のてっぺんから手足の先に至るまで、体の全てが熱を帯びて茹っている。
いつもなら、ベッドの中に横たわっているこの体は、毛布と溶け合いそうなほどに、同じ温度にまでぬくもっているはずだった。けれど今は、ずっと寝そべっていたはずのシーツがひんやりと感じられるほどに、体が熱く燃えたぎっている。混沌とした賢者の頭の中に、サーモグラフィーのようにして自身の体の形だけがぼんやりと浮かび上がる。熱を吐き出したくて、重苦しい肺を必死に動かして、ようやく浅く息を吐いて、幾分か清涼な空気を体に取り込む。すると少しだけ、本当に少しだけ楽になった体は、うっすらと両目を開けて周囲の状況を知ることに余力を割けるようにまでなった。
霞んだ視界の中に、見慣れたクリーム色の天井が映る。そしてその次に、微風に柔くはためく白衣を視界の端に捉えた。反射的に目を向けた自身の利き手には、予想通り誰かの手が繋がれている。発熱した賢者の体温と混じり合うほどに、ずっと繋がれていたのだろうその白い手を見て、賢者は無意識のうちに、頭に思い浮かべた人物の名を口にした。
春風にさえ掻き消えてしまいそうなその声を、すぐそばに寄り添った彼は聞き逃さなかったらしい。応えるように、汗で額に張り付いた前髪が、冷えた指先でかきあげられる。露わになったおでこを、春のひやりとした風が撫でていく。熱を帯びた賢者の眼球が、こちらを見下ろしているだろう愛しい人の顔を一目見ようとする。陽炎のように揺らいだ視界の中で、賢者の目に飛び込んできたのは、白い肌、清潔そうなシャツ、薄く笑みを湛えた唇、そして、春の青空を烟らせたような、薄青の髪。困ったようにこちらを見つめる、眉を寄せた笑顔。優しげなその視線に、賢者は自身の間違いにすぐ気がついた。
熱く燃える頬の上を、生ぬるい涙が伝う。間違いに気づいた時、賢者がまず感じたのは、思い描いた人がそばに居なかったことへの悲しみではない。看病してくれていたフィガロを、突き放すような言葉を口にしてしまった。贖罪のように閉じたまぶたを、つめたい指の背がそっと撫でていく。「気にしないで」と言ったように感じられたのは、ただの思い上がりなのかもしれない。
次に賢者が目を覚ました時、熱は既に平熱ほどにまで下がり切っていた。賢者としては、すぐにでもベッドから飛び起きて、依頼やら討伐やらのために駆け回りたいほどだったのだが、魔法舎唯一の医者がそれを良しとしなかったのだからそれに従うしかない。
「もう、充分元気になったんですよ」と拗ねたように言う賢者の声に、そうだろうねえと穏やかな声が言う。しかし掛け布団の上へ置かれたフィガロの手は退く気配を見せなかった。
「でも、もうしばらく休んでおきなさい。元気なように思えても、消耗した体力は回復しきってないはずだからね」
その言葉を受けても尚、「でも」と起きあがろうとする賢者に、突然フィガロが覆い被さった。間近に迫った美しい顔に、賢者がヒュッと息を止める。医者としての仮面が剥がれて、悪戯っぽく細められた瞳の奥に、火照った自身の顔が映っているのが見えて、賢者はそれだけで目を逸らしたくなるほどに恥ずかしかった。柔い薄青の髪が、賢者の額に下りて絡みつく。すぐそばで囁かれた声は、溶けるように優しげな響きを持っていた。
「それとも、意地悪の仕返しって言った方が、素直に従ってくれる?」
それからはもう言うまでもない。賢者は数日先までベッドで大人しくすることを選び、賢者がフィガロに対して行った「アレ」は、高熱でうなされていた賢者の「意地悪」で「八つ当たり」ということに二人の間で収まった。別に当事者の二人以外知る事もない、ただの夢か記憶違いだったと済ませても良いはずのそれに落とし所を用意したのは、いかにもフィガロらしいことなのかもしれない。
1日のほとんどを、微睡んでは目を覚まし、また溶けるように眠るのを繰り返していた賢者は、気がつけば夜を迎えていた。汗を吸っていたはずのパジャマは、いつのまにか清潔なものに変わっている。おそらく魔法で換えてくれたのだろう。夜の心地よい涼しさの中で、賢者は僅かな期待を抱きながら、自身の隣をそっと伺った。そこには予想通り、冴え冴えとした赤髪をした男が、牙を収めた獅子のように目を閉じて横たわっていた。
体調が回復してからの数日間、こんな風にミスラが添い寝をしにくるのが、お決まりのようになっていた。正確に表すならば、添い寝をしに来ているのではなく、賢者の様子を見に来ている、と言うべきなのだろう。なにせ、たった今隣に横たわっているミスラは、賢者の体のどこにも触れていないのだ。
夜中に目を覚ました賢者が、隣に居座ってこちらをじっと凝視していたミスラの姿に仰天したあの日も、ミスラは賢者に触れていなかった。(数日間添い寝をされなかったから、寝不足なんだろう)と思った賢者が手を差し出しても、ミスラは「いりません」と言って毛布の中に手を入れ直したのだ。驚く賢者の前で、ミスラはやはり賢者の手を取らないまま、まるで飼い主を観察する猫のように、じっと隣で夜通し賢者を眺めていた。
(添い寝のためじゃないなら、何をしに来たんですか?)
何度もそう聞こうとして、賢者はその度に喉奥へ押し込んだ。こちらを見るミスラの瞳は、どこか祈りや懇願にも似た感情が含まれているように思えたのだ。ミスラ本人がその感情を知っていないとしても、賢者にはそう感じられた。だからこそ、隣に無言で居座るミスラを邪険にすることもできず、賢者は目を閉じてその視線を受け止め続けた。
初日はそんな風に動転していた賢者だったが、数日も続けば慣れてしまうものである。賢者はごろりと体ごとミスラに向き合って、その姿を静かに眺めた。明かりを灯していない部屋の中で、夜の藍色をたっぷりと含んだ白い肌は、どこか官能的な艶やかを帯びていた。長いまつ毛の先や、緩く閉じられた薄い唇の上などに、月明かりが水滴のように乗っている。僅かに寝乱れた髪は、どこか情事後のような色っぽさがあった。
賢者は、夜の冷えた空気を肺いっぱいに取り込みながら、こんなにも美しい人に添い寝されている事実に、改めて興奮を感じていた。世界中を探せば、ミスラと同じくらい美しい人は他にも居るかもしれない。けれど、夜の中でこんなにも鮮やかに居られる人は、きっとミスラただ一人だけなのだろうと賢者は思った。
賢者の衣擦れの音を受けてか、ミスラの目元に僅かに力が込められて、それからゆっくりとまぶたが持ち上がる。現れたミスラの瞳は、賢者に見つめられているのを知っても、少しも動揺を見せなかった。きっと、ただ目を閉じていただけで、その間ずっと賢者の気配を敏感に感じ取っていたのだろう。ミスラの唇が、気怠そうに開かれる。
「おはようございます」
こんな風に言いつつも、眠れていないミスラにとっては全くと言うほど「おはようございます」な状況ではないのだろう。それを思うたびに、奇妙な愛おしさを覚えながら賢者は「おはようございます」と返事をした。賢者は毛布の中から片手を出して、ミスラへそっと差し出した。
「いりませんか?」
「いりません」
もう何日も眠れていないだろうに、ミスラが賢者を見る目は穏やかだった。そっとベッドに仕舞われた手を名残惜しそうに見ることさえせずに、ミスラはのんびりと口を開く。
「あなたを見ているだけで十分です」
その言葉に、賢者は微笑みで返した。その言葉の意図は分からなかったが、こうして側に寄り添ってもらえてるだけでも、ミスラに何か特別なものを与えられているのだろうと賢者には分かった。
この数日間、ミスラは普段の添い寝のように、賢者へ寝物語やお喋りをねだることは無かった。ミスラが先ほど口にした、「十分」という言葉の通りなのかもしれない。きっと今のミスラは、眠れなくても退屈を凌げなくても、本当に賢者の姿を眺めているだけで満足なのだ。賢者もまた、自分から話すことはほとんど無いまま、じっと次の睡魔が訪れるのを待つ。閉じたまぶたやまつ毛の先にまで、ミスラの視線が這い回るのを感じながら、ただ静かに呼吸を繰り返す。
けれど、今夜のこの一瞬だけは、ほんの少しだけ違っていた。
「ミスラ」
凪いでいた水面に、爪先をそっと沈ませるような、そんな声だった。「はい」と穏やかな返事がされたのを聞いて、賢者の微笑がより深まる。賢者は声の静けさを変えないまま、囁くようにミスラに続ける。
「俺がうなされてる間、フィガロに看病されていたのを、知ってますか」
「ええ、忌々しいことに」
僅かに棘を帯びたフィガロへの声に、賢者は安堵を覚えた。自分の知っているミスラがようやく目の前に現れたような気がしたからだ。その心地よい「よく見知ったミスラ」を、これから自分の手で壊してしまうかもしれない可能性を、賢者は今一度噛み締めた。賢者は目を閉じたままミスラに言った。
「その時に、一度だけ、ミスラだと勘違いしたんです。そばに居たフィガロのことを」
空気が張り詰めるのを感じた。ミスラと賢者は、体のどこも、指先さえも触れ合っていない。けれど、清潔なシーツ越しに、ミスラの慟哭が伝わってくるような気がした。
「どうして」
静かな声だった。賢者への返答であるはずなのに、まるで独り言のような色を帯びていた。目を閉じていて良かった、と賢者は思った。ミスラの表情を見ていたら、自分が粉々になってしまうような気がしたからだ。痛々しいほどの沈黙の中で、微かに聞こえるミスラの呼吸は浅い。
衣擦れの音がした。ミスラがこちらに近づいてくる。体が触れ合う前に、賢者は言葉を続けた。触れ合った瞬間に、許しを乞うようにして、ありもしない言い訳をでっち上げてしまいそうな気がした。
「……手を、繋いでいたから……」
シーツの擦れる音が止まる。目を閉じている賢者は、ミスラが今どれくらいにまで近づいているのか、どんな表情で賢者を見つめているのか、予想さえつかない。
「フィガロが、手を握ってくれてたんです。多分俺が目を覚ますよりもずっと前から……。だから、ミスラだと思ったんです。俺と手を繋いでくれているのは、ミスラだって……」
ミスラの強張りが、徐々に溶けていく。暗闇越しでも、賢者にはそれが分かった。それと同時に、賢者の体が張り裂けてしまいそうなほど、ばくばくと鳴っていた鼓動も収まりつつあった。うなされている時の、自分の体が現実で無くなっていくような、限界まで意識が摩耗されていく感覚を確かについさっき感じていた。ミスラに嫌われてしまうかもしれない、というただそれだけのことで、賢者の心は引き絞られた弓のように張り詰めていた。賢者は再度、手を毛布の外に力なく投げ出した。汗ばんだ手に、外気が氷のように感じられる。
「手を、握ってくれますか、ミスラ……」
ミスラは答えなかった。賢者の手の中には、冷えた空気があるだけだった。萎みつつある花びらのように、中途半端に開かれた賢者の手が、自分以外の手を待ち続ける。受け止められただけで、許されてはいなかったのかもしれないと、賢者がまた恐怖を感じ始めた時になって、ようやくミスラの手がすべり込むように賢者の手に触れた。
賢者は反射的にその手を握り返した。ミスラの手は、いつも通り氷のように冷たい。数日ぶりに触れたはずなのに、骨張って硬い指や、やや広い指の股や、爪の先が皮膚を掠める感触が、驚くほど手に馴染んだ。
どうして打ち明けてしまったのだろう、と賢者は汗ばんだ薄い胸の中で、未だに浅く跳ねる心臓を押さえつける。賢者が言わなければ、ミスラはそれこそ一生知らないままでいれただろう。賢者とフィガロにしか知り得ない秘密として背負い続けていれば何事も無かったはずなのに。
もしかしたら自分は、やっぱり言い訳をしたかっただけなのかもしれない、と賢者は思った。ミスラへ抱いた罪悪感を消したいという、ひどく自分勝手な気持ちのために、ミスラを傷つけたのだろうか。
冷や汗が、賢者の背中を冷たく濡らす。ミスラと繋いでいる方の手が震え始めて、それすらも賢者を追い詰めた。きっとこの震えさえ、ミスラを傷つける。早く収めなければいけない。いや、理由を作って手を離す方が良いだろうか。凍えていく体の表面に反して、内側が恐怖とパニックで熱を帯びていく。引き剥がすように手を振り解こうとした賢者を止めたのは、静寂を裂いたミスラの声だった。
「あなたのこと、嫌いになんてなりませんから」
張り詰めた声だった。けれど、恐怖や慟哭が滲んでいるわけではなかった。例えるなら、置いてけぼりにされそうになったことを怒っている子供のような声だった。
「でも、少し驚きました」
そのせいか、続いた声は奇妙な間の悪さを持って、二人の間に落とされた。どこか子供の言い訳じみた、ぶつけ先の分からない言葉が、二人のどちらも受け止めることができず沈黙に転がっていく。
賢者は、くすくすという笑いが込み上げてくるのを我慢しなければならなかった。ミスラは未だに黙り続けていたが、「強がりじゃありません」と言いたくて仕方がないのが賢者にも分かった。
「手を繋いでくれて、ありがとうございます」
それからどれくらい経っただろうか。数十秒か数分か、どこか愉快でもある気まずい空気が消え失せて、互いの呼吸が穏やかに混じり合いつつあった時、賢者がぽつりと口にした。ミスラがむにゃむにゃと声を上げて、それが返事のつもりなのか寝言なのか分からないまま、賢者は繋いだ手を握り直した。ミスラの手はすっかり力が抜けていて、彼が睡魔に身を委ねているが分かる。
ミスラに「おやすみなさい」と言いながら、賢者はミスラが目を覚ました時、もう一度きちんと目を見て、お礼を言おうと思った。そして、フィガロに対しても。間違えたことの気まずさを理由にして、きちんと看病してくれたお礼を言っていなかったことに気がついたから。
賢者の指先から力が抜けて、握ったままのミスラの指と柔く擦れ合う。求めれば、手を繋いでくれる人がいるということは、きっと泣きたくなるほど幸せなのだろう。まぶたの裏が白く照らされていく。それが朝の日差しなのか、意識が睡魔で薄れていく証なのか判断するより先に、賢者は夢の中にゆっくりと落ちていった。