食堂に飾られている花は、ルチルやカナリアが定期的に替えているらしい。そう教えてもらった流れで「晶って、白い花が似合いそうだよな」とカインに言われたのがすべての始まりだった。朝食が終わって、みんなが部屋に戻った後も、晶とカインは食堂に残ってお喋りをしていた。キッチンの奥からはネロが洗い物をするひそやかな音が聞こえている。
「そうですか?」
「ああ。そんな感じがする。汚れてない感じっていうか、触れられない感じが」
「触れられない?」
カインらしくない不思議な例えに、晶は少しだけ笑った。
「カインとは毎日触ってるじゃないですか。朝一番にハイタッチして」
「いや、そうなんだけど。なんていうか、違うんだよ。触れられない、届かないっていうか……」
後半になるにつれて、カインの目がめずらしく、気恥ずかしそうにほんの少しだけ右往左往した。それが面白くて晶がじっと見つめていると、カインが椅子の背もたれ越しにキッチンを振り返って「分かるだろ? ネロ!」と大きな声で言った。姿は見えないまま、気だるげな声が返ってくる。
「はあ? 勘弁してくれよ……」
「聞いてたんじゃないのか?」
「わざと聞こえてないフリしてたんだよ。頼むから話を振ってくんな」
結局、ネロがカインの例えに同意も否定もしないまま会話は終わり「お二人さん、そういうのはお互いの部屋で、二人きりの時にやるもんだぜ」という言葉で二人は食堂から追い出された。
「あいつ、ちょっとくらい話を合わせてくれてもいいのに」
「でも、ネロらしいですよ」
ふたり並んで自室までの廊下を歩く。魔法舎の中は、朝特有の清潔な光で満ちていた。窓から差し込む穏やかな日差しには、何かが起こりそうな気配なんて欠片もない。だからこそ、「最近さ、」というカインの言葉を、晶は妙に唐突なものとして感じた。
「最近、よくああいうのをやっちまうんだよ。ダメだよな」
「ああいうのって?」
「晶と一緒にいるのを、見せつけるみたいな」
カインは立ち止まって、晶に向き直った。窓を背にする位置だったために、逆光で彼の顔に影がかかる。
「見せつける?」
「あんたと特別仲がいいんだって、そう思われたくて」
見せつける。カインの口から出るには、妙に馴染みのない言葉だった。
「俺とカインは、実際仲良しじゃないですか」
「でも、特別仲がいい訳じゃないだろ」
「特別……」
特別って、どんな風に。そう思った晶の心を読み取ったのか、カインが答える。
「この魔法舎の中で、晶と一番仲がいい魔法使いはって聞かれた時、みんなが俺の名前を出すし、晶も俺を指名するくらいの」
カインが、まっすぐに晶を見つめている。晶もその視線を正面から受け止めていた。けれど、カインの視線を、ここまで理解できないものとして受け止めたことは、今まで一度もないように思えた。
「今日のカイン、なんだか変ですよ」
晶はどう反応すればいいか分からなかった。変だなんて、嫌な言葉だとは思ったが、拒絶の言葉を吐かないと後戻りできないような気がした。
分厚い雲で太陽が遮られたのか、一瞬、カインの顔にかかる影がいっそう濃くなった。その瞬間、魂が抜けたような表情を、彼が見せたような気がした。けれど、日差しが戻る頃には、もういつもの彼に戻っていた。
「たしかに、変かもな」
カインの声は、怖いくらい静かだった。何かを思い出すみたいに、斜め上に一旦視線を向ける。よく見慣れた彼の仕草だった。
「昨日あんまり眠れなかったからかもしれない」
「珍しいですね」
「ああ」
「じゃあ、眠れるように俺が子守唄を歌うとか、頭を撫でたりしにいきましょうか。カインがベッドで横になってる間」
「おいおい。晶にそんなことされたら、俺が何をしでかすか分からないだろ」
そう返す頃にはもう、普段のカインに戻っていた。屈託なく笑う顔。「見せつける」という言葉は、やはりこの笑顔に似合わないような気がした。
その後、自室に戻った晶は、報告書の続きでもしようかと思いつつも、カインに投げかけた言葉を思い出して、手が止まっていた。壁越しに隣室を見る。なんの物音もしない。立って、壁に触れてみるも、勿論そこに体温なんて感じられなかった。
謝ろう、と晶は思った。「なんだか変」くらいで大袈裟な、友達同士のちょっとした冗談じゃないか、という声が自分の中から聞こえたが、それを振り払ってカインの部屋の前に立ち、ドアをノックする。
「すみません。カイン、今いいですか」
返事はなかった。どこかに出かけてしまったのかもしれない。彼のことだから、さっきの会話のことなんか忘れて、談話室でカードゲームにでも興じている可能性だってある。
「………………」
それなのに、許可なくこの部屋に立ち入ることを、何故だか期待されているような気がした。ドアの向こうで、カインがわざと呼びかけを無視して、晶の意思で部屋に入ってくることを、息を潜めて待っているのではないかと。
「失礼します……」
そっとドアを開けて、おそるおそる部屋に入ると、カインはベッドで横になっていた。こちらに背中を向けているうえに、髪が顔にかかっているため、その表情は窺い知れない。
仮眠を取っているのだろうか。本当に寝ているのなら、出直すべきかもしれない。
そう考えていると、脱ぎ散らかされた靴下が床に落ちていることに気づく。特に他意なくそれを見つめていると、不意に毛布からカインの腕がそろりと伸びて、靴下をベッド下のスペースに押し込んだ。彼はそのまま手を引っ込めると、何事もなかったかのように寝たふりを続けた。晶は思わず、笑いを噛み殺しながらカインに近づいた。
「あの、カイン」
「………」
「さっきはひどいことを言ってごめんなさい」
「言ってないだろ、そんなこと」
「言ったので、お詫びに何かさせてください」
カインは少しだけ黙り込んだ後に「じゃあ、少しだけ一緒に寝てくれないか」と言った。なんだか、ミスラみたいだな。添い寝を求められることに慣れている晶は、特に不審がることもなく慣れた手つきで毛布をめくった。
「いいですよ。お邪魔しますね」
カインの隣に体をすべり込ませる。一人用のベッドなので、添い寝をするには自然と彼の背中にぴったりくっつく形になった。カインが一瞬息を飲む。触れ合った体から、晶よりずっと早い鼓動が伝わってきた。
シーツからは、カインの匂いが強く立ち昇った。ベッドだけでなく、部屋全体に彼の気配と匂いが充満しているかのようだった。まるで動物の巣穴に迷い込んでしまったかのようで、その場合、自分はカインと同種の動物じゃなくて、捕食者にとっての獲物なんだろうな、となんとなく考えた。
ぼそ、とカインが何かを呟くのが聞こえた。
「なんですか?」
顎まで毛布を引っ張り上げているせいか、声が吸い込まれて聞き取りづらい。晶は少し伸び上がって、カインの肩に顔を埋めるようにして聞き返した。数秒の逡巡の後に、さっきよりいくらかはっきりした声で、カインが言う。
「俺、晶のことが好きだよ」
沈黙がその場に落ちた。あまりに真剣な声だったので、「誰かと間違えていませんか」と晶がそう尋ねたくなるほどだった。けれど、今日はもうこれ以上、カインを傷つけるべきではないと頭の中でブレーキが踏まれる。迷った末に、晶はこう返した。
「……俺も、カインのことは、好きですよ」
カインはこちらを向かないまま「うん」と毛布に消えていきそうな声で頷いた。そこからは、誰も何も喋らなかった。伝わる鼓動が徐々に緩やかなものに変わっていき、最後には小さな寝息を立ててカインは眠りに落ちた。
カインは俺のことが好きなのだろう。たしかに晶は以前からそう思っていたけれど、それは「他の大多数より」という前提があった。友情の枠を超えているだなんて思いもしなかった。けれど、カインのこの様子を見るに、どうしたってそれ以上の想いが込められている。
それでも、晶にはまだ信じられなかった。なにせ、カインに特別好かれるような要素が、自分には見当たらない。嫌な言い方をすれば、今までカインが出会ってきた人たちの中で、自分は「下位互換」でしかないように思える。
晶は起き上がり、カインの前髪をそっと手でかきあげた。子供のような寝顔があらわになる。元の造形が端正なだけに、余計にあどけなく見えた。なぜだか彼を騙しているような気がして、ひどく胸が痛んだ。
数日後、以前の花の話題から続いて「たまには自分たちも食堂に飾る花を摘んでこよう」という話になった。
「俺の部屋の窓から、白い花をつけた木が見えるんです」
昼前に、二人で魔法舎近くの森へと入る。きっと飾れば綺麗だろうと言って、その木を目当てにふたりはしばらく歩いていたが、どうにも見つかりそうにない。少し疲れて、そばにあった木の幹へ手をつく。それを見上げながら、晶は言った。
「俺の世界にも、白い花を咲かせる木があって、白木蓮って言うんです」
「ハクモクレン?」
「冬が終わったらすぐに咲く花で、白くて大ぶりできれいで、すぐに散っちゃうので、あまり長くは見れないんですけど」
元の世界を幻視しているかのように、晶は木を見上げたまま話した。カインは黙ってそれを聞いている。
「でも、ゴールデンウィークっていう、前に話しましたよね。長期休暇が取れる時期に、家族と北へ旅行に行ったんです。その頃には白木蓮は散ってるはずなんですけど、旅行先は地元より寒いからちょうど遅れて咲いてて、それがすごく嬉しくて、親には悪いけど、旅行先の一番の思い出がその花だったってことがあるんです」
話しながら、カインがどこか眩しそうな顔でこちらを見つめていることに気づいていた。あまりに愛おしそうなそれに、晶は気恥ずかしさを通り越して、苛立ちさえ感じ始める。だって、彼にここまで好かれるような存在だと、自分でも思えないから。その好意を跳ね除けて、カインを傷つけてやりたいとまで思いそうになる。
「いいな。晶がその花の近くに立っていたら、すごく似合いそうだ」
その言葉を聞いて、晶はカインの方を振り向いた。金の瞳と視線がかち合う。手を後ろで組んで、晶はやや前屈みになってその瞳を覗き込んだ。
「カインは俺の、どういうところが好きなんですか?」
「なんだよ、急に」
「前に教えてくれましたよね。俺のことが好きって」
そう言った瞬間に、カインの瞳孔が一気に開くのを晶は見た。目の奥で、火花じみた光が散る。好意があからさまになってから、カインはよくこういう目をするようになった。そのたびに、吸い込まれていくような心地を晶は感じていた。
「カインはそう言ってくれたけど、俺のどこが好きなのか、俺には全然分からないんです」
沢山あるだろ、となんだか真面目な顔をして、カインは指を折ってひとつずつ挙げ始めた。
「可愛いところ、子供っぽいのにしっかりしてるところ、頑張り屋で、人に礼を言うのを忘れなくて、俺たち魔法使いにも優しいところ……」
ありきたりな理由だ、と晶は思った。もう少し優しく表現するならば、誰の中にでもある美点に思えた。晶だけの、晶にしか無いものではない。その視線を悟ったのか、言葉を切って、カインが言う。
「あと、前にも言ったけどさ、こう、届かない感じが、見ていてドキドキする」
「届かない感じ」
復唱し、ああ、と晶は納得した。こんなにも完璧な男が、どうして自分を好きでいてくれるのか、という疑問。それが全て解決した。
カインの好意を絶対に受け入れない。自分の美点はそこに尽きるのだろう。なにせ自分は魔法舎の賢者だ。カインに好意を向けられたら、誰だってそれに飛びついて喜んで恋人になるだろうけど、立場を弁えている自分は、絶対にそれを受け入れられない。好意をあからさまにしても、絶対に手を出してこない安全地帯に見えているはずだ。そこまで自覚して、カインが好きになっているのかは分からないけど。
「それなら俺、カインのことは好きだけど、カインの恋人には絶対になりません」
「は? え? なんでだよ」
「だって、届かない感じがいいんですよね?」
「違う、そういう意味じゃないだろ」
珍しくカインが声を荒げた。自分でもそれに気づいたのか、はっとしてすぐに口を閉ざす。もし周囲に人がいたら、喧嘩でもしたのかと視線を集めていただろう。
「それに、本当は俺のこと、あんまり好きじゃないんだと思いますよ」
「どうしてそう思うんだ」
「だって……」
晶は言いかけて、自分は「だって」ばかりだな、と気がついた。まるで子供の癇癪みたいだ。こうやってカインの好意を無碍にしてる光景だって、ほとんど子供の癇癪だろう。口をつぐんだ晶に、何を思ったのか、カインが続ける。
「俺がどれだけ晶のことを好きか、知ったらきっと俺を怖がるよ。俺が毎日どんな夢を見てるのかなんて、想像もつかないだろ」
「どんな夢なんですか」
「……やらしい夢」
「どんな?」
「……晶が俺に、『して』ってせがんでくる……」
「何をするんですか?」
「教えたら、それこそ逮捕されて牢獄行きだ」
「じゃあ、ブラッドリーと二人暮らしになっちゃいますね」
「そうだよ!」
やけくそみたいに言うカインが面白くて、晶は少しだけ笑った。くすくす笑いがやがて抑えきれなくなり、体を折って声をあげて笑った。その様子を、戸惑った風に眺めていたカインが、晶の手を取ろうと腕を伸ばす。手を引っ込めてそれを避けると、露骨に傷ついた顔をしたので、晶はその手で逆に彼の頬を包んだ。一気に距離が縮まる。体温の高い肌。覗き込んだ先で、黒い瞳孔が開いた。その内側で燃える火。
「カインは、白じゃなくて、黄色い花が似合いそうですね」
そう言い残して、身を離そうとした瞬間に、分厚い手に両手首を掴まれた。え、と思って見上げると、してやったりという顔で、カインがこちらを見ていた。
「ほら、捕まえた」
「わっ」
「形勢逆転だ」
「わ、わっ」
ふりほどけるわけもなく、両手を持ち上げられたまま、後ろ足でなんとか後退する。不恰好なダンスみたいに二人で足をもつれさせていると、どすんと背後の木にぶつかった。木の幹と、カインに挟まれた形になる。両足の間に片足を入れられて、すり抜けることもできなくなり、密着した姿勢でカインに見下ろされる。彼の影にすっぽりと収まる形になって、余計に「逃げられない」と晶は思った。
「散々、俺を煽ってくれたよな」
「そ、そんなつもりじゃ……」
爛々とした瞳が近づく。ついさっきまでは、まだ優しさの残る笑みをしていたのに、今や獲物を見下ろす猛獣のような顔だ。
「……もっと、嫌そうな顔をすると思ってたのに」
手首を握る手に力が入る。頭上でひとまとめにされて、片手で押さえつけられた。
「本当はもっと追い詰められたいって顔してるな」
空いた方の指先で、晶の頬がくすぐられる。キスされるのかもしれない。そう思って、晶が目をぎゅっと閉じて顔を背けた時だった。
「あの〜……」
気まずそうな、申し訳なさそうな声。二人同時に声のした方を見る。そう離れていない場所で、クックロビンが所在なさげに立っていた。
「お昼の時間なので、呼びにきたんですけど……」
森の中、先を行くクックロビンの後ろを、晶とカインが付いていく。もう魔法舎の外観が見えるくらいの距離まで戻ってきていた。
「なんだかいい雰囲気で、お邪魔かなと思ったんですけど、その、途中から無理やりみたいな空気になっていましたので……」
「ああ。正しいよ」
「ですよね!? 良かった〜」
晶はあまりに気まずすぎて、クックロビンの言葉に何も返事をできずにいた。そんな彼とは対照的に、カインはむしろ機嫌が良さそうだ。邪魔された側はどちらかというと彼の方なのに、「認知させることができた」と言わんばかりの表情である。
「おふたりは付き合ってるんですか?」
「まだ付き合ってないです」
「まだ!?」
ここに来て初めて晶が返事をすると、クックロビンが驚いてこちらを振り返ってきた。失言に気づいて「付き合っていません!」と訂正する。
「そう、まだだよ。まだ」
それにカインが笑いながら付け加えた。
「いやあ、カナリアと付き合ったばかりの頃を思い出しますね。いや勿論、あんな風に迫ったことなんて、私にはないんですけど……」
話題が変わったことにほっとしながらも、確かに自分は煽りすぎたのかもしれない、と晶は反省した。ふたりの間だけの話で済むなら構わないが、広まってしまったらそれこそ困る。晶は本当に、恋人になる気はないのだから。隣を歩くカインをそっと横目で窺うと、前を向いていた目がすぐにこちらに気づいてかち合う。晶は慌てて目を逸らし、それからはクックロビンの背中だけを見て粛々と歩き続けた。
夢の中で、カインが前をくつろげてモノを取り出すと、晶の目が一気にとろりと溶けた。夢の中でさえ手に馴染みのあるそれは、女の子たちに散々長さや大きさを褒められてきたモノである。彼自身、そこに自分の価値を置いたことなど人生で一度も無かったけれど、それは晶への好意を自覚するまでの話だ。もし彼がここに重きを置くタイプであれば、いくらでも見せつけたいし、使ってやりたい、とカインは思っていた。何度か扱いて、晶の中に入れる。快感を拾う彼の、焦点の定まらない目が、よりカインを興奮させた。
「カインの、すごい」
吐息の合間にそう言いながら、晶は顔を腕で隠そうとした。それを無理やり引き剥がして、あらわになった表情を、隅々まで見ようとする。
「もう、カインのじゃないと、満足できないです」
潤んだ瞳は、いつも以上に甘く透き通って、カインの視線を捉えて離さない。汚したい、とカインは思った。その髪も顔もくちびるも、鎖骨も服の中も、全部汚して、誰のものにもなれなくさせてやりたかった。
「俺、魔法舎の魔法使いの中で……。ううん、今まで会った人たちの中で、カインが一番好きです」
「うん」
「カインが一番、優しくて、かっこよくて、俺のことを好きでいてくれてるから」
頭が焼き切れたみたいに熱くなる。もっと言って欲しい。自分が晶を一番好きでいるのと同じくらい、晶も自分を想っていて欲しい。それは叶わないことだと分かっているけれど、夢の中でくらい、理想の彼を投影したっていいはずだ。
「して」
声を上げすぎて、掠れた喉で晶が言う。
「早く、カインのものにしてください」
「俺だって、すぐにでもそうしたいよ」
下腹部から先端へと何かが駆け上がっていく。それをすべて晶の中に注ぎ込んだ。中に出せば出すほど、晶がカインのものであるという証拠になるようなルールの世界であるならば、いくらでも出していただろうなと彼は思った。
目を開ける。見慣れた天井が目の前にあった。白い朝の日差しが、嘲笑うように枕元へ降り注いでいる。身を起こし、自分の下半身を確認した後、数分かけて「用」を済ませてから、カインは身支度を始めた。
身を整え終えたカインが廊下に出る。すると、一瞬聞こえた足音が、すぐそばで不意にぴたりと止んだ。かかとよりつま先に比重を置いた、ひそやかな足音。傷の影響によって、以前より注意深く捉えるようになった耳が、ある一人を思い浮かべた。
「晶だな?」
声に笑みを含めながらカインが言った。夢の内容を振り払おうと努めながら、周囲を見渡す。わざと、カインに気づかれないようにしているらしい。堪えたくすくす笑いがどこからか聞こえてきそうだった。悟られないように、あからさまにあちこち視線をやりながら、気配を探る。
「分かった! ここだろ?」
「わっ」
何もない空間に手を伸ばすと、ちょうどベスト越しの胸板を鷲掴みする形になった。カインの視界に晶の姿が現れる。晶は自分の身を抱えるようにして、いたずらっぽく笑いながらカインを見た。
「わざとですよね?」
「誤解だって」
「本当はもっと際どいところに触ろうとしてた」
「違うよ。そりゃ、触りたいけど」
「カイン、」
晶が背中で手を組んで、カインを覗き込む。最近、こういう姿勢をよくしてるな、とカインは思った。普段より唇までの距離が近くなるから、自分としては嬉しいけれども。警戒されていない証拠のようで、カインにとってはそれも嬉しかった。
「俺、恋人にはならないから、早く諦めた方がいいですよ」
「またそれか。諦めるとか、もうそういう状態じゃないんだから、しょうがないだろ」
「そういう状態?」
「晶だって、今更俺のことを嫌いになれって言われたって、心の底から嫌いにはなれるか?」
そう言われ、晶は戸惑ったように目を伏せた。まっすぐに隙間なく生えたまつ毛と、それに縁取られた目元。頬の丸みと、少し尖らせたくちびる。
「それと同じで、俺は晶を好きなのを止められないよ。何かの拍子で嫌いになれるような状態はもうとっくに過ぎてる」
「いつ何があるか分からないじゃないですか」
「それを言うならあんたが心変わりして恋人になってくれる方が『いつ何があるか分からない』だろ」
そこまで言った後に「それにほら、『まだ付き合ってない』って言ったのは、晶の方じゃないか」
晶は一瞬、カインが何を言っているのか理解できずにいた。あの日、森から帰る道すがら、クックロビンに言ったことを指してるのだ、と気づいた瞬間に、頬をわずかに赤くする。
「言ってないです」
「じゃあクックロビンに確かめに行くか? 記録係の書記官が『言った』って証言するんだ。これ以上ないほど確実な証拠だよな」
「言ってませんってば」
少し潤んだ瞳で、晶がむくれた声で言う。もし、本当に晶が拒絶したなら、カインはすぐさま好意を隠していただろう。けど、少し上目遣いにカインを見つめる彼の目は、「もっと求められたい」と言っているように時々思える。それは喉の渇きに似た衝動を、よくカインに抱かせた。
「俺が一番、あんたを好きな自信があるのにな」
いつか晶に聞かせた言葉を、カインはもう一度口にした。以前よりずっと、慈しむような、切なげな色を溶かしながら。
「おいで、晶」
優しげな声を作って、カインが言う。両手を晶の方へ差し出した。もし懐に飛び込んで来てくれたら、一生離さないくらいの強さで抱きしめるつもりだった。晶は少し意気地になったような顔で首を左右に振る。その拒絶の仕方が、なんだか子供のようでカインはより愛おしくなった。
「分かった。なあ、晶。俺に優しくされると、もっと好きになりそうで怖いんだろ」
だから、そうやって意地を張ってるんだ。かなりの自信を持って、カインがそう言ったものの、言い終わるより先に晶が背を向けて駆け出していた。回れ右をする直前の、赤くなった頬と、火花が散るように明るくなった瞳。
「あ、こら、待てよ」
一拍遅れて追いかけたものの、元々の運動神経の差から、すぐにでも追いつける自信がカインにはあった。なので、いくらか余裕を残したまま、走り去る晶の背中に向かってカインが叫ぶ。
「なあ、当たりだろ!? 晶! 晶!」
まだ早朝の魔法舎の中を、カインのよく通る声が隙間なく響いていった。そこに続く、二人分の駆けていく足音。
遠ざかっていく賢者の白い上着が、カインの視界の中央で揺れる。白い花のように見えた。触れられないようで、届かないようで、いつか手の中に落ちてきてくれそうな白い花のように。