その日は雨が降っていた。雨の勢いは穏やかで、耳を澄ましてもさざなみのような音がするばかりだった。午後五時半。帰りの電車は息苦しいくらい混んでいた。
その時、晶はひどく落ち込んでいた。先生に怒鳴りつけられたとか、クラスメイトに仲間はずれにされたとか、そういうことが特別あったわけではない。けれど、自分は他の人よりも、気が利かなくてぼんやりしていて、一緒にいても楽しくない人間なんだろうなと、そう思っていたのだ。
家に帰るのがなんだか億劫で、しばらくの間、駅のベンチに腰掛けていた。駅の中の人混みは、どんどんまばらになっていく。台風警報が出ていたからだ。今はただの雨だけど、もう数時間もしないうちに天気が荒れると、地元のニュースが珍しく警戒を促していた。授業を早めに切り上げた学校もあったらしい。
気がつくと、駅の中は本当に人が少なくなっていた。数人がぽつぽつといるばかりである。たった今ホームから降りてきたらしい二、三人の大人が、ベンチの前を通り過ぎていく。そのうちの一人はちらりと晶を見た。人が居なくなった分、一人でベンチに座り込んでいる高校生というのが目立って見えるのかもしれない。そういえば、さっきから駅の職員がこちらを気にかけているように見える。もう台風が来るから、はやく帰りなさい。そう声をかけるタイミングを見計らっているのだろうか。
他人に迷惑をかけるのは嫌だった。だから、ちょうどベンチから腰を上げようとした瞬間、目の前に誰かが立った。晶は顔を上げる。綺麗な男の人だった。
「…………」
「こんばんは」
男は、髪も肌も色素が薄かった。ハーフなのかもしれない。暗い色のスーツを着ているから、余計に色白に見えるのだろうか。喪服みたいに暗い、濃紺のスーツだった。
普通の人じゃないんだろうな。まず最初にそう思った。少なくとも、通勤ラッシュの電車に乗ったりするような職業じゃない。だって、鞄を持ってないから。男は、にこやかに笑ってこう尋ねた。
「君、いくら?」
晶は最初、その言葉の意味が分からなかった。そして数秒後に、ああ、援交待ちだと思われたんだな、と理解した。それとも、パパ活アプリか何かを使って、ここで待ち合わせしてた子でもいたのかもしれない。男はまだ晶の前にいる。立ち去る気配は無い。本当に、「そういう子」だと思っているのだろうか。
「二十万です」
晶はそう答えた。冗談のつもりだったのだろうか。それとも、男を追い払いたかったのか。自分でもよく分からなかった。遠くで駅員がこちらを見ている。制服の下で嫌な汗をかいた。男は居なくなるだろうと思っていた。でも違った。
「そう」
そう言って、晶の手を取った。まるでお姫様を相手にしているみたいに。
「行こう」
男は冷たい手をしていた。晶は特に抵抗しなかった。家に帰るよりマシに思えた。憂鬱の種が、家にあるわけではない。家族仲は良好だ。しかし今、晶を一番必要としているのは家族でもクラスメイトでもなく、この男のように思えた。自分を求めてくれる人。
「ごめんね。傘は持ってないんだ。タクシーで行こう」
外に出る。雨の匂いがした。でもそれよりもっと強く、男のつけている香水の匂いがした。
「窓がある」
ホテルの部屋に着いた瞬間、晶が口にしたのはそんな言葉だった。
「そうだよ。嫌だった?」
男の質問に、晶は首を振る。
「ラブホは窓が無いって聞いてたので……」
「あはは。ガセだよ、それ。あるところはあるよ」
男は笑って、今日お勉強できて良かったね、と言った。お勉強。その言葉の選び方に、晶は何となく不思議な気持ちになった。
「シャワー、浴びた方がいいですか?」
晶が聞くと、男は少し考え込んだ。
「今日、学校で体育はあった?」
「はい」
「じゃあ、そのままでいて」
嗅がせてよ、と男は言った。晶はなぜかぞくぞくした。その物言いに。こんな風に、あからさまな言葉を使われたことなんてなかったから。
結局、二人ともシャワーは浴びなかった。晶はまず上半身から脱がされていった。
「きれいだね」
シャツの前を開けた晶の、鎖骨の辺りを見つめながら男は言った。晶は最初、この人に性欲なんてないんじゃないかと思った。だって、こうやって脱がせている時も男は興奮しているようには見えない。晶はじっとりと肌を汗ばませているのに。男の肌は未だに白く綺麗だ。
けれど、男と視線が絡み合った時、彼の瞳の奥に、何かたがが外れてしまっているような、燃えるような興奮の芽を晶は感じ取った。
この人は俺とやりたいんだ。そう思った時、彼はスーツ越しでもあからさまに膨らんだ、男のそれの存在に気がついた。布地を窮屈そうに押し上げている。晶はもう、下着以外の全てを脱がされていた。晶のものも、下着越しに緩く勃ち上がっている。男の指先が、布地の上からそれをなぞる。ゆっくりと、時間をかけて。痺れるような快感が晶の身を貫いた。
最初の射精は、背後から男に抱きしめられながらのものだった。
「汚れませんか」
ジャケットを脱いだくらいで、未だほとんど着衣でいる男に、晶は何だか恥ずかしくなってそう言った。早く脱げと催促したつもりだったが、男は「じゃあ後ろからしようか」と言った。
男に抱かれながら、背後からペニスを扱かれる。下着は既にずり下げられていた。晶は自分でも驚くほどに、快感をどんどん拾い上げていった。
「可愛いね」
男に耳元で囁かれる。ただ扱かれているだけなのに、なめらかな男の指先や、少し硬い関節で擦られるたび、気が狂いそうなほど気持ちよかった。
「お漏らししてるみたい」
その言葉通り、晶のペニスは失禁したかのように先走りでびしょびしょになっていた。あまりに気持ちよくて、男の手から逃れようと、無意識に腰を揺らす。それは傍目からだと、快感を拾うために腰を回しているように見えた。
「いやらしいね。もういっぱしの淫売だよ。赤ちゃんみたいな顔して」
晶は自分の体がコントロールできなくなっているのを自覚した。男に扱かれながら、頭をいやいやと振る。扱いている方とは別の手で先端もくすぐられる。
「ここが教室だと思ってごらん」
そう囁かれて、晶は射精した。シーツの上に精液が飛ぶ。晶はそのあと、男の前で四つん這いになって、シーツに散らばった自分の精液を舐めとるよう言いつけられた。
精液を舐め終わり、振り返ると男が電マを持って立っていた。部屋に備え付けのものを取ってきたらしい。
「これ、何か分かる?」
男がスイッチを入れる。器具が激しく振動し始める。晶は頷いた。スマホでネットを見ている時、広告の漫画なんかでよく見たものだ。名称までは知らなかったが、秘部に押しつけて快感を得るものだとは知っていた。
「良かった」
そう言って、男が晶の足首を掴む。乱暴な手つきだった。晶は思わずベッドの上で後ずさろうとした。けれどそれより前に、男が体を引き寄せ、電マを下腹部に押し付けた。無機質なモーター音。晶の頭が一気に白く染まった。
「あ、ああ、ぁ、ぁ」
「知らない子に使うのは、可哀想だから」
「あ、あ、あ、やだ、」
「嫌なら抵抗しなよ」
男が言う。たしかに男が掴んでいるのは片足だけで、それ以外の手足は自由だった。逃げ出そうと思えばできる。けれど、下腹部からの快感がそれを許さない。晶の手足は痺れたように力が抜けて、横たわっていることしかできない。シーツの上でぴくぴくと指先が跳ねる。男が掴んだ足首を上に持ち上げる。晶の秘部がより一層晒される。
「へえ。後ろもびくびくしてるよ」
晶の頭が、焼き切れたように熱くなる。耐え難い屈辱を感じた。けれどだからといって、体に力が入るわけでもない。
「よだれ垂れてるね。そんなに気持ちいい?」
「ぅ、ぁ、ぁ、ぁあ」
体が小刻みに跳ねる。脳天に向かって、電流のような快感が走った。晶は二度目の射精をした。一度目よりも、気持ちいいのか、そうでないのか、それすらもよく分からなかった。
「イってる時の顔、かわいいね」
男の声は一定のトーンを保っている。話しかけられているというより、何かの生活音を聞いているような心地が晶にはした。
「俺以外の人にも、褒められたことある?」
晶は首を左右に振った。そもそもとして、彼はセックス自体が初めてだった。
「良かった」
男が笑った。意外にも可愛らしい、無邪気な笑顔だった。
「喉渇いた?」
男が尋ねる。晶は頷いた。全身がじっとりと汗ばんでいる。男がスラックスのジッパーを下ろす。勃起したペニスが目の前に突き出された。
「じゃあ、舐めて」
「学校は楽しい?」
「そんなに……」
行為後、二人はソファーに並んで座っていた。男は煙草を吸って、晶は自販機で買ってもらったカルピスソーダを飲んでいた。
窓から見える景色は酷いことになっている。台風のせいで、土砂降りな上に風が強く、ほとんど横殴りの雨になっていた。電車が止まっちゃったから、友達の家に泊まる。晶はそう家族に連絡していた。
「会社、楽しいですか?」
晶からの問いかけに男は笑った。
「ごめん、つまんない質問して」
「嫌味で聞いたわけじゃないですよ」
晶はブレザーの内ポケットから、生徒手帳を取り出して男に差し出した。
「え?なに?」
そう言いながら、男が生徒手帳を受け取る。
「あなたが俺に個人情報を渡すのは、後が怖いからしないだろうなって」
「ああ、お巡りさんに捕まるのは怖いしね」
「だから、あなたのほうが覚えていてください」
それで、数年後にでも会いに来てください。多分楽しくお喋りできる気がするんです。
晶のその言葉は全くの本心からだった。少なくとも数年後、今より少しでも幸せになれた自分達が、たった一瞬でも普通の友達みたいにお喋りしたり気遣いあったりしている姿を想像できた気がするから。
「いやだな」
男が言った。「な」の形に吐き出された煙草の煙が宙を泳いだ。
「俺は君と、明日からでも仲良くするつもりだったのに」
何だか信じられないような気持ちで晶が男を見る。男が懐からスマホを出した。
「LINE交換しよう」
LINEで繋がり合った後、二人は無言で自分のスマホを見た。お互いのプロフを見ていたのだ。
「フィガロって、偽名ですか?」
「本名だよ。かっこいいでしょ。ねえ、これってそういうHN?線対象?若い子の間で流行ってるの?」
「本名です」
「まぎあきらくん」
「まさきあきらです」