答え合わせはお茶会のあと

「昔、付き合ってた人がいたんですよ」

お茶会の席で、ミスラの口から唐突に語られたその言葉に、賢者は一瞬固まってしまった。口元に運んでいる途中のティーカップが、中途半端な場所でぴたりと止まる。カップから溢れ出しそうなほどに揺れ動く紅茶は、まるで賢者の内面を表しているようだった。
賢者とミスラは、魔法舎の中庭でお茶会をしている最中だった。白いクロスをかけられた小さなティーテーブルは、まるでドールハウスから出てきたかのように可愛らしい。向かい合って座る二人のうち片方が手を伸ばしたら、相手に触れてしまえそうな程にコンパクトだ。
その上に、ティーセットと山盛りのクッキーが並んでいる。白地に金の装飾がされたティーセットは、魔法舎に備え付けられたものだろう。その横に、数十枚はあるだろうクッキーの山が置かれていた。ただ色んな種類のクッキーを大皿に盛りつけただけのそれは、華奢なティーセットにはあまり似合っていない。しかし、食いしん坊なミスラらしくはあった。
これらは全て、魔法で用意したのだろう。いつものように突然開かれたこのお茶会を楽しんでいた賢者は、上述したミスラの言葉に胸がざわめくのを感じた。しかしどうしてか、その動揺を表に出すのが憚れて、いつも通りの声を作って言葉を返した。
「そうなんですね。知りませんでした」
「……まあ、そうだと思ってましたけど」
ミスラの反応は、いつもとそう変わらない。無表情のまま、クッキーを次々頬張っていく。しかし賢者の方は、先程の動揺がまだ尾を引いていた。胃が締め付けられたような気がして、口に含もうとしていた紅茶をソーサーの上にそっと戻す。その際に、食器の擦れ合う音が意外にも大きく響いて、賢者の胸がひやりとした。
「……どんな人だったんですか?」
そう聞いてみたことに、特に深い意味は無かった。混乱する頭を落ち着かせようと、とにかく何かしてみたかったのかもしれない。本音を言えば、質問に答えて欲しくなかった。ミスラが興味を示さずに、さっさと別の話題に移ってくれたらと思っていた。しかしその期待に反して、ミスラはこの話題に食いついた。
「可愛い人でしたよ」
のんびりと、飴玉を舌先で転がすような声でそう返されて、賢者の胃がぎゅっと締めつけられる。先程飲み込んだクッキーのかけらが、喉を迫り上がって口の中に戻ってきそうな気さえした。
可愛い人。賢者は頭の中でその言葉を反芻する。ミスラに恋人が居たなんて、賢者にとっては思いもよらないことだった。ミスラと出会った頃であれば、素直に受け入れられたかもしれない。
チレッタについて恋人だったのかと問いかけて否定され、ミスラに恋焦がれて湖に身投げした少女の顛末を聞いて、恋人はいないと勝手に決めつけていただけなのに、賢者は裏切られたような気持ちにさえなっていた。
そんな賢者の様子に気がつかないまま、ミスラは言葉を続ける。
「よく、俺の名前を呼ぶ人でした。『ミスラ、何々しましょう』っていう風に、必要も無いのに何度も名前を呼んでいましたよ。俺はそれを聞くのが結構好きでした。綺麗な声をしていたので」
少しも照れ臭そうにすることなく、ミスラは淡々と話していく。それがむしろ、その恋人への好意が表れているような気がした。言葉の節々に、隠しきれない愛情が滲んでいる。どんな所が好きだったのか、明確に言語化できるほどにミスラが好意を認識している。それが何よりの証拠に思えた。
「あと、俺のことをよく知りたがる人でした。何が好きなのかとか、どんなことをしていたのかいつも聞いてきましたね。俺の生まれ育った場所を見せようとしたら、喜んでましたよ。連れて行こうとして握った手が、びっくりするくらい温かかったです」
ミスラは珍しく、流暢に喋っていた。堰を切ったように、という言葉が似合いそうなほどだ。次々と溢れていく言葉は、そのまま彼の愛情の大きさを示しているように思えた。
ミスラがゆらりと顔を上げる。さっきまで、テーブルの上をぼんやりと見つめていた目が、今度は宙へ向けられる。まるで緑色のビー玉のように、ひどく虚ろな、そしてどこか透き通った瞳は、おそらく記憶の中の恋人を見つめているのだろう。
「綺麗な人でした」
不意に吐き出された言葉は、この場にひどく浮いているように聞こえて、しかしミスラの本心からの言葉なのだと分かった。
「綺麗な手をしていました。肌も髪も、唇も、綺麗でした。綺麗な目をしていました。その中に俺が映っているのが嬉しかったです。あの人の後ろ姿を見ているだけでも、堪らなくなりました」
ミスラの声は徐々に熱を帯びていく。それに反して、賢者は自身が鬱々としていくのを自覚していた。
何故、嫌な気持ちになってしまうのだろう。昔のこととはいえ、ミスラには確かに愛し合った人がいる。それは祝福すべきことなのに、苦痛を感じている自分がいる。嫌悪と言ってもいい。自身でも気が付かないうちに抱いていた悪意が、ミスラの手で輪郭がはっきりとしていくような、そんなおぞましさがあった。
賢者の口の中に、苦いものが広がっていく。さっきまで紅茶やクッキーを口にしていたのが信じられないほどだった。目の前にある、少女的な白いクロスや、可愛らしいティーセットが、遠い世界のものに思える。自分の中にある悪意が、体を抜け出して現実にまで侵食しているかのようだった。
「……本当に、その人のことが好きだったんですね」
「ええ、好きでしたよ。愛してました」
賢者は僅かに唇の端を持ち上げてそう言った。ありきたりな言葉であると自分でも分かっていた。けれど、今返せる精一杯の言葉がこれだった。
ミスラは言葉を返すと、クッキーを一枚口の中に放り込んだ。しばらくの間、ミスラがクッキーを咀嚼する音だけがしていた。賢者も、紅茶を口に含むだけで何も言わなかった。その沈黙を破ったのはミスラの方だった。
「でも、そう思っていたのは俺だけだったんです」
不穏な言葉だった。一瞬で、不幸の影がティーテーブルの上に落ちた。
愛していた。でも、そう思っていたのはミスラだけだった。
その言葉を何度も反芻しながら、賢者は慎重に言葉を選んだ。ミスラを傷つけないように。
「……その人は、ミスラのことが好きじゃなかったんですか?」
「好きか嫌いかで言えば、好きだったと思います」
ミスラは視線を斜め上にやった。緑の目が過去をなぞるように動く。
「でも、付き合ってると思っていたのは俺だけでした。あの人は俺のことを、ただの友人だと思ってたみたいです」
つまりミスラが最初に言った「付き合ってた人がいたんです」という言葉は、「付き合ってた(つもりの)人がいたんです」という意味で言ったらしい。そもそもとしてその人とミスラは、恋人にすらなっていなかったのだ。
過去形で語られたのを聞いて、喧嘩別れか死別かしたのだろうと思っていた賢者は、拍子抜けしてしまった。
しかしそうなってくると、今度はミスラがひどく痛々しい存在に思えてくる。勘違いしていた彼が悪いのかもしれないが、恋人だと信じ込んで無邪気に好意を寄せていたのだろう。それがある日、関係を否定されたのだ。それはどれほどの痛みを伴っていただろうか。突然親に突き放された子供を前にしているような、じくじくと胸の痛む感覚が賢者の胸を塞ぐ。
「毎晩添い寝するくらいだから、絶対に俺のことが好きなんだろうと思ってたのに」
「添い寝!?」
賢者は思わず声を上げた。添い寝。それは普通に考えると、友人以上の相手としかしないのが普通の行為ではないだろうか。
賢者も毎晩のようにミスラに添い寝してやってるが、それは厄災の傷で眠れないためであり、つまり必要に迫られてやっていることだ。しかし、そのお相手は賢者と違い役目とか仕事を抜きにして、ミスラと同衾していたはずだ。それは、間違いなく友人以上の関係である気がする。
「あ、あの、ミスラはその人に直接言われたんですか?恋人じゃなくて友人だと思ってるって」
「言われてないです。他の魔法使いに指摘されて、確かに付き合ってる感じじゃないなって気が付きました」
「それは……」
それなら、望みがあるんじゃないか。
賢者はそう思った。さっきまで、その相手に嫉妬のような感情を抱いていた癖にそう弁解したくなった。ミスラの傷を少しでも癒せたら、と思ったのだ。
「……あの、もしかしたらなんですけど、その人はミスラのことを特別だと思ってたんじゃないでしょうか」
ミスラが顔を上げる。透き通った緑色の目が、正面から賢者を見据えた。
「添い寝って、少なくとも友人以上の関係じゃないとそうそうしないと思うんです」
「……そうですかね」
「そうですよ!だから、恋人じゃなかったとしても、その人はミスラのことを、えっと……恋人と同じくらい、特別に好きだったと思います……」
賢者の声が、徐々に小さくなっていく。ミスラを慰めたい一心で勢いよく喋り出したはいいものの、どんどん自信が無くなっていったためである。だって、賢者が口にしているのは結局ただの可能性の話だ。相手に直接聞いたわけでもないし、賢者はミスラからの言葉でしかその人を知らない。それなのに、こんな確証の無い話をしてしまうのは、その人にもミスラにもきっと失礼なのだろう。
賢者はテーブルの隅に視線を落とし、縮こまった。「知ったような口を聞かないでください」とミスラに返される覚悟もしていた。叱られるのを待つ子供のようになっていた賢者だったが、返ってきたのは驚くほどに澄んだ声だった。
「そうでしょうか」
ミスラがじっと、賢者の目を見つめている。普段は眠たげな目が、陽射しのためかはっきりと輝いて見えた。その瞳の中に、希望だとか、期待だとか、そういう感情が満ちているように思えた。しかしその両目が、不意にとろりと熱を帯びた。潤んでとろけたその眼差しは、まるで欲情しているように見えた。
「俺のことが、好き」
ミスラは、確かめるようにそう口にした。ゆっくりと、飴玉を転がすように言う。薄い唇の中で、桃色の舌がひらりと動くのが見えて、賢者は思わずどきりとした。
夢を見ているような眼差しのまま、ミスラは指先のジャムを舐めとった。クッキーにかかっていたイチゴのジャムだ。それを、指先からこそげ落とすように舌先が動く。
不思議な視線だった。ひもじいような、お腹が空いて堪らなくなっているような目だ。つい先程まで、お腹いっぱいクッキーを食べていたというのに、ひどく飢えを感じさせる目だった。どこか切なげにも思える目が、何故かクッキーではなく賢者をじっと見つめている。その、異様な迫力に、賢者は自身の体が強張るのを感じた。
「じゃあ、今から確かめてもいいんでしょうか」
「えっ」
その言葉に、賢者はたじろいだ。実を言うと、ミスラの言う想い人はとっくの昔に他界しているか、消息が分からなくなっていると思い込んでいた。彼の語り口から、かなり遠い昔の出来事のように感じていた。少なくとも、今から五十年ほどは前かと思っていた。
「そ、そうですね。もし居場所が分かっていたら、聞いてみてもいいと思います。その、相手が既婚者とかでないのなら……」
ミスラの目は、未だに賢者をじっと見つめていた。見ているというより、捉えているという方が正しい目つきだった。猛獣が、うまそうな小動物を前にした時の目だ。どうしてそんな目で見るんだろう、と賢者はバクバクと鳴る胸をこっそり手で押さえた。
ミスラの口が、ゆっくりと開く。一瞬だけ、ちろりと覗かせた舌先で唇を湿らせる。賢者はその舌に目を奪われた。薄い唇の中で、舌先が躊躇うようにちろちろと動く。どこか淫靡なその動きに視線を吸い寄せられたまま、ミスラが焦ったくなるような早さで、声を発した。
「あなたは__」
その瞬間、強い爆風が二人を包んだ。頭上から粉々になった石が落ちて、砂埃が舞い上がる。その汚れた風は一瞬だけ賢者の前髪を揺らしたが、一秒もしないうちにその感覚は止んだ。
上空からは、未だに爆風の名残が降りてきている。砂埃も、二人の足元でもうもうと巻き上がっていた。しかし、賢者とミスラはその被害を全く受けていなかった。白いテーブルクロスも、賢者の白い上着も、ミスラの白衣も、砂塵の中で一点の染みさえ作らなかった。テーブルクロスの裾も、強い風を受けてもひらりとたなびくことなく、まるで静止画のようにぴたりと止まったままだ。
ミスラが、守護の魔法をかけたのだ。
それに気づいた賢者は、反射的に瞑っていた目を開けて、爆風の根源を見上げた。魔法舎の外壁が、もくもくと煙を上げている。最上階の隅であるあそこは、おそらくオズの部屋だろう。まさか、ミスラを除いた北の魔法使い達がオズを襲撃したのだろうか。
そのうちに、他の階からもざわめきが聞こえ始める。事態を把握しきれていない魔法使い達の混乱が、魔法舎全体を包み始めていた。
賢者の背中が、冷や汗でじっとりと湿り始める。しばし呆然としていた彼は、はっと意識を取り戻して腰を浮かした。止めに行かなければならない。自分がその場に行ったって何もできないかもしれないけれど、魔法使い同士の喧嘩であれば仲裁くらいは出来るはずだ。そうして駆け出そうとした賢者の足が、不意に止まる。
「……ミスラ?」
いつのまにか、音もなくミスラが立ち上がっていた。賢者に背を向けて、混乱の原因を見上げている。白衣の裾が、風を受けてゆっくりと膨らんでいた。
「邪魔されました」
ひとりごとのように、ミスラはそう言った。叱られて不貞腐れた子供のような声だった。ミスラの手の中で、オーロラのような光が瞬いたかと思うと、水晶のドクロがそこにあった。
ミスラが賢者を振り返る。いつも通りの無表情であったが、有無を言わせぬ威圧感が目の奥にあった。
「ここで、待っていてください」
「でも」
「帰ってきたら、仕切り直しをするので」
一体何の仕切り直しなのか。それを賢者が問う前に、ミスラの足が地面を蹴っていた。3階のあたりまで、長身を翻して一気に跳躍する。その後は、風に乗るようにふわりと浮き上がった後、硝煙がもくもくと溢れている壁の中へとするりと入り込んでしまった。
そのうちに、窓ガラスが割れるような音と、怒鳴り声と、爆発音が次々に聞こえ始める。賢者はそこに立ち尽くしたまま、呆然と魔法舎を見上げていた。
賢者の頭の中に、ミスラの眼差しが思い浮かぶ。飢えた猛獣のような、今にも飛びかかってきそうな攻撃的な視線。賢者の胸がぞくりと疼く。あの目に見られただけで、足先から崩れ落ちてしまいそうなほどの興奮を感じた。
あの目で、一体何を「仕切り直し」するのだろう。
賢者の視界の端に、置き去りにされたティーテーブルが映る。食べかけのクッキーが放置されたそれは、どこか情事後のような生々しさを持っている。白いクロスにそっと指先を置きながら、賢者はせわしなく跳ねる心臓を落ち着かせようと、ゆっくりと呼吸を整え始めた。