することもないので、ミスラは退屈凌ぎに中央の市場へと足を伸ばした。ここは北の国と違って、いつ来ても人と出店で賑わっている。人生のほとんどを北の国で過ごしてきたミスラにとって、ひどく珍しい光景だ。ミスラは珍獣を眺めるような気持ちで、出店の奥にいる店主や、行き交う人々の姿をぼんやりと眺めていた。
しかし、物珍しいという気持ちは、時に居心地の悪さや落ち着かない気持ちを連想させるものである。今のミスラもまた、市場の喧騒に苛立ち始めていた。気晴らしに人を襲うことを思いついたが、双子に止められているのを思い出し、諦める。見つからないように殺すことだってできるが、ただの憂さ晴らしそこまで労力を割きたくないし、今日はあの双子に後をつけられている可能性がある。
ついさっき、市場へ出かけるために扉を生成しているところに、双子が偶然現れた。行き先をしつこく聞いてくるので正直に答えたところ、あの球体人形じみた顔をお互いに寄せ合って、くすくすと笑い始めた。そして、ミスラには聞こえない声量で何事か囁き合う。二人で頬を寄せ合い、指先を絡め合っているのに、目だけはミスラをじっと見つめているので、普段以上の嫌悪感が胸を迫り上がってくるのを感じた。あの双子が何を考えていたのか、今思い出してもさっぱり分からないが、もしかしたら今のミスラの様子を今も陰でうかがってるのかもしれない。そういった陰湿ないやらしさが、あの時の双子の視線には含まれていた。
双子のことを思い出すと、ミスラは余計にムカムカしてきた。魔法舎に戻ってしまおうか、とミスラが考えたところで、見慣れた後ろ姿が視界の端に映った。考えるより先に、ミスラの口が呪文を唱える。その小さな後ろ姿が消えていった路地裏に向けて転移する。陽の当たる市場の真ん中から、建物の間へと移動したために、視界が一気に暗くなる。薄青い影に包まれた路地裏の中で、目当ての人物はこちらに背を向けて立っていた。
晒されたうなじが、うっすら汗ばんでいるのが分かるほどまでミスラが近づいても、彼はミスラの存在に気がつかなかった。ミスラは物音を立てずに接近し、彼の首筋の匂いを嗅いだあと、おもむろに声をかけた。
「賢者様」
ミスラは、双子とのやり取りを思い出した。幼稚な生き物をいたぶる様なあの視線は、もしかしたら賢者との仲を邪心されてのことだったのかもしれない。もし賢者が市場に出かけたことを双子が前もって知っていたのなら、ミスラの行動は賢者に会うのが目的のように見えただろう。その馬鹿馬鹿しい発想に苛立ちを感じたが、しかし実際賢者の姿を見かけたミスラは、こうして賢者の後を追っている。
「……わっ!?ミスラ!?」
過剰に思えるほど肩を跳ねさせた賢者は、勢いよく背後のミスラを振り返った。その瞬間、賢者の前髪が跳ねるのに合わせて、妙に甘い香りがミスラの鼻を掠めた。それはまるで、腐り落ちる直前の果実が醸し出す匂いにも似た、息苦しいほどに甘ったるい香りだった。賢者には不釣り合いにも思えるその香りにミスラが戸惑った後、賢者が胸に抱えている紙袋に視線が吸い寄せられる。どうやら、匂いの根源はここにあるらしい。
「ミスラも、市場に来てたんですね」
「何ですか、それ」
賢者と声が重なったが、ミスラは譲り合うことはせずそのまま紙袋を指さした。賢者は特別気を悪くした風はなく、紙袋の中身を見せる。
「水蜜桃です。さっき露店で買ったばかりなんですよ」
賢者の手の中にある果実は、ミスラにも見覚えがあった。薄だいだい色と薄ぴんく色のグラデーションをした、上気した人間の頬のような丸い果実だ。建物の隙間から注がれた僅かな光によって、賢者の手元が照らされる。果実の皮の表面にみっしりと生えそろったうぶ毛が光の中に浮かび上がって、より人間の皮膚のような印象をミスラに与えた。
顔を寄せなくても、その果実がさせている瑞々しい香りはミスラの鼻に届いた。果実を掴んでいる賢者の指に沿うようにして、皮越しの果肉がゆるく凹んでいる。ミスラが唾を飲み込む音が、賢者の耳に届いた。それを聞いた賢者は、他意のない完全な善意からミスラにこう提案した。
「よかったら、ミスラも食べませんか」
そう言って、ミスラの手に果実を一つ渡す。自分もまた、紙袋の中から新しく水蜜桃を一つ取り出した。
ミスラが与えられた礼を言う間もなく桃にかぶりついたのを見て、賢者は微笑み自分もまた桃に口を寄せる。今にも汁が滴りそうなその果実に気を取られている賢者は、ミスラの視線が水蜜桃ではなく自分に向けられていることに気がつかなかった。
ミスラは皮を剥くことなく、その果実に歯を立てた。ざらりとした感触の後、ぶつりと皮膚が千切れていくような手応えが歯に加わる。まるで底無し沼のように、獣の歯が瑞々しい果肉に沈み込んでいく。片手で支えられるほど小さな器に収まっていたとは思えないほどの、おびただしい量の果汁がミスラの口の中に溢れる。頬いっぱいに満ちたその汁のせいで、生臭さを感じるほど甘ったるい香りが鼻を抜けていく。
ミスラの体は確かに水蜜桃を貪っていたが、その思考は桃ではなく目の前の賢者に注がれていた。賢者はミスラの目の前で、手にした水蜜桃へそっと顔を寄せた。閉ざされた小さな口が僅かに弛んだかと思うと、合わさった唇の間から触手じみた赤い舌がぬるりと顔を出した。それは乾いた唇をそっと撫でると、目の前の美食への期待に舌先を震わせて、また唇の奥へと潜り込んでいく。その一連の動作をじっと見つめていたミスラは、唾液と舌でぐずぐずに溶けきっていた果肉を奥歯ですり潰し、音を立てながら嚥下した。ミスラの喉奥へ押し込まれた水蜜桃は、崩れ切った実の奥に僅かな繊維質を感じさせながら、食道を滑り落ちていく。
ミスラが桃を半分ほど食べ終わった頃に、ようやく賢者は桃の皮を剥き始めた。爪を切り揃えた清潔そうな指が、薄だいだい色をした皮膚の上を這う。そして、見ている方が焦ったくなるような動きで、皮のつなぎ目にそっと爪を立てた。糸をほつれさせるように、爪の先でカリカリと皮を掻いていく。そうしているうちに皮がぷつりと切れて、そこから白い果肉が顔を出した時、透明な汁が傷口からぷくりと溢れ、賢者の爪の間に染み込んでいく様をミスラは目に焼き付けた。
賢者は花びらを広げていくような手つきで、桃の皮を剥いていく。そして、ミスラの一口よりずっと小さな面積ぶん果肉を露出させると、そこへ唇を押し付けるように噛みついた。綺麗に生えそろった小粒な前歯が現れて、薄く光る果肉に沈み込んでいく。噛み付いたところから汁が溢れていくのを、蜜よりずっと瑞々しい唇を果肉に押し当て、「じゅっ」と音を立てて汁を啜った。唇が柔く動き、それに合わせて賢者の頬や喉が上下に動く。ようやく水蜜桃から口を離した時、果実には賢者の齧り付いた跡が生々しく残っていた。
ふと気がつくと、ミスラはいつのまにか水蜜桃をほぼ平らげていた。口から顎にかけて果汁でベタベタと濡れており、手のひらにはピンク色の皮の残骸が色紙のように張り付いていた。けれど、空腹感はむしろ増していき、砂漠のような喉の渇きをミスラに覚えさせた。
ミスラがじっと凝視する中で、視線に気が付いた賢者が顔を上げる。薄ピンク色をした丘を挟んで視線が交わった時、ミスラは衝動のままに賢者の手にむしゃぶりついた。
「わっ……」
細い指に囲われた果実に向かって、ミスラは一切躊躇することなく顔を埋めた。賢者の齧り付いた痕へ、自分の歯を重ね沈み込ませる。反射的に逃げようとした賢者の手を、ミスラは下から掬い上げるように重ねて、果実をより自分の口元へと押し付けた。
咀嚼音を立てながら啜った汁は、一個目に食べたものよりずっと甘く感じられた。その甘さに陶酔するように、ミスラは無心のまま歯にまとわりつく皮を噛みちぎり、柔い肉に吸いついて、水蜜桃にむしゃぶりついた。
獣と形容することさえ憚れるようなミスラの仕草に、賢者はやや呆然としながらも、彼の奇行に日頃から慣れていたためにただ黙ってその様子を見守っていた。
あまりに激しく貪ったために、口に含み切れなかった果肉が、賢者の指の隙間からこぼれ落ちそうになる。慌てた賢者が、桃を掴んでいない方の手を、受け皿のようにして片手の下にかざす。その際に、小脇に挟んでいた紙袋が賢者の腕をすり抜けて、地面へと叩きつけられた。思わず拾い上げようと屈みかけるが、指先にしゃぶりつくミスラの唇がそれを許さなかった。
水蜜桃はほとんど貪り尽くされて、あとはもう残骸のような肉片が指にまとわりついているだけだった。しかしミスラはそれさえも堪能したいようで、指の一本一本まで口に含み唾液を絡ませながら啜っていく。指の股まで舌先でくすぐり、手のひらに溜まった汁を吸うと、賢者の手がぴくりと強張る。ミスラは気にせず、指先に張り付いた桃の皮を、舌先でこそげ落としては自身の口の中へと運んでいった。
どれくらい経っただろうか。賢者の指先が、汁の一滴すら残っていない状態にまでなったところで、ミスラはようやく口を離した。ついさっきまで咀嚼していたミスラはともかく、立ち尽くしていただけの賢者すら荒い息をさせている。喧騒の遠い、薄暗い路地裏に、生温かい息遣いが満ちていく。
久しぶりに、体温を含んでいない空気に手のひらを包まれた賢者は、身震いするほどの冷たさにようやく正気を取り戻した。そして、存在を忘れかけていた紙袋へと屈み込む。地面に横たわった紙袋の口からは、水蜜桃がいくつもこぼれ落ちて、埃っぽい地面に転がっていた。薄く土に覆われたそれらは、賢者の手の中にあった時のような瑞々しい輝きを失くしていた。
「汚れちゃいましたね」
「別にいいでしょう。まだ食べられるでしょうし」
皮に付着した土を軽くはたきながら、賢者は一つずつ紙袋に入れ直していく。ミスラはそれを手伝う気はないらしく、賢者を見下ろしながら自身の指を拭うように舌を這わせていた。
「そうですね。でも……、他の人に悪いので、これは俺たちだけで食べましょう」
実を言うと、この水蜜桃は魔法使い全員で分けて食べようと思って買ったものだった。魔法舎に持ち帰り、キッチンで切り分けて皆に食べてもらう予定だったのである。ミスラに丸々一個分け与えたのは、せっかく外で偶然出会ったのだから、という気持ち以外に、彼が特に仲の良い魔法使いだというのが理由にあった。しかし、こうして全部ミスラと自分で平らげることになるとは思いもしなかった。
土に汚れただけではなく、落下の衝撃であちこち凹んでしまった姿は、他人に食べさせられる見た目をしていなかった。惜しいと思いながらも、予想以上に美味しかったこの果実をもっと食べられるのかと思うと、賢者の口に唾が溜まった。
水蜜桃を拾い終わった賢者は「お待たせしてすみません」とミスラに言った。別に待たされた記憶もないミスラは「はあ」と気怠げな声を上げる。市場の中央へ向かうため路地裏を出ようとする賢者に、ミスラがふと疑問を投げた。
「そういえば、なんでこんなところに居たんですか?」
ミスラが賢者を見つけたのは、彼が喧騒を避けるように路地裏へ入っていく最中だった。まだ買い物を続けようとする賢者が、わざわざここへ立ち寄った意味がミスラには分からない。光の射す方へ向かおうとした足を止めて、賢者が振り返る。その顔はやや赤みが差していた。
「あの……実は人の多い場所に来るのが久々で……、少しクラクラしてたんです」
「ああ、熱気に当てられたんですか?」
確かに、声をかけた瞬間の賢者はやや汗ばんでいた、とミスラは思い返す。それなら今の体調は、と賢者の顔をじっと観察すると、額にうっすらと汗が浮かんでいるような気がした。それを見て、賢者に了承を得る前に呪文を唱え、扉を召喚する。
「えっ、あの、ミスラ」
「具合が悪いなら先に言ってください」
扉が開いた先に見えるのは、慣れ親しんだミスラの部屋だった。人の多さに当てられたなら、二人きりになれる場所が良いはずだと、フィガロの部屋より先に自分の部屋へ連れて行こうとするのはミスラにとって自然なことだった。有無を言わせずに腕を引っ張るミスラに、賢者は慌てて踏み止まる。
「俺、今は大丈夫ですよ。ミスラと少し話をして、落ち着いたので……」
「でも、まだ具合が悪そうですよ。汗もかいてますし」
ミスラの視線を受けて、賢者は顔を赤くして俯いた。その首筋にまた汗が浮かび始めたのを、ミスラはじっと観察していた。どれだけ待ってもミスラが手を離そうとしないのを理解すると、賢者は顔を上げて言葉を返した。
「……そうですね。少し、ミスラの部屋で休憩します」
「それがいいと思いますよ」
賢者の体から抵抗の意思が抜けたのを確認すると、ミスラは掴んでいた手を離し、手を繋ぎ直した。自然と、先ほどまでミスラの唾液に塗れていたミスラ自身の手と、賢者の手が密着し、絡み合う。生臭ささえ感じそうなほどベタベタとした感触に、賢者は不快感より先に、焦燥感にも似た熱が体の奥で燻るのを感じた。
二人がくぐり抜けたあと、扉が静かに閉じる。光を放って扉が消えた後には、喉に絡みつくような甘ったるい匂いと、生温かい吐息の気配だけが路地裏に取り残されていた。