あなたがこの手紙を手に取ったのは、封筒に書かれた自分の名前に気がついたからだと思います。開けてみたら、全然知らない言葉で書かれているから、びっくりしたでしょう。俺は結局、簡単な単語やみんなの名前くらいしか、この世界の言葉を覚えられませんでした。だからこの手紙の本文は、俺の世界の言葉で書きます。なんて書かれているのか、あなたには全く分からないでしょうね。いつか、俺と同じ国から新しい賢者さまが来るとか、翻訳できる魔法が発明されたら、読んでみてください。その時まで、あなたがこの手紙の存在を覚えているか分からないし、紆余曲折あって紛失してしまうかもしれません。俺はそれでも構わないと思っています。あなたに何一つ伝わらないまま終わってしまってもいい。それくらいの気持ちで、何も取り繕わずに、俺はこの手紙を書いています。もう便箋の余白が無くなりました。別の手紙に、続きを書くと思います。それでは、また。
肌寒い。もう、秋と言ってもいいのかもしれない。手袋をつけてこなかったことを後悔しながら、駅の中で手を擦り合わせた。ついこの間まで、夕方でも昼間みたいに明るかったというのに。そう思いながら満月を見上げる。風が強い。家の最寄り駅についたら、途中の百均で手袋を買っておくべきだろうか。そう考えながら歩いていると、誰かに腕を掴まれた。
「晶」
名前を呼ばれて、反射的に振り返る。まるで十年来の友人を呼ぶような、それでいて俺には聞き覚えのない声。そこらでお目にかかれないくらい、整った容姿の男が、そこに立っていた。背が高い。色が白く、細身だけど、顔のそれぞれのパーツや骨格は、男性的なものばかりである。どの年代の女性にも、嫌味なくかっこいいと思わせるだろうものがあった。
「晶、くん、だよね?」
思わず呆けたように見つめていると、男がそう続けた。探るように、試すように、言葉を区切りながらそう問いかけてくる。俺は反射的に「違います」と答えた。
「でも」
「すみません、多分、マッチングアプリの待ち合わせか何かだと思うんですけど」
こんなに綺麗な人、俺の知り合いには居ない。たとえ顔見知り程度だったとしても、ここまで美しければ忘れたくても忘れられないだろう。そう考えたところで、思いつく結論は一つ。
「俺はたしかに晶だけど、あなたの言う『あきらくん』ではないです」
人違い。そうとしか思えなかった。黒髪黒目、平均身長の自分なら、誰かと間違われていてもおかしくはない。行き交う人々が、雑踏の真ん中で立ち止まっている俺たちをちらちらと見ていく。女子高生の一人が「ねえ、かっこよくない?」と隣の友人に囁いたのが聞こえた。
腕を掴む手から、力が抜けていく。それに合わせて、男の顔に失望が広がっていった。それさえもドラマのワンシーンのようで、俺はつい見惚れてしまった。男が目を伏せる。唇が、今にも泣き出してしまいそうに歪んだ。
「……あの、大丈夫ですか?」
男の手が滑り落ちて、手首に力なく留まる。もう無理やり抜け出せる状況だというのに、俺はその場から動けずにいた。男が顔を上げる。さっきまでの暗い表情は消え失せて、唇が自嘲ぎみに笑みの形を描いていた。
「ねえ、俺のこと、助けるつもりで、一緒にお茶してくれない?」
「え?」
「その、待ち合わせしてた人に、すっぽかされたみたいだからさ」
さっきまで手首を掴んでいた手が、今度は俺の手を掬い取って握り直す。まるで懇願するように、祈るように縋りつくように。「もちろん、俺が奢るから」と付け加える声の真剣さに気圧されて、俺はつい頷いてしまった。
俺にとって、あなたがかけがえのない存在だったように、俺もあなたにとってそういう存在になりたかった。でも、あなたはきっと、今まで悲しい別離を繰り返してきた人だろうから、いつ元の世界に戻されてしまうかも分からない俺は、これ以上のお別れを与えたくなくて、何もできませんでした。ひとりよがりですよね。あなたを理由にして、本当は自分が傷つきたくなかっただけかもしれません。あなたは二千歳で、単純計算で俺の百倍の時間は生きてることになりますね。きっと、傷つくようなことも、俺の百倍はあったと思います。あなたがこれ以上、傷つかずに生きていけることを願っています。それでは。
「フィガロさんって言うんですね」
チェーンのコーヒー店で、テーブルを挟んで男と向かい合う。暖房の効いた店内。他のお客さんが、店に入るなりにほっとした顔で手袋やマフラーを外していく。
「呼び捨てでいいよ」
「……フィガロさん」
「あはは。まあそういうプレイみたいでいいか」
変わった人だな、と思ったが、こちらが注文したココアをどこか微笑ましそうに見つめる視線に、悪い人ではないのだろうと思ってしまう。フィガロという名前を聞いて、納得した。長い手足も白い肌も、ハーフだとしたらつじつまが合う。
「フィガロさんみたいな人も、マッチングアプリをするんですね」
「ええ? どういう意味?」
「そんなにきれいな顔だと、出会いには困らなさそうだから」
「まあ、それはそうだけど、タイプの子に好きになってもらえるかどうかは難しいよ」
「どんな子がタイプなんですか」
「やさしい子」
男が間髪入れずに答える。
「健気で、親切で、俺のことを心から好きになってくれる子」
俺のことをじっと見つめながら言う。不思議な色をした瞳だ。オリーブ色のような、灰色がかっているような、この世界のどこにも存在していなさそうな色。
「全部性格についてなんですね」
「変?」
「最近の人は、年収とか身長で選んでる印象があったので」
そういう、数値で具体的に表されるもので相手を選定して、内面は妥協していくのが、最近の恋愛の主流のように自分には思えた。
「晶くんは、どんな人がタイプなの」
「俺は……」
ココアに視線を落とす。液面が見えないほどに、たっぷりとかかったホイップクリーム。
「俺が好きになれる相手なら誰でもいいです」
「へえ、『好きになってくれる人』じゃなくて?」
「好きな相手なら、究極的には何でも許せるような気がするので」
「なんだか、普通の人より手ごわそうだなあ」
そうかもしれない。年収とか職業とか、家庭的だとか料理が好きとか、そういう分かりやすい、打算的ともいえる条件で相手を選んでいる人の方が、俺よりずっと寛容なんじゃないかと思う。
「俺たち、けっこう似てるかもね」
愛おしそうにそう言われて、なんだか救われたような気持ちになる。ただ共感してもらえただけなのに、こんなにも嬉しくなるのは何故だろう。本能的に、記憶の末端をざわめかせるようなものが、この人にはあった。
「ねえ、俺たち付き合わない?」
「え?」
「言ったでしょ、健気で優しい子が好きだって」
「俺がですか?」
「だって見ず知らずの男に、一緒にお茶して欲しいってお願いされて、その通りにしてあげるんだよ? これが健気じゃなきゃ、なんなの」
さすがに展開が急すぎて、何も言えずにいると、「やっぱりダメ?」と彼が上目遣いに言う。その言い方すらもどこか可愛げがある。
「急すぎた? あと何回会えば了承してくれる? ちゃんと手順を踏んだ方がいい?」
俺は無言でふるふると首を振った。途端に、ハンサムな顔が一気にしゅんとなる。この甘い顔に、ほだされてきた女性がどれくらいいたのだろう。そう考えているうちに、衝動的に「でも」という言葉が口から出た。
「でも?」
「また、俺と会ってくれませんか」
俺はそう言って、連絡先を交換するために、机の下からスマホを取り出した。
俺は、あなたの言動ひとつひとつに、呆れたり怒ったり拗ねてみせることがありましたね。もちろん、ほとんどは穏やかな会話ばかりでしたが、俺はそういう態度を取るのが、少し好きでした。甘えてもいいのだと許してもらえた気がして。多分、あなたの方も、俺にそういう風にされるのが好きだったんじゃないかなと思います。
あなたは俺にいくつかの隠し事をしていたと思うのですが、あなたにとって気を許せる存在になれていたら、すべてを打ち明けてもらえたんでしょうか。今、寒くはありませんか。暑くはありませんか。どこか痛かったり、悲しくなったりはしていませんか。あなたにこう問いかけたとき、大丈夫じゃないのに「大丈夫」という返事がよく返ってきましたね。寒いとか、暑いとか、痛いとか、悲しいとか。そういう単純な気持ちでさえ、俺はうまく受け止められない相手だったのかもしれません。
「俺、日本語はからきし読めないんだよね」
「ええっ」
地域猫を見に行きませんか、と昼間の公園に彼を誘った際にそう打ち明けられた。ひとしきり猫たちとじゃれ合って、ベンチに座って一息ついている最中でのことだ。彼とはもう数回は会っていて、そのたびに美術館とか動物園とか、いわゆるデートスポットと呼ばれるような場所を訪れていた。
「何度も見た単語は、ある程度形で覚えられるし、支払いとか重要なことは必ず店員さんが読み上げてくれるから、そんなに不便は感じないんだけどさ」
日本語が読めないなんて、そんな風には到底見えない。会話はこんなに流暢なのに。話すのと読み書きでは、難易度が違うのだろうか。ハーフの彼なら、生まれた時からこの国にいたわけではないのかもしれない。俺とのLINEはどうしてるのかと尋ねたら、「読み上げ機能と文字起こし機能を使ってる」とのことだった。
「だから、カフェだとコーヒーばかり頼んでる。メニューが読めなくたって、どこにでも置いてるからね」
悪戯っぽく、少しだけ舌先を出しながら彼が言う。はじめて会った日、たしかに彼はコーヒーを注文していた。
「あと、身分証の類も全部持ってない」
「た、大変じゃないですか……」
家は? 職場は? 彼の身分を疑うよりも先に、どうやって生活を送っているのかの心配の方が先に来た。
「あの、困った時は、いつでも俺に頼ってくださいね。もし住むところが無くなったら、俺の家に来てもいいですし」
「一緒に住むってこと?」
頷くと、彼は指の背で俺の頬を撫でながら「あのね、あんまり知り合ってすぐの他人に、親切にするのはやめなさい」と言った。
「フィガロさんは、他人じゃないです」
フィガロさんは……そう言いかけて、はたと口をつぐむ。彼は、俺にとって何なのだろう。友人? 恋人? 悩みに悩んで、結局冗談めかして「好きなタイプだって知ってるんですよ、俺」と言うにとどめた。
「君ねえ」
彼はうつむいて、困ったように笑った。
「俺、君に下心があるんだよ? 家に来てもいいなんて、言っちゃダメ」
「でも、無理にどうこうしたりはしないでしょう?」
そう返すと、彼は愛おしげに、まるで小さな子供を相手にしているような目で俺を見つめた。
こんなにあなたのことを好きになるなら、好みのタイプを最初に聞いておけば良かったですね。でも、あんなに長く集団生活をしていたから、猫を被っていても結局どこかでボロが出ちゃうかな。もし、あなたが俺の世界に来ることがあったら聞いておきます。俺の友達にそういう子がいたら、紹介できますし。ここまで書いておいて、じゃあ俺の好きなタイプは何だろうって考えたんですが、あまり思いつかないですね。そういう恋愛事に疎くて、真剣に向き合う時間もないまま、あなたを好きになりました。だから、好みのタイプを聞かれたら、「あなた」としか答えることができないですね。俺は、元の世界に戻ったらあなたのことを忘れるんでしょうか。でも、忘れたとしても、あなたのような人を好きになった事実は、俺の中で消えないと思います。俺の中の「好きな人」は、きっとあなたの形をしたまま残り続けるでしょうね。
身分証がない。あれは、本当のことなのだろうか。不法滞在、戸籍偽装、不正受給、そういうワードが頭に浮かんでいく。でも、本当にそういった手段を彼がとっていたとしても、やむを得ない理由があってのことなんじゃないだろうか。お金に困ってる様子はないし、いつ見ても小奇麗にしている。そもそも、特定の住居を持ってないのではないか。ホテル暮らしとか? もっと非現実的な、何もないところから、突然ふわりと現れていても、彼ならおかしくない。そういう浮世離れした雰囲気が彼にはあった。
彼と知り合ってから、まだ数カ月も経っていない。それなのに、十年来の友人であるかのように、俺の気持ちを汲み取って会話をしてくれる。時折、拗ねたり叱ったりしたくなるような危なげな言動もたまにしていた。そこが、彼なりの甘えのように見えて、ますます彼に引き込まれていった。それでも、大事な一線は決して踏み込ませない用心深さも、どこかにあった。
「他の男と仲良くする時間があるなら、全部俺に使ってよ。絶対に俺といる方が楽しいって思わせるから」
大学終わり、待ち合わせをして夕方の公園で落ち合った時のやり取りだった。そんなことを言われても、束縛されてるとは思わないのだから不思議だ。むしろ、こうやって溺愛されることをずっと前から望んでいたような気がする。
「俺、フィガロさんにここまで好きになってもらえる理由が無いと思うんです」
「言ったでしょ。優しくて健気な子がタイプなんだって」
さも当然のようにそう言ってのける。俺が何も言えずにいると「納得いかない?」とこちらを覗き込んできた。
「なんだか、怖くて」
「ごめん」
「いえ、フィガロさんのことじゃなくて、俺自身が」
近寄ってきた野良猫の顎下を、指先で撫でながら言った。
「俺ってこんなに人を好きになったことがないんです。ずっと人見知りで、恋人ができたこともないし」
どうして、彼にだけこんなに惹かれているのか、自分でも分からなかった。分からないから、怖くなる。彼自身の得体の知れなさも相まって、必要以上に警戒してしまうのだ。「うーん」と彼が首を傾げる。
「じゃあさ、こう考えてみたら? 俺と君は、前世から続く運命の相手なんだって」
「前世から」
運命の相手、白馬の王子様。そういうのは、もっと若くて可愛らしい、活力に満ちた女性が、夢見るような表情で口にする単語じゃないだろうか。少なくとも、自分にはふさわしくない。
「だめかあ」
彼が俯いて、困ったように笑う。
「ねえ、何をすれば、君を安心させられる? 教えて。どんな仕事をして、どんな姿でいればいいのか。教えてくれたら、俺は絶対その通りにしてみせるから」
あまりに非現実的な提案なのに、彼ならできるかもしれないと思わせるのだから不思議だ。「そのままがいいです」と俺は言った。
「今のフィガロさんが、一番好きです」
「嬉しいな。俺も、そのままの君が好きだよ」
どうして手紙を書こうと思ったのか。俺にもよく分かりません。本当に伝わらなくてもいいなら、そもそも手紙なんて書く必要ないですよね。もしかしたら俺は、あなたが愛されていた証を残したいのかもしれません。あなたは色んな人に頼られ、愛されていたけれど、どこか物足りなさそうにしていましたね。多分、理想の愛の形があなたにはあって、それは数や量の問題ではないと分かっているんですけど、一人でも多くの人に愛されていた証拠をあなたに残しておきたかった。俺に愛されていたと知って、嬉しいと思ってくれましたか。あなたの長い人生の中で、俺の言葉がどれほどの重さを持つのかは分かりませんが、もしそうなら、手紙を書いた意味もあったんだなと思えてきます。
午後。まだ夕方というには早いのに、曇り空のせいであたりは薄暗かった。鼻先に、冷たいものが当たる。
「雨」
手で受け皿をつくり、空にかざす。フィガロさんも釣られて空を見上げていた。
「夜から雨の予報だったもんね」
大学終わりにカフェでお茶をして、店を出て少し歩いてからのことだった。
「はい、使って」
彼が懐から折り畳み傘を出して俺に差しだした。
「二人で使うには小さいでしょ。ここで解散しよう」
「フィガロさんは?」
「俺は、この近くに住んでるから」
本当に? 彼の目を見る。その瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。少しくらい濡れたっていいから、あなたの家まで送ります。もしくは、最寄りのコンビニまで一緒に行って、そこで傘を買いますよ。そう提案するべきか迷って、けれどそれは、彼の言葉を信用していないことになる気がした。何より、彼の親切を無碍にしている気がする。俺のためらいを察したのか、彼は「じゃあ、またね」と言ってあっさり背を向けてしまった。角を曲がって、すぐにその姿が見えなくなる、俺は仕方なく、傘をさして自宅へ帰ることにした。
雨の勢いが増していく。傘を持っていない人たちが、慌ててどこかの店先に飛び込んでいくのを見ながら、彼のことを想った。やっぱり、家まで送ると言うべきだったんじゃないだろうか。「どうして?」「俺を信用してないの?」そう問いただされるかもしれない。それでも、彼が濡れてしまうのは嫌だった。もし家を教えたくないと言われたら、この傘は返すと言って、押し付けてしまえばいい。
そう考えて、急いで来た道を戻る。彼はすぐに見つかった。別れた場所とそう離れていないところで、ずぶ濡れになりながらふらふらと歩いている。
「フィガロ!!」
思わずそう叫んだ。彼が振り返る。信じられないものを見るような目をしていた。「待って、待ってください、フィガロさん……」駆け寄りながらそう言うと、目を見開いていたのが、みるみるうちに泣き出しそうな顔に変わっていく。ようやく目の前まで来て、彼に傘を差しだした。今度は俺が濡れ始める番だった。俯いて、息を整えている間、彼が「失敗しちゃったなあ」とぼやくのが聞こえた。
「どうして……」
どうして、嘘をついたんですか。そう問いただしたかったけれど、責めるような言い方に思えて、代わりに「どうしてそんなに優しいんですか」と聞いた。
「優しくないよ」
「俺が濡れないように、してくれたんでしょう」
「なんで追いかけてきたの」
いつも以上に青白い顔をして彼が言う。血色が消えて、疲労の滲んだその顔は、普段とは別種の美しさを持っていた。
「……賢者様はさ、」
雨音にかき消されて、一瞬、何か別の言葉で俺を呼んだように聞こえた。それを聞き返す前に、彼が続ける。
「この程度の優しさも、素直に受け取ってくれないんだね」
頭から濡れ始めた俺は、体を伝う雨が首筋から衣服の下に入り込み、傘を差しだす肘に溜まっていくのを感じた。
「ねえ、なんで俺に優しくさせてくれないの」
「そんな、つもりじゃ」
「分かってる。でもさ、」
感情の抜け落ちた声で、彼が言う。
「何も返せなかった側の気持ちを考えたことある? 後になっていろんなことを打ち明けられて、あの時ああしていれば良かったのにって、事あるごとに思い出すんだよ。自分の愚かさを突き付けられたように感じて、そのたびに叫び出したくなる。なにかの後遺症みたいに」
堰を切ったように、彼が喋り続ける。その勢いに気圧されて、俺は何も言えずにいた。
「だから、今度こそ完璧にやり直せるはずなんだって、そう思って……」
声から徐々に力が抜けていく。何も見ていない目。雨はもう、傘で遮られているはずなのに、彼の頬が別のもので濡れ始めているかのように見えた。彼が話し終えても、しばらくの間、どちらも口を閉ざしていた。髪が張り付いた、青白い顔。見つめ合っているはずなのに、もっと遠くの方で焦点が合っているかのような瞳。
「ごめん」
不意に、彼がそう言った。背を向けて、傘を抜け出して歩き出す。
「フィガロさん、傘、」
「いらない」
しばらく、放っておいて。力なく言う声が、雨音に混ざって聞こえた。その場に立ち尽くして、何度か瞬きをするうちに、雨に溶け込んだかのように彼の姿は見えなくなった。生ぬるい雨水が顔中を濡らし、口の中にまで入り込んでいた。
あなたはたくさんの人に愛されていたんです。あなたの望む愛の形ではなかったかもしれないけれど、それだけは本当の事実です。
あなたが人生の幕を下ろすときには、色んな人たちからの祝福の言葉を思い出しながら、愛する人に手を握ってもらえるはずです。そう、あなたが選んだ、かけがえのない運命の人と。あなたならきっと巡り合えるはずです。俺がその人になれないのは、少しだけ悔しいけれど、あなたが幸せでいてくれることを、俺は何よりも願っています。愛していました。これからもずっと愛しています。さようなら。
フィガロさん。
ごめんなさい。
またいつか会ってくれませんか。
縋るような気持ちで、彼にLINEを送ったけれど、既読さえつかなかった。それを、理不尽だとは思わない。むしろ、正常な報いのように思えた。あれは、白昼夢か何かだったのかもしれない。自分の身の丈に合わない幸福を与えられていたのだから、それを突然取り上げられたって、文句を付けられない気がした。
それでも。一向に返事のこない画面を見つめながら思う。それでも、一言だけでも彼に謝りたかった。彼が与えてくれた優しさを、無碍にしたのは事実なのだから。
その日の夜に、夢を見た。何もない黒い空間に、ベッドだけが浮かんでいる。その上で寝ている俺と、ベッド脇に腰かけて、俺を見下ろしているフィガロさんがいた。俺は幽体離脱でもしているかのように、二人を上空から見下ろしている。
「ごめんね」
そう言いながら、手の甲で俺の頬を撫でる。
「いっぱい、ひどいことを言って、傷つけたよね」
(傷つけたなんて、そんな)
横たわる俺は、口を動かしていなかったが、彼には伝わっているようだった。
「ねえ、俺、実は魔法使いなんだ」
彼の膝の上に、いくつかの封筒が散らばっている。信徒にとっての聖書のように、うやうやしくそれに触れる指先。
「たくさん、君を振り回したからさ、別れ際になんでも一つ、お願い事を叶えてあげる」
(別れる?)
「消えてあげる、君の前から」
(どうして)
「なんでもいいよ。何をして欲しい? 教えて」
彼が俺の手を握る。上空にいる俺には、その感触は伝わらない。それでも、まるで祈りをささげる人のそれのように、二人の手が組み合わさるのを見た。俺が、叶えて欲しいもの。それは。
「何もいりません」
口を動かさないまま、俺がはっきりそう言い放つのが聞こえた。
「何もいらないから……あなたを好きでいる権利をください」
俺は、あなたと一緒に過ごす時間が好きでした。どうしてここまで愛してくれるのか分からなくて、俺はまだその好意に納得がいってないんです。けれど、あなたのことが好きなのは本当だから、好きでいることだけは許してほしいんです。
「俺の前から、いなくならないでください」
風が、頬にまとわりつくのを感じた。次に目を開けたとき、俺は自室のベッドに横たわっていて、その横にはこちらを覗き込む彼がいた。繋がれている手。泣き出しそうな白い顔。
「どうして、フィガロさんの方が泣きそうなんですか」
「だって」
「別れ話を切り出されたのは、俺の方なんですよ」
身を起こし、彼の目元を指先で拭う。そこはまだ濡れてはいなかった。くすぐったそうに笑う吐息。俺の手を、両手で包み直して、彼が言う。
「ねえ、驚かないで聞いてくれる?」
カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいる。海の色を含んだ光。本当に月明かりだろうか? もっと不可思議な、魔法や奇跡によって引き起こされたものかもしれない。だって、彼は魔法使いだと言っているのだから。
「俺がどんな風に君を好きになったのか、最初から最後まで聞かせてあげたいんだ。風が強い、満月の夜に、君が俺の世界に舞い降りてきてくれた日のこと」
俺は最初、この手紙のことを実質的な遺書だと思っていた。南の国ではよくあったんだよね。俺に看取られている人間が、家族や友人にも打ち明けられなかった人生の色んなことを、俺にだけ話してくれるんだ。俺は君に好かれている自信があったけど、結局明確な告白もプロポーズもされないまま君は帰ってしまった。だから「ああ、また選ばれなかったんだな」って正直思っていた。だからこそ、この手紙を見つけた時はすごく嬉しかったんだ。君の伴侶にはなれなかったけど、人生を打ち明けられる存在にはなれてたんだってね。
そんなんだから、何が何でも手紙を解読しようと思った。残された賢者の書を参考にしたり、君の国から賢者が召喚される可能性に賭けたけど、上手くいかなかった。結局、俺が選んだ方法は「君の世界に行く」ことだった。君は口語だけなら俺たちの言語を操れていたから、俺が君の世界に行っても同じことが起きるだろうってね。結果はこの通り。賢者さまの世界は異邦人に優しいね。カメラに写しただけで、自動的に文を読み上げてくれるツールまであるんだから。
ねえ、手紙を読んだ後の俺の気持ちが、想像できる? あんなラブレターを置いていって、何事もなく終われると思ってた? 君を探そうとしたのは勿論だけど、もし君が俺以外の男とお付き合いしていたら……いや、これ以上は、書かないでおこうか。
君は、あの世界にいた頃から、周囲に愛される才能があったよね。手を貸してあげたくなる。構ってあげたくなる。君を見てると、誰もがそう思った。俺もそのうちの一人だったよ。そのうちに、君を愛しく思う気持ちと並行して、憎らしいとも思っていた気がする。俺は、そんな風に損得無しで誰かに愛されたことがなかった。いや、あったんだろうな。南の国のあの子たち。スノウ様やホワイト様、オズ。魔法舎で出会った魔法使いたち。でも、俺の言いたいこともちょっとは分かるだろう? 本当の損得無しに、初対面の通りすがりの相手にすら命の危機を救ってもらえそうなものが、君にはあるんだ。それについて、嫉妬混じりの憎しみを抱くこともあった。俺には得られないものを持って生まれた君。
まあ、少しも経たないうちに、それは間違いだったって気づいたよ。俺は多分、君に優しくしている、俺以外の全員に嫉妬していたんだろうね。俺一人が、その役目をすべて請け負っていたら、きっと君は運命の相手みたいに俺に心酔して、愛してくれてたのかもしれないのに、ってね。
ああ、昔話に尺を割きすぎたね。君は最初の手紙で、もう余白が無いといっていたけれど、確かに便箋っていうものは、何枚あっても書き足りないな。そもそも恋とか愛っていうものは、言語化するべきではないのかもしれない。どれだけ書き連ねても、実際の心中を表現しきることはできないんだ。こうやって手紙を書くようになって、実感したよ。
そうそう、手紙を書く習慣ができたんだ。なぜって、君からのラブレターに返信しなきゃいけないからね。その一通一通に、いま返事を書いてるところ。これまでは、君を探すのにすべての時間を使っていたからね。ようやく、机に向かう暇ができたってわけだ。俺の世界の言葉で書いてるから、これは俺が読んであげないと分からないだろうね。わりと気恥ずかしいけど、読み聞かせられる君の方が恥ずかしいだろうから、まあいいか。ああ、でも、この最後の一文だけは、先に伝えておかなきゃダメかも。他の手紙の返信文は後に回すとしても、一番重要なことだから。
俺も君を愛していたよ。これからもずっと愛してる。病めるときも健やかなるときも、永遠に君のそばにいさせてください。