甘やかな失声

 目を覚ました時、いつもと変わらない朝が来たかのように思えた。けれど、寝返りをうった途端に、それが間違いだったと気づく。目の前に、賢者さまの寝顔があった。ヒースクリフ・ブランシェットのベッドに──とどのつまり、俺の隣に、眠る賢者さまが横たわっていたのだ。
 驚いて、夢ではないかと疑ったけれど、指先に感じるシーツの感触は、どうやったってこれが現実だと突きつけてくる。念のため衣服に乱れがないか確かめてみたけど、それらしきものはない。それに安堵して、少しだけ落胆もしながら、賢者さまを起こすことに決めた。ここまで来ると、寝起きの頭でも十分に冴えてくる。賢者さまが寝ぼけて、トイレの帰りに間違えて俺の部屋に入ってきた可能性が一番高い。
「賢者さま……賢者さま……」
 申し訳ないと思いながら体を揺さぶる。目が覚めるのを待つうちに、自然とその寝顔に見惚れていた。実年齢よりずっと幼く見える、あどけない容貌。整った眉や、細い鼻梁や、子供っぽさの残る頬、やわらかそうな唇。よくない想像をしそうになったタイミングで、賢者さまがゆるやかにその瞳を開いた。
「……?」
「あの、おはようございます」
 賢者さまはこちらの存在に気がつくと、笑みを浮かべて身を起こした。多分、いつものように俺が部屋まで起こしに来たと思っているのだろう。どう説明するべきか。そう悩んでいると、大きな目が俺の寝間着姿を見て、次に部屋を見渡した。ぽかんと口を開ける。事態を把握したらしい。
「俺も今起きたばかりで……。昨晩出歩いた記憶はありますか? もしかしたら、その際に間違って俺の部屋に入ったのかもしれません」
 そう尋ねて賢者さまの反応を窺う。困惑しきった顔で、何度か口をはくはくと開閉した後──大きな瞳いっぱいに、焦燥めいたものが浮かんだ。彼の両手が、自身の喉をかばうように添えられて、力なく俯く。
「賢者さま?」
 様子がおかしい。どうしました、何か不安があるのなら、すぐにでも俺に言ってください。少しでも不安を取り除きたくて、そう口にしたら、上目遣いにこちらを見た後に、ふるふると首を左右に振った。そこでようやく気づく。起きてから今の今まで、彼が一言も発していないことに。

 賢者さまの声が出なくなった。俺の部屋に居たことなんて些細なほどの大事件である。賢者さまには俺の部屋で待っているように伝えて、とりあえず既に起きているだろうカインに助けを求めにいく。彼に事情を説明して、廊下に連れ出した。その瞬間だった。賢者さまが現れたのは。
「あ、おはようございます! ヒース、カイン」
 にこやかにあいさつするその姿はどう考えても賢者さまそのもので、俺とカインは無言で顔を見合わせた。出てきたのは、俺の部屋からではない。賢者さま本人の部屋だ。その声を聞きつけてか、俺の部屋のドアがそろりと開いて、中からもう一人の賢者さまが顔を出した。声を出した方の賢者さまがひたとそれを見て、腰を抜かす。魔法舎中に響き渡りそうなほどの悲鳴が、彼の喉から発せられた。

「賢者が二人に増えた」
「しかも片方は声が出せない、と」
 スノウ様とホワイト様が言う。魔法使いたちが全員、食堂に集まっていた。テーブルを挟んで鏡写しのように、賢者さま二人が向かい合って座っている。魔法使いたちはというと、心配そうにすぐそばで寄り添うように立っている者、近くの席に座って様子を窺う者、離れた場所に座り、興味が無さそうなふりをしている者、「とりあえず朝食は二十三人分でいいよな?」と聞く者など十人十色だった。
 どちらかが偽物。そんな疑いが真っ先に出た。しかしそれは否定される。話せる方の賢者さまが、元の世界でのことや幼少期の思い出についての質問を紙に書き出して、話せない方の賢者さまがそれを読んで「はい」か「いいえ」のどちらかをジェスチャーで示していった。結果、全く同じ記憶を持っていることが分かった。この世界の何者かが化けているわけでもないのだろう。元の世界の言語は、この世界では賢者さましか読める者がいない。その点でも、賢者さまの身辺をある程度知っている者が、どうにか同じ記憶を持っているように見せかけている、というわけでもなさそうだった。
 声が出せる方の賢者さまが偽物、という発想もすぐに否定された。その声や仕草、表情すべて俺たちが今まで見てきた彼そのものだったからだ。もう一方の彼も、声が出せないという点を除けば、それは同じである。
 結局、どちらも本物の賢者さまであるという意見で全員が一致した。偽物だと判明したら、その瞬間に殺せばいい。北の魔法使いの誰かがそう言って、賢者さま二人が抱き合って怖がっていたのは、少し、いやかなり可愛かった。可愛いものが二倍に増えれば可愛さも二倍になる。当然のことかもしれないけど、賢者さまが二人になってくれるまで俺はそのことに気づけなかった。

 賢者さまが二人になったことを、驚くべき早さでみんなが受け入れていった。少なくとも事件が起きてから三日後には、彼が暮らしていくための生活様式が出来上がっていた。魔法舎の空室を、話せない方の賢者さまの部屋としてあてがう。依頼や任務には、緊急時に意思疎通ができないのは困るからと連れていけなかったが、訓練で純粋に人手が足りない時は駆り出されることとなった。
 声が出ない、というのはここでの生活にかなりの負担になるだろうと俺は当初は思っていた。何故なら賢者さまはこの世界の文字が読み書きできない。つまりは筆談ができないということだ。話せず筆談もできないとなると、ジェスチャーで表せる以上の会話はもう不可能になる。簡単な絵を描いてもらって意思疎通することもできなくはないが、普段おしゃべりしてできるような意思の擦り合わせはもう無理だ。
 なので、どうしても伝えたいことがある場合は、話せるほうの賢者さまに筆談で伝えて、代弁してもらう決まりとなった。今のところ、それが必要になる場面はなさそうだった。みんな、なんとなく賢者さまが伝えたいことを察することができたから。そうでなくとも、賢者さまが声を出さずに楽しめる生活を作ろうと、無意識のうちにみんなが選んでいた。余暇の過ごし方について、たとえばクロエは一緒に刺繍や編み物をしていたし、ネロは「俺みたいに楽しい話ができる訳でもない奴は、こっちの賢者さんの方が気が楽かもな」と言って、こまごました料理の仕込みを一緒にやったり、試食と称して餌付けしているらしい。
 賢者さま同士二人でいる時は、紙に書きあって筆談している姿を見かけた。話せる方の賢者さまは、わざと声で返事をせずに片方に合わせているようだ。二人の間を行き来する紙片と、二人分のくすくす笑い。俺たちには分からない、元の世界の文字を使ってされているひそやかな会話。
 カインとアーサーは──ちょうど声が聞こえて、バルコニーから中庭を見下ろす。
「ほら! 賢者さま! タッチだタッチ!」
 息を切らして走る賢者さまの方へ、カインが駆け寄りながら手を伸ばすが、追いついたアーサーが賢者さまに背後から抱き着く。そのまま二人で、笑い転げるようにして地面に崩れ落ちた。どうやら、鬼ごっこか何かしているらしい。
「久しぶりだな。こんな風に外遊びするなんて。童心に返った気分だ」
 地面に手をついて身を起こしたアーサーが、まだ笑い声の余韻を残したままそう言うのが聞こえた。賢者さまの方はまだ転がったままで、そこにカインがやって来て手を貸す。覗き込んだ彼の長い髪が風になびいて、賢者さまの顔の上に降り注いだ。その姿をこれ以上見ていたくなくて、バルコニーを後にする。あの日、俺のベッドの中で眠っていた賢者さまを思い出す。あの瞬間だけは、俺のものだったのに、という思考が止められなかった。

 それから一時間ほどして、以前は空室だった部屋に向かった。ノックをして、やまびこのように音が返ってきたので、部屋に入る。ベッドに腰かけ、膝の上に本を広げている賢者さまが顔を上げた。声が出せない彼の部屋へ入る時、近くの壁か家具を叩いてもらって合図をしてもらうのが決まりごとのようになっていた。彼の口が、笑うみたいに横に伸びた後にすぼめられる。この人は、声が出せなくなっても俺たちの名前を呼ぶのだ。
「もしかして、何か作業の途中でしたか? それなら出直しますが」
 賢者さまが首を左右に振ったので、隣に座る。
「さっき、中庭でおいかけっこしてるのを見かけましたよ」
 首を傾げるみたいにして俺の言葉を待つ。
「もしシノがあの中にいたら、俺も混ざりたかったな」
 透き通った瞳が俺を見つめ返してくる。シノがいなくても、来てくれてたっていいんですよ。そう言ったように思えた。賢者さまなら俺たちが欲しい言葉をくれるだろうという確信を、ここにいるみんなが持っている。俺もその一人だった。
「あとは……ええと……」
 お喋りを続けようとして、うまく言葉が出ない。
「すみません、俺、魔法舎に来てから、自分のことをよく話すようになったなって思ってたんですけど、賢者さまの相槌がないと、うまくいきませんね」
 賢者さまがぶんぶんと首を左右に振って否定する。その勢いに笑いながら、けれども今言ったことは謙遜ではないのだと伝えたかった。実家のことや、自分自身のことを、なんの抵抗もなくありのまま話せてしまう。それは、彼がかけてくれる言葉や相槌あってのことだったんだなといま改めて思った。
「俺、賢者さまのことを誰にも伝えずに、俺の部屋にずっと閉じ込めておけばよかったのにって、今でも少し後悔してるんです」
 そうすれば、ずっと俺のためだけに存在してくれる彼になる。毛布にくるまって、ベッドの中で俺の帰りを待ち続けるだけになるのだろう。
 賢者さまは困ったように笑う。卑怯だ。反論できない相手に自分の願望を押し付けて語っている。俺を慰めるためなのか、賢者さまがすり、と肩に頬をすり寄せてきた。声が出せない方の彼は、言葉で伝えられない代わりなのか、こうやって体を触れ合わせてくることが多くなった。他の魔法使いにも、こんな風に触らせてるんですか。そう聞きたいのを堪えた。
「またお喋りしに来ますね」
 このまま居ても、欲望をぶつけるだけになりそうだったから、そう声をかけて、彼の部屋を後にした。

 比較的若い魔法使いは、そうやって話せない賢者さまと交流を深めていたけれど、先生役の魔法使いたちは、何やら調べ物をしているらしい。
「あれの正体が分かったかもしれない」
 ファウスト先生にそう言われた際、その物言いからよくない想像をしてしまった。それを読み取ったのか、彼が続ける。
「別に、悪い奴が成りすましてるわけじゃないよ。あれも賢者とほとんど同じ存在だ」
 そう言って、サングラスを指で押し上げてかけ直す。
「まあ、消えるその時まで、可愛がってあげなさい」
「…………」
 消える時まで。つまり、いつかいなくなる存在なのか。

 数日後、談話室の前を通りかかった時、北の魔法使いたちの声がした。大人しくカードゲームに興じているらしい。珍しいな、と思いながら通り過ぎようとした瞬間、開きっぱなしのドアから賢者さまの姿が見えた。思わず息をひそめ、ドアの陰に隠れる。話せるほうの賢者さまは、任務のために一日中不在のはずだ。それならここにいるのは話せない方の彼なはずで、北の魔法使いたちがどんな風に彼に接しているのか気になった。
「ねえ、つまんない。もうやめにしようよ」
 退屈そうなオーエンの声が聞こえてくる。
「自分が劣勢だからってやめようとすんな」
「そんなんじゃない。それに何も賭けてないんだから勝っても負けても変わんないよ」
「まあ、それはな」
 オーエンに釣られたかのように、ブラッドリーの声にもうんざりした響きが加わり始めた。
「だからって、今さら金を賭けてもな。若い奴からむしり取るのは面白いけどよ」
「野球拳をしましょう」
 不意に、ミスラが聞きなれない単語を口にした。
「やきゅう……?」
「負けたら服を一枚ずつ脱いでいくゲームですよ。前の賢者さまに教えられました」
「それ、俺たちで裸を見せ合って何が楽しいんだよ」
「本当に……」
 そこでオーエンが言葉を切って、一瞬の間の後に、楽しい悪戯を思いついたという声でこう言った。
「ねえ、僕たちの代わりに、賢者さまに脱いでもらうのは?」
 頭が一気に熱くなる。自分の耳を疑うような提案だった。
「へえ、いいじゃねえか」
「そういえば、この人の服の下をあまり見たことない気がします」
「勝った奴から、どの服を脱いでもらうか指定できるようにしよう」
 最初にミスラが提示したルールからかけ離れていくが、気にもしないまま北の魔法使いたちの会話が続いていく。
「それ、先に下着を脱がせたい場合は、一旦全裸になってもらってまた着てもらうんですか?」
「魔法で脱がせればいいだろ」
「たしかにそうですね」
 盗み聞きを続けられたのは、そこまでだった。衝動に突き動かされるように、談話室の中に入る。北の魔法使いたちへの恐怖や気まずさは、全く感じなかった。ただ、この下品な会話から、すぐにでも彼を連れ出してあげたかった。
 一番奥のソファーに座っていた賢者さまは、小動物のように身を縮こませて、せわしなく左右を見渡していた。その視線が俺にひたと留まり、不安そうな瞳が一気に光を帯びる。賢者さまに釣られて、他の魔法使いたちも俺の存在に気がついた。四人分の視線がこちらに向けられる。
「なに? ヒースも混ざる?」
 妙に上機嫌な様子でオーエンが言った。まずいところを見られたとは、微塵も思っていなさそうだった。悪いことをしたという意識もないのかもしれない。対して、珍しくブラッドリーは決まり悪そうな顔をしていた。すぐに目をそらして前に向き直る。
「居たんですか? あなた」
 ミスラもオーエンとほぼ同じような感じで、何が起こっているのかも分かっていないような、ぼんやりとした顔をしていた。
「賢者さま」
 その三人をわざと無視して、声をかける。
「俺と一緒に行きましょう。ここには居たくないでしょうから」
 後半は、ほとんど当てつけのためだった。賢者さまが立ち上がり、こちらに駆け寄ってくる。ほとんど抱き着くように俺の腕にしがみついてきた。至近距離で、こちらを見上げる大きな瞳と目が合う。潤んだ、吸い込まれそうな瞳。他の三人がどんな顔をしているかなんて、少しも気にならないくらい、彼に選ばれたことが誇らしい。彼の肩を抱いて談話室を後にした。野次や揶揄いが飛んでくるかもと思ったが、意外なことに背後は静かで、それを不思議に思いつつも気にする余裕はなかった。

「もう、安心していいですからね」
 賢者さまを連れて、俺の部屋に到着する。二人並んでベッドに腰かけた。片方を椅子に座らせても良かったが、今は体が触れる状態でいたかった。
「あんなことを言われて怖かったでしょう? ここに居ればもう大丈夫ですからね」
 彼の手を取り、自分の膝の上に置く。覗き込んだ小さな顔いっぱいに、申し訳なさそうな表情が浮かんでいて、そんな顔しなくていいのに、と思った。迷惑をかけているとか、そんな心配を俺相手に感じて欲しくなかった。むしろ俺は、あなたをあの場から連れ出せたことを誇らしく思っているのに。
「一人になるのが怖ければ、俺の部屋で寝起きしてもいいんですからね。何日いても俺は構いませんから」
 もっと安心してほしくて、肩を抱いてより密着する。この部屋は広すぎる、と思った。普段はそんなこと思わないのに。壁も家具も、もっともっと中央に狭まって、身動きできないほどに俺を構成する物で、彼の身を包んでしまいたかった。
「いつもあんなことを言われてるんですか?」
 尋ねると、顔を伏せたままぶんぶんと左右に首を振る。よかった。何も話せないのをいいことに、脅迫めいたことを今までずっとされていたのなら、という不安が一瞬頭をよぎったから。
「賢者さま、今からでも、俺の部屋でずっと隠れ住んでいてもいいんですよ。他の魔法使いには失踪したことにしましょう」
 彼が弾かれたように顔を上げる。
「食事やお風呂の必要はありますから、まあ、協力してもらうために東の魔法使いには教える必要があると思うけど……みんな、秘密は守ってくれると思います」
 悲しそうな顔が、こちらをじっと見つめてくる。いやだな、こんな顔をして欲しかったわけではないのに。
「俺と二人きりで暮らしたら、さっきみたいな怖い目には遭いませんよ。絶対に、優しくします。俺が大切にします。何でも、望むものがあれば俺が用意しますし、ここが嫌なら、ブランシェット家に連れ帰っても……」
 まるで脅迫だ。自分で言っていてそう思う。それを証明するように、賢者さまの瞳は怯えるように揺れたままだ。何かを言いたげに、口を開きかけて、すぐに閉じる。力なく、うなだれる頭を見て、俺もこれ以上は何も言えなくなる。
「…………」
 一瞬視界に現れた赤い舌先のことを考える。声が出せない彼のそれは、役目を果たせずただそこにあるだけで、それはひどく禁欲的なことに思えた。唇を重ねて、そこに吸いついたら、彼はどんな顔をするのだろう。
「ずっと気になっていたことがあるんです」
「……?」
「お二人の記憶は、共有されているんですか? 今俺と一緒にいることも、あちらの賢者さまには伝わっているとか」
 賢者さまが首を左右に振る。そうだろうな、とは思っていた。
「なら、お二人の記憶が統合される機会が、いつか訪れるんでしょうか」
 難しそうな顔をして、首をかしげてみせる。分かるはずがない。この質問がどれだけ無意味で愚かしいことなのか、自分でも分かっている。これは確認ではなく、言い訳だ。自分がこれからすることへの自己弁護。「消えるその時まで」ファウスト先生に言われたことを思い出す。いつか消えてしまう存在なら──自暴自棄的な思考が、頭を埋め尽くすのを感じた。
「……賢者さま、この際だから、教えていただけませんか。俺の気持ちに、気づいているのかいないのか」
 澄んだ瞳が、不思議そうにこちらを見つめてくる。演技ではなさそうだった。喉が熱くなる。どうなってもいい、という投げやりな興奮。
「なら、今この場で言わせてください。あなたのことが好きなんです。友人としてではなく、将来を誓い合った関係として……あなたの恋人になりたいんです」
 あどけない顔が一気に赤く染まる──ことは、無かった。むしろ呆然とした顔でこちらを見つめ返している。純粋に、予想になかったものとして、受け止めている。そこに嫌悪や恐怖が含まれていないことだけが、唯一の救いだった。半開きになった唇の奥で、あの舌先が縮こまっている。誘われているような気がした。導かれるように、唇を押し当てる。舌は入れなかった。こちらに注ぎこまれた吐息の震えが、十分すぎるほどに彼の温度を感じさせてくれた。肩を掴んだまま、体を離す。今はさすがに、彼の表情を窺う余裕はなかった。
「……すみません」
「……」
「卑怯ですよね、服を脱げって強要するのと、ほとんど同じで……」
「あの、」
「こんなに独りよがりな奴が、賢者さまの恋人になんて」
「あの、ヒース」
「…………」
 聞こえるはずのない声が聞こえて、顔を上げる。信じられない気持ちで彼を見つめるも、そこに浮かんだ気まずそうな表情が全てを物語っていて、一気に冷や汗が噴き出し始める。
「すみません、俺、話せる方の賢者で……」
「い、」
「い?」
「い、いつから……」
 自分でも意味不明な質問だと思った。でも、それくらい混乱しているのだ。
「北の魔法使いと、口裏を合わせてたんです」
「……」
「任務が急に中止になったからって、暇つぶしに賭けをしようってブラッドリーが言い出して、『次に誰か通りかかったら、賢者を助けるかどうか試してみよう』って」
 うつむいた彼の顔に、前髪がかかる。
「俺は演技できる気がしないって言ったら、『話せない方の賢者のふりをしてろ』って。即興だったので、台本も打ち合わせもなくて、ああいう展開になるって分かってたら、絶対に乗らなかったんですけど……」
 そこで賢者さまは改めて頭を下げた。
「すみません。すぐに打ち明けていたら良かったのに、込み入った話をしていくうちに、こっちの俺だって教えない方がヒースを傷つけずに済むと思ってしまって……」
「……いえ、賢者さまが、本当にひどい目に遭っていたわけではなくて、良かったです……」
 全く良くない。そこまでは良いとして、俺が話したこと、してきたことは、どうなるんだ。記憶を順に辿ろうとするけれど、あまりの恥ずかしさに頭が沸騰して何も考えられなくなる。
「じゃあ、あの三人も、全部演技で……」
「はい、ミスラが助けないに賭けてて、ブラッドリーとオーエンが助ける方に賭けてました」
 ブラッドリーの反応に違和感を覚えたのは、それか。前に向き直ったのは、抑えきれずに出た笑みを隠そうとしたのかもしれない。ミスラはさして悔しがってもいなかったが、もしかしたら賭け事であることさえ理解していなかった可能性もある。今頃、払う払わないで揉めているのだろうか。
「ええと、ヒース、さっき俺に話して……してくれた、ことは……あの、嬉しくて……」
 彼が顔を手で覆う。指の隙間から潤んだ目と、長いまつ毛と、火照った肌が覗いている。
「嬉しくて……その……」
「……」
「……」
「……賢者さま、お部屋までお送りしますよ」
 返事を待ってみたけれど、今この場で続きが口にされることはなさそうだったので、その手を取って立ち上がった。
「あ、はい……」
 あからさまにほっとした様子で返事をされて、少しだけ意地悪をしたくなる。手をつないだまま彼の部屋に向かい、別れる寸前に「返事、いつか聞かせてくださいね」と言った。賢者さまは、うやむやになっていたお説教をされたような顔で上目遣いにこちらを見てきた。「そんな可愛い顔をしても、ダメですからね」と言って、その場を後にした。

 話せない方の賢者さまの死は、あっけなく訪れた。ある朝、彼の部屋の床に、極彩色をした鳥の死骸が横たわっていた。
「長寿の魔法使いの間では有名な鳥じゃ」
「強すぎる魔力を持ち、数日間だけ対象の生き物の姿に変身することができる。対象の記憶さえ読み取るので、まさにそれそのもののように振る舞うことができる。まだ魔法使いの世の時は純粋に獣として生きていたが、人間の社会になってからは、そうやって生き延びていくことが多くなった」
「俗に言われるドッペルゲンガーとは、こいつのせいと思われておる」
「しかしこやつも憐れな生き物でな、死期を悟ると、最後の力を振り絞り別の生き物に変身する」
「自分が鳥であったことさえも忘れて、最期の時を生きるのじゃ」
「それこそ死に際に見る夢のように」
「声が出せなかった理由は?」
 双子先生の説明に、質問をしたのはファウスト先生だ。
「見れば分かるでしょう、ほら」
 喉元が見えるように、ミスラが爪先で死骸を転がした。目視でも分かるほどに、大きな傷跡がある。
「しかし、死に際であるが故に、普通は長くても数日ほどしか持たぬはずなのだが。ずいぶん長く生きたものじゃ」
「ここにいる魔法使いたちからひっそり魔力を吸い取っていたのか」
「もしくは、こやつにとってよほど幸せな夢だったか」

 もう一人の賢者さまはこうして消えてしまった。彼がここで暮らしていたのはとても短い期間だったはずなのに、誰もが彼の不在を惜しんでいる。クロエは作りかけの刺繍を見て肩を落としているし、カインはまた空室になった部屋へ、朝起こしに行ってしまったらしい。けれど、一番に彼の消滅を悲しんでいるのは賢者さまのような気がした。
「すごいですよね。記憶も、俺の世界の文字も書けるなんて、ここにいる魔法使いたちでもできないんじゃないでしょうか」
 彼と書き合った会話の断片を見返しながら、賢者さまが言う。色んな紙切れに散らばった文字。筆跡さえ、同一人物が書いたとしか思えない。俺にはなんて書いているのかさえ分からなくて、その意味では少し嫉妬してしまう。俺もこの人の前から突然消えたら、こんな風に惜しんでくれるのかな。そんな空想さえついしてしまう。けれど、惜しんでもらうことよりも先に、まだ俺はこの人から聞けていない言葉がある。
「ところで、賢者さま」
「はい?」
「あの時の返事を、今教えていただいてもよろしいですか?」
 賢者さまの表情がひたと固まる。みるみる赤くなっていく顔を隠すように、伏せた顔を腕で遮る。
「な、なんでいま……」
「好きな人が精神的に弱ってる時に、こういう話をするのは卑怯だと分かっています」
 腕を剥がして、真正面から彼を見つめる。まっすぐに生えた長いまつ毛。頬が紅くなっているせいか、瞳の潤みがより強調されていて、可愛い。
「あの、でも、あの時って、ヒースはもう一人の俺のつもりで言ってたので、ノーカンというか……」
「なら、いまやり直しましょうか。本当の賢者さまを相手にしても、話す内容も、俺の気持ちも全く変わりませんが」
「うう……」
 賢者さまはしばらく口をつぐんでいた。言葉を選んでいるのか、それとも前回のように俺の方から折れてくれるのを待っているのかもしれない。けど、もし今誰かが部屋を訪ねてきても、用事が終わるまで廊下に立ち尽くして、それが済んだ瞬間にまた詰問するつもりだし、逆に彼がどこかへ連れ出されるなら、一生部屋の中で待ち続けるつもりだった。数分待って、観念したのか賢者さまが口を開く。
「俺で、良ければ……。こんな俺でも良いなら、恋人として、これからもよろしくお願いします……」
「はい」
 閉じ込めてしまいたいと、あの時は本気で思っていた。誰にも触れさせず、俺の部屋の中で、俺だけを待っていてくれたらいいのにと。話せずとも、はにかんだり困ったりする姿を見るだけで、あんなにも愛おしく感じていた。声を持たなくても、自分の欲しい言葉を妄想の中で押しつけていれば十分だった。それなのに。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。賢者さまのこと、絶対に幸せにしますから」
 欲しい言葉を、彼自身の意思でこちらに返してくれる。それだけのことが、こんなにも胸を満たすのだと、俺はこの先ずっと忘れない気がした。