光の当たるところにいてね

 夏が近いせいだろうか。ずいぶんと日差しの強い日だった。
 日陰とそうでない場所の明暗がはっきりとしていて、そのコントラストに頭がくらくらしそうになる。気分転換にと外に出てはみたけれど、部屋で大人しくしていた方が良かったのかもしれない。彼は早くもそう後悔し始めていた。
 ふと足元を見る。木陰に足先が入り込んでいた。靴のつま先が、影の中で濡れたように黒々としている。くっきりと明暗の分かれた地面は、何かの暗喩のためにそうされたかのように思えた。例えば、正常かそうでないかを分けるかのように。
 木の根元に、誰かがしゃがみこんでいる。こちらからは背中しか見えない。それでも、フード付きの白い上着のおかげで、誰であるのかすぐに分かった。
「賢者様」
 そう声をかけて近寄ると、彼がこちらに気がついた。無防備な笑顔を浮かべて、フィガロを見上げる。木漏れ日がその顔の上に落ちて、光の残滓が鼻先や目元を通り過ぎていった。
「どうしたの? 具合でも悪くなった?」
「アリの巣を見てたんです」
 賢者が視線を戻すのを追うと、確かに黒々とした土の上をそれらしき虫が列になって歩いている。フィガロは丸い後頭部越しにそれを見た。
 スノウ様が好きそうな子だな。彼は賢者のこういった面を目にするたびに、そう思っていた。ほどほどに善良で、愛らしいくらいに無力で、自分の手の届くものだけを手にしていれば満足できる人間。こうやってしゃがみこんでアリの巣なんかを見ていても、かわい子ぶっているとはギリギリ思われないだろう性格。
(愛玩用だ)
 少なくともスノウ様ならそう思うだろう。フィガロは心の中でそう呟いた。
「へえ、賢者様らしいね」
「そうですか?」
「ちっちゃいものとか可愛いものが好きなイメージあるからね」
 そう言うと。何故だか賢者はきまり悪そうな、どこか居心地が悪そうな笑みを浮かべた。ズボンの裾を軽くはたきながら彼が立ち上がる。そして「すみません、本当は違うんです」と言う。
「本当は、少し一人になりたくて、まだ魔法舎に帰りたくなかったので、ここで時間潰してたんです」
「へえ」
 フィガロは相槌を打ちながら、ほんの数ミリ単位の戸惑いを感じた。他者から何かを打ち明けられることには慣れていたが、賢者がこうやって本音を零す姿は、あまり予想していなかった。彼に警戒心を持たれているのは分かっていた。「初動」に失敗したからだと、あの籠絡云々の会話をした時から理解していたことだが。
「声かけちゃってごめんね」
 賢者は少しはにかみながら「いいんです」と返す。ここでどう話を繋げるべきだろうか。賢者との距離感を掴みかねているフィガロが、そう考え始めたところで、意外にも賢者の方から口を開いた。
「それに、フィガロとお喋りできたので」
「うん?」
「いまこうやって話してたら、ちょっと気が楽になりました」
 フィガロは自分の鼓動が、すぐ耳元で鳴ったように思えた。黒々とした木陰の中で。
「……大げさじゃない? アリの話しかしてないよ」
「でも、本当にそう思ったんですよ」
 そう言って、賢者が笑顔を浮かべる。無害な顔だと、以前ならそう思っていただろう。けれど今は、そこに別の感情を抱いてしまいそうだった。慣れていたはずなのに。こういう、なんてことない小さな好意を、自分は何度も向けられてきたはずだ。そう自分に言い聞かせようとする。
 触りたいな、とフィガロは不意に思った。見下ろした先の、賢者のシャツの隙間から覗く、白い鎖骨が目に入った。湧き上がる欲求をごまかすように、代わりに賢者の頭を撫でた。
「わっ」
 触れた髪越しに、戸惑った様子が伝わってくる。それに気がつかないふりをして撫で続けた。賢者は少し首をすくめるようにして大人しくしている。手を離すと、気恥ずかしそうな表情をして彼が顔を上げた。
「びっくりしました」
「あはは。そうだと思った」
「フィガロって、あんまり頭を撫でてるイメージないので」
「そう?」
 そうかもしれない。フィガロは自分でも初めてそれに気づいた。ミチルの頭を撫でてやったのはいつが最後だろう。南の国にいた頃は、頻繁にそうしてやっていた気がするのだが。
「レノがしてる姿ならすぐに想像つくんですけど」
「ああ、それは分かるよ」
「あと俺相手なら、カインもよくしますし」
「そうなの?」
 年若い騎士の姿を思い浮かべる。リケやミチル相手にそうしているのは想像つくが、賢者にそれをしている印象はなかった。どちらかというと、背中を叩いたり、肩を組んだりしている方がありそうだが。ひやりとしたものが、風のようにフィガロの頭を掠めていった。それは彼を正気に戻らせようとするような、夢から覚めるようにと促されたもののように感じた。
「フィガロ」
 その声で我に帰る。幼げな顔がこちらを見ていた。
「先に戻ってますね」
 そう言って賢者が魔法舎に向かっていった。白いフードが木陰の中でひるがえる。それはすぐに日向の下に消えていった。
 特に用事はなかったが、フィガロはしばらくそこに留まっていた。木陰の中から見る日差しは、どこか作り物めいて見えた。

 後日、フィガロはカインを魔法舎の中で呼び止めた。随分長いこと機会を窺ってからのことだった。なにせ、いつも周囲に誰かがいるものだから、一人きりになるのを待つことにさえ苦労した。
 珍しいな、とまずカインは言った。
「ああ、アーサーに用があるのか?」
「ううん、君にだよ」
「俺に?」
 首を傾げるのに合わせて、茶褐色の髪が揺れる。目元や頬のような端々に、相手が自分よりずっと若い男であることをフィガロは再認識した。それは幼いとはまた別のものだ。賢者に感じているものとは違う。もしかしたら幼さとは、年齢ではなく精神面に宿るものなのかもしれない。
「前に賢者様から聞いたんだけどさ、よく君に頭を撫でてもらってるって」
「ああ、してるよ。それがどうしたんだ?」
「あんまり人前でしてるの見たことないなって思って」
「うーん、確かに二人っきりの時にしかしてないかもな」
 そこまで答えた後に、カインは「別に、賢者様に変な気があるわけじゃないぞ?」と弁明する。
「あはは、いや、それは分かってるんだけどさ」
「ならいいんだけどさ」
「それくらい仲がいいならさ、他の魔法使いは知らないような賢者様のことも、知ってるんじゃないかと思って」
「賢者様のこと?」
「何が好きかとか、何をすればどんな顔をするのかとかさ、知りたいなあって思って」
 フィガロはできる限り、愛想の良い笑顔を作りながら言った。
「その代わりに、君が俺に聞きたいことがあったら教えるからさ。賢者様のことじゃなくても、南の国の事でも何でもいいし」
 そう言い終わって、フィガロは反応を窺った。目の前のカインは、あの人当たりの良い微笑を浮かべたまま、じっとフィガロを見つめていた。そこに疑心や、本心を探り当てようという意図は無いように思えた。だからこそフィガロはたじろいだ。
「嫌だな」
 無色透明の、どちらかといえば好意的な笑みを顔に浮かべたまま、カインはこう言ってのけた。
「なんか賢者様の情報を売り買いしてるみたいじゃないか? 代わりに知りたいことがあったら教えるとかさ。そういうの好きじゃないんだ」
 カインはやはりにこやかに言葉を続ける。敵意がなさそうなのが余計に、真綿で首を絞められているような感覚があった。
「あはは、悪い悪い。変な断り方しちゃったよな」
「いや、いいよ。俺も嫌な言い方したからね」
「そうか?なんか納得いかなさそうな顔してるぞ」
 フィガロはまたしても、肌に刃を押しつけられたような錯覚を覚えた。こちらの真意を見抜いての言葉なのか、無意識によるものなのか判断がつかず、フィガロは恨めしそうに年若い魔法使いを見た。
「なんか、してやられたって気分」
 言い返す言葉も思い付かず、冗談めかしてぼやいてみせると、気持ちいくらいの笑い声が返ってきた。
「ははは!なんだそりゃ。そう言うならお前の方がこういうの得意そうに見えるぞ」
「ふうん、こういうのって?」
「ほら、オズのことたしなめたりしてるだろ? 俺ならあんな風にオズを止めたりできないからさ」
 嫌な部分を引き出してやろう、という意趣込みの質問だったのだが、それさえも躱されたような気分にフィガロはなった。
「まあ、賢者様のことは本人に聞いた方がいいだろ。そっちの方がお前も賢者様と話せるし楽しいんじゃないか?」
「そうかなあ」

 深夜。魔法舎の廊下をフィガロは歩いていた。行き止まりには大きな窓があり、賢者が眠れない時、そこで夜風を浴びながら外を眺めているのを知っていた。もし今日もいるのであれば、二人きりで話せるチャンスになる。こういった真夜中に話す方が、フィガロは好きだった。会話が弾まなかったり、ぽつぽつと途切れ途切れに話す雰囲気になっても、周囲を起こさないように気遣っているからだ、と自分に言い聞かせられる。
 その一方で、賢者がそこに居なければいい、と思う気持ちもあった。居ないのであれば、自室でぐっすりと眠れている証なのだから。
 賢者との仲を深めたいのか、それとも穏やかに暮らしていて欲しいのか、自分が何を望んでいるのか分からないまま、フィガロは廊下の端に向かった。
 予期していた通り、そこには賢者がいた。窓辺にもたれかかり、空を見上げている。レースのカーテンが半分顔にかかっている。半透明の幕越しに見る横顔は、ひどく神聖なものに見えた。賢者がこちらに気がつく、驚いて少し目を丸くした後、微笑に変わる。咄嗟に拒絶の表情が出なかったことに、フィガロは安堵した。
「眠れないの?」
 そう尋ねると、「はい」という言葉の後に「フィガロもですか?」と賢者が尋ねる。
「俺は、誰かとお喋りしたくて」
「じゃあ、ちょうどいいですね」
 二人で並んで空を眺める。夜風は冷たく、体温が上がり始めたフィガロの首筋をゆるやかに撫でていった。
「雲が出てますね」
「うん」
「でも、星は見えるから、雲の向こうは晴れてるんでしょうか」
「かもしれないね」
 他愛のない会話だ。そう思いながら、フィガロはこの時間が愛おしいものに思えた。会話が続きさえすれば、賢者の隣にいる時間が引き延ばせるように感じるのだ。
 そこまで思って、フィガロは会話というものについて、相手から情報を聞き出したり、親密になるための手段として利用するばかりで、それ自体を楽しんだことが自身にはないような気がしてきた。今がそれにあたるのだろうか? 賢者の方も、もっと話していたいと思ってくれていたら、犬みたいに飛び跳ねて喜んでしまえそうなのに。
「もっと雲がなかったらよかったのにね」
「フィガロは晴れてる夜の方が好きなんですか?」
「いや、賢者様が見るなら、綺麗な空の方が良いと思って」
「ええ?」
 からかうような声でそう聞き返される。一緒に漏れ聞こえてきたくすくす笑いが、耳がくすぐられそうなほど近くで発せられた気がして、フィガロは体が火照るのを感じた。
「フィガロは優しいんですね」
「そうだと良いんだけど」
 フィガロは一拍置いて「ねえ、賢者様」と切り出した。
「賢者様は、『今日もあの子に良いことがあって欲しい』って思えるような相手がいたことある?」
「良いこと、ですか?」
「例えば、あの子が今日もちゃんと眠れてるといいな、とか。たまにそう思うんじゃなくて、毎日、真剣にそう考えちゃう感じの」
「ううん、毎日はあんまりないかもしれません」
 たまになら、魔法舎のみんなに思うんですけどね。落ち込んでないといいな、とか、今日楽しそうにしてくれていて良かったな、とかはあります。微笑を浮かべてそう答える顔に、フィガロは慈しみに似たものを覚える。
 光のあたるところにいて欲しい。フィガロが賢者に対して抱く感情は、そんな祈りに集約されているような気がした。
「フィガロは、そう思える相手がいるんですか?」
 真正面からそう尋ねられて、胸が強く跳ねた。見つめあった瞳は、空の色がそのまま映り込んだかのように透き通っている。変に否定しても、この瞳を前にしたら誤魔化しきれないように思えて、フィガロは正直に答えた。
「いるよ」
「すごいですね。羨ましいです」
「羨ましいって、俺が?」
「その相手の人がです」
 恋バナをしている気分なのか、弾んだ声で賢者が言う。
「フィガロって器用だから、何か一つのことにのめりこんでるイメージがないので、そういう人にすごく好きになってもらってるって知ったら、嬉しくなると思いますよ」
「そうかな」
「そうですよ。特別な感じがして、絶対嬉しいです」
 フィガロは、緩みそうになる口元を抑えようとした。チョコレートのかけらを口に含んだかのように、甘やかな感覚が体中に広がっていく。この言葉で、こんなに嬉しいと思っていることをこの子に伝えられたらどれだけ良いだろう。
 でも、もし想いを伝えたとして、拒絶されたら? その発想だけで指先が凍えていくような心地がする。こうして笑顔を向けてくれているのも、自分に執着を向けていない存在だからこそかもしれない。その考えを、フィガロは理解できる。自分に執心し始めた人間や魔法使いたちを、面倒だからという理由で今まで切り捨ててきた。
 フィガロは、窓辺に置かれた賢者の手を取った。夜風に当たっていただろうに、冷えているかと思ったその手は、思っていたよりもずっと温かかった。
「フィガロ?」
 炎を閉じ込めようとする氷のように、フィガロは自身の手が溶かされていくような錯覚を覚えた。
「冷えてるね。戻ろうか」
 窓を閉じて、二人で廊下を歩く。フィガロが一歩先を、その後を賢者がついて行った。二人分の足音と、衣擦れの音が静かな廊下に響く。背後から賢者が、おずおずと声をかける。
「あの、実は知り合ってすぐの時、フィガロって少し薄情な人なのかなって思ってた頃があるんです」
「あはは、スノウ様なら認めるかもね」
「そんなことないですよ。すごく優しいです。さっきだって、俺のことを気にかけてくれたじゃないですか」
 その言葉にわずかな苛立ちを覚えたのは何故だろう。踏み込みすぎないように、傷つけないように。自分ばかりが神経を尖らせている。不意にそう思ったのだ。踏まないようにと気をつけているのに、子猫にじゃれつかれている飼い主の気持ちはきっとこんな風だろう。
 フィガロは足を止めた。背後を振り返る。薄闇の中で賢者も立ち止まった。その瞳に映る自分の姿を彼は想像する。笑顔を作れているはずだと自分に言い聞かせた。
「賢者様は、特別だから」
「特別……」
 なんてことない言葉だ。だからこそ、いつものようにただの冗談だと受け取って聞き流すだろうと思っていた。
 賢者の唇がその言葉をなぞった後、彼の目がゆらいだ。動揺がその瞳に走った。まさか、という表情だったのが、徐々に確信に変わっていくのが、すべて見て取れた。まるで夢から覚めるように、膜が剥がれるように、氷が溶けていくように。
 失敗した、とフィガロは思った。気付かせるつもりはなかった。賢者がどんな返答をするのか、それを知ることすら怖かった。
「おやすみ」
 できるだけ穏やかな声で、フィガロは言った。すぐに切り上げさえすれば、あれは気のせいだったと思わせることができる。あれは夢だった、自分の勘違いだった、はっきりと言われたわけじゃなかったから、と。自室の前で、あとはもうドアを閉めさえすれば、賢者の視線から逃げられるところで、もう一度振り返ってフィガロは囁くようにこう言った。
「明日はちゃんと眠れるといいね」