シルバーアッシュは昔から、人の美醜に興味を抱いたことがなかった。
顔が美しいのか醜いのか、それによって人生が全て決まると考えている者もいるらしい。それが全てとは言わなくても、相手の価値を測る物差しにするのが当然だと考えている者もいる。しかし彼としては理解しがたい価値観だった。幼少のころから両親に「人の外見についてあれこれ考えるのは品のないことだ」と言い聞かせられていたが、その教育がなくとも自分は美醜に興味を持たなかっただろうと彼は考えている。
人気のない廊下を、執務室に向かってシルバーアッシュが歩いている。その脚へ、生暖かい空気がまとわりついていた。もう梅雨に差し掛かろうとしているためだろう。外の湿度が艦内にまで入り込んでいる。服の下の肌にまで、ベタベタと張り付いてくるその空気は、彼をむず痒い気持ちにさせるのと同時に、予感めいたものを不思議と抱かせていた。
執務室のドアをノックする。数秒待っても返事はなかったが、構わず彼は中へ足を踏み入れた。本当に部外者を入れたくない時は、きちんと施錠していると知っている。見慣れた書類の山や、来客用のローテーブルが彼を出迎える。室内は静まり返っており、誰も居ないように思えた。しかし部屋を見渡していた彼の目が、執務机に顔を伏せている人影を見つける。机に敷いた腕へ頭を預けているために、どうやら仮眠しているらしい。
子供か、と彼はとっさに思った。小柄なシルエットが彼にそう思わせた。
顔立ちがはっきりと分かる距離にまで近づいても、その判断は変わらなかった。幼げな顔立ちが、前髪の下から覗いていた。目元や眉の雰囲気から、少年だろうと彼は思った。しかし鼻梁や口元は、どこか少女じみている。閉じられたまぶたの生白さは、人形のようでもあった。
その机は、普段ドクターが使っているものだとシルバーアッシュは理解していた。それなのに、そこに上体を伏せている少年を見ても、ドクターであるとは思いもしなかった。部下が仮眠するために机を貸しているのかもしれない。そんな仮定がまだ頭にあった。この少年がドクターであると、シルバーアッシュが気が付いたのは、彼が目を覚ました瞬間だった。
まつ毛が微かに揺れている。シルバーアッシュは奇妙な胸のざわめきを感じ取った。この少年が誰であるかもわからないのに、肉体がその目覚めを食い入るように見ようとする。まつ毛が重たげに持ち上がり、うすい色をした瞳が徐々に奥から現れていく。照明の灯りを呑み込んで、その瞳孔が不可思議な色を帯びていった。二、三度の瞬きで、その瞳がまつ毛に埋もれてはまた現れていく。その光景は、幼少期に理科の授業で見た、花が開いていくのをスローモーションで捉えた映像に似ていた。
少年がシルバーアッシュに気がつく。まだ夢を見ているような声で「シルバーアッシュ?」と呼んだ。それはまさしくあのドクターのものだった。その声を聴くより前に、彼がドクターだと本能的に分かってはいたのだが。
「ああ」
返事をしながらも、シルバーアッシュの目は未だにドクターの顔に釘付けになっている。瞳の印象が増したせいだろうか。まだ少年らしさがあると思っていた顔が、ひどく可憐なものに見え始めていた。唇の色や、目の下の薄い隈が、鮮明なほどにシルバーアッシュの視線を吸い寄せていく。ドクターが不思議そうに「変なことでもあった?」と尋ねる。
「カエルが跳びかかってきたみたいな顔してるよ」
「そう見えるか」
「うん」
「お前の顔を初めて見た」
「そうだったっけ」
ドクターは驚いた風もなくそう答える。彼にとって、素顔を見られたということはさして重大事件でもないようだった。首を傾げた際に髪の毛の先がフードの上を零れ落ちていく。
「寝起きなら出直してくるが」
「そうして欲しいな。まだ頭がちゃんと働いてない」
シルバーアッシュは部屋を出た。そうしてようやく、頭と胸に昇っていた血が、全身に回り始めたことを知る。血の巡りが正常になり始めた指先が、むずがゆさを覚えていた。その手をじっと見つめる。あの白いまぶたとは、似ても似つかない色だと思った。
その日、出直したシルバーアッシュが執務室でしたドクターとの会話は、とりとめもないものだった。既にフードやシールドを付け直し、顔をすっぽり隠してしまったその姿に、内心彼は落胆していた。もちろんそれを表に出さないように努めていたが。
そして今日、甲板のふちに腰かけているドクターはやはり、いつものように顔を隠している。シルバーアッシュに気が付くと、あどけない動作で彼を見上げた。
「珍しいね。一人で甲板に来るの」
「お前がいると聞いたからな」
「隣に座ってもいいか」と尋ねると、「どうぞ」とスペースが空けられる。隣に腰を下ろしたシルバーアッシュは、ドクターの顔をじっと見つめた。シールド越しに、あの整った横顔が透けて見えないだろうかと思ったのだ。額から鼻にかけてと、鼻先から唇までの微細なライン。残念なことにそれは実現しそうになかった。不意に、ドクターがぐるりと顔ごとこちらを見た。
「最近私の顔ばかり見てるね」
二人の視線が交わる。シールドに阻まれてその瞳は見えないはずなのに、目が合っていることは何故だか本能的に分かった。この、バスケットボールほどしかなさそうなフードとシールドの中に、あの顔が全て詰まっているのだろうか。あの眉も目元も鼻梁も唇も。
「誰かに似てたりする?」
「いや」
「じゃあ、見ていて面白い顔とか」
シルバーアッシュはほんの数秒だけ考え込んだ。いま自分の身に起きていることをどう言語化するべきか。隣で手持無沙汰に足を揺らしているドクターは、さして理由を知りたがっているようには見えない。自分の弱みは、言わずに済むのなら隠し通すべきだ。シルバーアッシュは口を開いた。飼い主に向けて腹を見せつける、地面に寝転がった犬のような気持ちで。
「お前が納得するかは分からないが」
「うん」
「お前の顔を見て初めて、人の顔を美しいと思えた」
それを聞いたドクターは、特に驚きも喜びもしなかった。どことなく眠そうな顔をして、片目をこすった後に「それが理由?」と言いたげに見てから「よかったね」とだけ返した。「人生で初めてってことなんでしょ?良かったね」と。
それ以外に言うことはないらしく、ドクターは前に向き直るとまたぶらぶらと足を揺らし始めた。
もっと別の理由を話せばよかったのかもしれない。嘘ではないにしても、もっとドクターの気を引けるような言い方にできなかったのか。シルバーアッシュはそんな風に後悔し始めていた。もし別の答えを返していたら、あの顔が無邪気に笑ったり、興味深そうにこちらをじっと覗き込む様子を見れたのかもしれない。フードで覆い隠されているためにその顔自体は見れなかったとしても、彼にそんな表情をさせることができたのならば、自分は彼にとって特別な存在になれたように思えただろうと思った。