「ドクターって、きれいな顔してますよね」
アドナキエルのその言葉に、過度な羨望は含まれていないように思えた。例えるなら、「うさぎの耳は長いですね」と言うのにも似た、奇妙な淡泊さがあった。
彼の言動はいつもそうだった。喜怒哀楽のどれであっても、一定の範囲を超えた感情表現をしたがらない。彼が快適にコミュニケーションをとれる間合いがそうなのかもしれない。
なので彼と対話しようとした時、その間合いにこちらが合わせることになる。スチュワードはそれに戸惑って、「何を考えているのか分からない」と言っているらしいが、自分は悪くない距離感だと思っていた。
「顔がきれいなのは君もそうでしょ」
目が大きいし、と付け足す。まだあどけなさを残した彼の目は、ただ可愛らしいだけでなく、どこか聡明な光を帯びている。なにもかもを見透かしたうえで、ああいった笑みを浮かべてるんじゃないか。そう疑いそうになる雰囲気が彼にはあった。
「そうかもしれないけど、ドクターのは違いますよ」
「どう違うの」
「なんだろう。うまく言えないんですけど、妖艶っていうのかな」
妖艶。日常的じゃないその言葉に、なんだか笑い出したくなる。でも、私がその言葉に感じたちぐはぐさを、この子は私の容貌に感じているのだろう。なんとなくそんな感じがした。
彼の両手が伸ばされて、私の頬を包みこむ。そのまま引き寄せられて、顔を覗き込まれた。フェイスシールド越しに至近距離で見つめ合っているというのに、彼の表情に特別なものは見られない。壊れた機械を直している時のような顔をして、まつげや鼻梁やくちびるを、一つずつ点検していくように視線を移動させていく。
「ドクター」
「うん?」
「きっとこの顔が原因で、この先いらない苦労をしますよ」
「それは困るなあ」
「整形でもしようかな」と、フェイスシールド越しに頬がある辺りを撫でながらぼやいてみる。彼は愉快そうに笑った。
「ケルシー先生が許しませんよ。必要性のない手術なんて。ドクターはただでさえあっちこっちガタがきてそうな体なのに」
「そうだね」
笑っている彼の顔に何の他意も感じられないのを見て、妙に安心したのをこの時覚えている。
なんだってこの廊下はこんなにも眩しいのだろう。蛍光灯を新しいのに換えたばかりなのだろうか? そのせいで、相対した彼の影が黒々と長く床に伸びて、私の全身を覆っている。
「数年ぶりに会ったような心地がするな」
シルバーアッシュがこちらを見下ろしながら言う。実際には数週間前に一度会ったはずなのに、変なことを言う男だ。閉塞感のある廊下と、その長身のせいでずいぶん威圧感のある光景になっている。
「そうだね。元気そうでなによりだよ」
面倒なことが起こりそうで、長話をする気にはなれなかった。じゃあね、と言い残して彼の横を通り過ぎようとする。しかし彼の尻尾が同じ方向に伸びて、私の腹に押しつけられたかと思うと、さっき立っていた場所へと押し返される。ゾウの鼻先を思わせる器用さだ。なんらかの種目で金メダルでも取れるんじゃないだろうかと思う。どうも先に行かせる気はないらしい。仕方なく会話を再開することにした。
「ロドスに来てたんだね」
「昨晩のうちにお前の端末にメールを送っていたんだがな」
「知らないよ。変な単語でも入れて迷惑メール扱いされて弾かれたんじゃないの?」
そうやって会話を続けながら、ついさっき出くわした瞬間のことを思い出す。廊下を歩いているうちに、向こうの曲がり角からシルバーアッシュがやってきたのだ。──彼の種族の元となった動物は、岩陰に身を潜め、目当ての獲物を探して狩りをするのに適した生態であったらしい。
不意に、シルバーアッシュの手が頭に伸ばされたので、体をよじってそれを避ける。
「なにするの」
「顔を見たいと思っただけだ」
「フェイスシールドを取ろうとしたでしょ」
「久しぶりに友人と会って、顔を見て話したいと思うのは当然のことだろう?」
「でも、君は普通じゃないから」
灰色がかった瞳と、まっすぐに見つめ合う。黒目を縁取るように赤色が溶け込んでいて、それが一瞬だけ膨らんだ気がした。
「私の顔を見る時、いつも変な目をしてる」
それを聞いた途端に、シルバーアッシュの笑みがいっそう濃くなったように思えた。傍目からは、さして表情は変わっていない。けれど、霧が音も無く乳白色を帯びていくような、それに似た変化がそこにはあった。
「どういう目だ? 言ってみろ」
「知らないよ」
「お前は分かっているはずだ」
「知らないって」
本当に私は何も理解していない。ただ、彼の視線が顔の上を這うたびに、何かを塗り広げられているような感覚を抱いてはいる。私が実感しているのはそれだけだ。
しばらく二人で見つめ合った。シルバーアッシュの方から何かを言い出す気配はなく、このまま黙り込んでいても、彼が道を譲ってくれそうにもなかった。私は諦めて、フェイスシールドに手をかけた。もとから我慢強い性質でもない。留め具を外し、シールドを顔から引き剥がす。数時間ぶりの外気が、頬を冷たく撫でた。
「これで満足した?」
そう言いながら、シルバーアッシュを見上げた。彼はうっすらと笑みを浮かべたまま、黙ってこちらを見ている。瞳孔が開き切っていた。手が伸ばされる。今度は避けなかった。手のひらが頬を包み込み、手袋越しの親指が目元を撫でる。くすぐったさに目を瞬かせると、蝶が羽ばたくみたいにして、まつ毛の先が皮手袋をはたいた。
「くすぐったいよ」
さすがに顔を背けようとすると、それを追うようにして親指が今度はくちびるを撫でる。不満気に少し尖らせていたそこを、押しつぶすように指を押し当てられた。
「うぶぶ」
これ以上顔を背けたら、首が180度回転するんじゃないかというところまできて、背後からの足音に気がついた。
「ドクター」
スニーカーが床を擦る音。声のした方を振り向く。頬を鷲掴みしていた手から力が抜けたので、自然とシルバーアッシュから距離をとることができた。
照明の灯りの中に、サンクタの輪っかの光が紛れ込んでいる。アドナキエルがそこに立っていた。慌てて駆け付けたという風ではなく、偶然そこにいた友人に声をかけた、という風にして。
「けんかですか?」
面白がるような目をして、あの大きな瞳がこちらを見ている。
「まさか」
「遊んでいただけだ」
「それならいいんですけど」
彼がすぐそばまでやって来て、自然な動作ですくい取るように手を繋がれた。
「カーディちゃんが呼んでますよ」
「カーディが?」
「お昼一緒に食べるって約束してたんでしょう? オレもご一緒してもいいですよね?」
そこまで聞いて、彼が合わせてくれているんだとようやく気がついた。私の肩越しに、アドナキエルがシルバーアッシュを見る。何もかも見透かしていそうな金色の瞳。
「約束でもしていましたか」
「いいや」
「なら、行きましょう」と言って彼が私の手を引く。素直に従うことにした。シルバーアッシュから徐々に遠ざかっていく。もう手を繋いでいる必要はないんじゃないだろうか。十分に距離をとってそう思い始めた頃に、アドナキエルの方から口を開いた。肩を寄せて、内緒話をするみたいに。
「やっぱり、いらない苦労をしてるじゃないですか」
「そうかも」
少し落ち込みながらそう答える。いらぬ迷惑な部下にかけてしまった、という気持ちが胸にあったからだ。
「オレがいなくても、なんとかできるようになりましょうね」
「アンセルみたいなこと言うんだね」
「オレは舌打ちなんてしませんよ」
「それは知ってるけど」
「今度同じことがあったら、痴漢だーって叫んでおけばいいですよ」
「ちかん?」
びっくりしてアドナキエルの顔を見る。彼は平然として、なにを驚く必要がある、という表情をしていた。
「冤罪はよくないよ」
そうたしなめると、「なにいってるんですか」と返された。
「実際に触られてたんだから、痴漢ですよ」
「そうなの?」
「触られてたんでしょう?」
「うん」
「じゃあそうですよ」
それでも納得できないでいると、「いらない苦労をしますよ」と繰り返された。なんだか私を𠮟りつけるための特殊なワードみたいになっている。犬に「お座り」と言い聞かせているみたいだった。
考え込みながら歩いているうちに、彼が背後を振り返って何かをしているのを視界の端で捉える。
「なにしてたの」
彼が正面に向き直ってからそう尋ねた。
「シルバーアッシュさんに手を振ってました」
私は数秒間絶句して、「君はその態度が原因でいらない苦労をしそうだね」と返すことしかできなかった。