ほんの一瞬、眠っていたらしい。頭が傾きかけたところで、シルバーアッシュは目を覚ました。
目の前に、向かい合うようにして座ったドクターがいる。ゆるやかに上下する波を視界の端で捉えて、ここが小舟の上であることを彼は思い出した。
あちこちに霧が立ち込めている。遠くに見える樹木にまでそれがかかっているため、大まかな形でしかその細部を読み取れない。空を見上げても、朝か夜かの区別もつかないほどに、あたりは乳白色に染まっていた。
ちゃぷ、という音が聞こえて、見ると、ドクターが手首から先を水面に浸しているところだった。腕が細いせいか、植物の茎のようにも見える。ドクターは特に関心も無さそうに、黙って水面から手を引き上げた後、シルバーアッシュのほうを見ずにこう尋ねた。
「暇そうだね」
「そう見えるか?」
間を開けずにシルバーアッシュはこう続けた。
「お前がいるのに」
ドクターは何の反応も見せなかった。表情さえぴくりとも動かない。こういった反応をされるたびに、シルバーアッシュはドクターがこういう男であることを嫌でも理解させられる。
ドクターの前髪の先が、彼のまつ毛に被さっている。不可思議な色をした瞳が、じっとシルバーアッシュを見つめていた。周囲一帯を、乳白色の霧が包んでいるというのに、ドクターの頬のほうが冴え冴えと白い。この景色の中で一番鮮やかなものが、彼の肌であるような気がシルバーアッシュにはしていた。
波に揺られて、船の軋む音がする。視界の端で、桃色の火がぽっと灯ったかのように見えた。よく見るとそれは睡蓮で、舟が流されるのに合わせて、徐々に近づきつつある。舟の先端が睡蓮に触れた。さして強い力は加わってはいないらしく、ひどくゆるやかな速度で花びらの形が歪んだ。舟はすぐに離れ、元の形を取り戻した睡蓮は、航海に合わせて視界の背後に消えていった。
シルバーアッシュの目が、水面からドクターへと移る。ふと、ドクターの肩に赤い珠が複数落ちた。それは糸のような線を引いて、華奢な上半身を伝っていった。色からして血液だろう。空から落ちてきたとしか思えないのに、周囲をどれだけ注視しても雨らしきものは見当たらない。
その現象自体が奇妙であったが、この光景を異様だと思えない自分自身のことを、シルバーアッシュはおかしいと思った。考えてみると、彼がつかの間の眠りから目を覚ましてから、不可解なことばかりだった。霧に包まれたこの湖も、ドクターと共に小舟に揺られている状況も。
「やっぱり、退屈でしょ」
「違う」
そう言い終わるより早く、シルバーアッシュの顔を影が覆った。いつの間にか、ドクターが目の前に立っていた。ちょうど目の高さに、防護服に包まれた薄い胸がある。血の匂いが鼻を掠めた。
「もう、起きたいはずだよ」
有無を言わせぬものが、その声には含まれていた。シルバーアッシュの肩に、白い手が置かれる。1グラムほどの重みしか無いように思えたが、自身の神経が驚くほどその手に集中するのをシルバーアッシュは感じた。
「起きなよ」
ドクターが言った。涼しい風が後頭部のあたりを撫でて、肩に集中していた意識がふっと抜けていくのが分かった。
シルバーアッシュが最初に目にしたのは、病室特有のよそよそしい天井と、枕元でこちらを見下ろすドクターの姿だった。無表情に見つめるドクターに、直前まで霧の中で相対していた姿が被さって、あれが夢の中の出来事だったと気付くのに数秒かかった。
「起きた?」
「ああ」
頭が覚醒していくのを自覚しながら、シルバーアッシュが答えた。
「後遺症は無いようだな」
「まだ何も言ってないのに」
「自分の体のことは自分で分かる」
脳が働きさえすれば、思い出すのは簡単だった。戦場に後方支援で参加していたら、潜伏していた狙撃手に撃たれたこと、横腹に弾が埋まって、手術で取り除かれたことが、なぜ忘れていたのかというくらい鮮明に思い出される。さっきまでの夢が、おそらく麻酔で引き起こされたものだろうということも。
シーツから片手を出し、自分の顔を拭うように触る。術後だと思うと、少なくとも血色は悪いだろう。ドクターの目に、どんな風に映っているのかシルバーアッシュは今更気になり始めた。
「私は何か言っていたか」
夢の内容を顧みて、朦朧とした自分が何か口走ったのではないかとシルバーアッシュは不安を覚えた。
「手術中に?」
「ああ」
「私の名前を呼んでた」
シルバーアッシュが目を見開く。やはり感情の読み取れない瞳が、夢の中と同じように見つめ返していた。名前を? どんな風に? そう尋ねようとした瞬間に、少女のような唇が「嘘だよ」と言った。
「……」
「手術中のことを漏らすわけないでしょ」
それは医療職としては当然のことであり、シルバーアッシュは安堵を覚えたのだが、何故か少しの落胆が胸を掠めてもいた。
「ゆっくり休むといいよ」
ドクターはそう言い残して、病室のカーテンを閉めて出て行った。遠ざかっていく足音には何の未練も感じられず、夢の余韻を名残惜しみながら、シルバーアッシュは観念したように目を閉じた。