SS(砂城あかね)

 少し時間が飛ぶ。私が大学を卒業して、管理栄養士として働いていた時のことだ。
 私は地元を離れて、他県のO市に移り住んでいた。新卒で入社した企業は、割と大きめの介護サービス事業業者で、全国各地に老人ホームを持っていた。最初は地元施設に入社していた私は、半年経ったころに「系列店で栄養士が足りなくなったから」とO市に転勤させられた。
 転勤自体には、さして不満はなかった。地元を離れることに特別未練はなかった。家賃は全額会社が出してくれるというので、「大学以来の気楽な一人暮らし生活をまた送れる!」くらいの気持ちでいた(当時私は実家暮らしだった)

 そうしてO市に移り住んでいた時期は、人生の中で一番活発な時期だったと思う(小学生時代を除けばの話だが)
 活発と言っても、それは仕事面において発揮されたわけではない。仕事はいつものように、とりあえず成果が出せればいいと思いながらやっていた。人間関係においてのことでもない。じゃあ何において活発だったのかというと、休日に雑居ビルを探索することを趣味としていたのだ。

 雑居ビル。大抵が建物と建物の間に息苦しそうに建っており、その外観は経年劣化のためなのか雨染みの濃淡ができている。外壁はほとんどが灰色かブルーグレイ。たまにクリーム色もある。中に学習塾が入っている場合は、一列になった窓に「春期講習申込受付中!」と一文字ずつ印刷された紙が貼られていることが多かった。
 そういう、自分とは何の関係もない雑居ビルの中にこっそりと入って、中を探検するのが好きだった。そのために、休日は毎度のように外を歩き回っていたので、私にしてはずいぶん活発な過ごし方をしていただろう(人に自慢できるような趣味ではないのが最大の難点ではあったが)
 一番好きなのは、事務所が複数入っているようなビルだ。建物に入ってすぐの郵便受けに、それぞれ「有限会社○○」という風に名前が書かれている。それぞれが何階にあるのか、軽く確認してから私は二階に上がる。使うのは必ず階段にしていた。備え付けのエレベーターがあってもだ。非常階段しかなければそちらを使った。
 エレベーターの中で、ビル内の人と二人きりになったら気まずいから、という理由も勿論あったが、一番の理由は雑居ビルの階段が好きだったからだ。大抵それらは、掃除が行き届いておらず、一段一段の隅にほこりが溜まっている。汚れが染みついて端が黒ずんでいるところもあった。そこを歩くのが本当に楽しかった。不思議と清潔な方が探索するにあたって気が滅入るのだ。
 階段を一段ずつのぼるたびに、靴音が反響していく。雑居ビルの階段スペースは、冷たくて無機質で、人気が無くてほかに物音がしない。数階分も進んでいくと、軽く息が上がった私の呼吸音が、頭の内側に響いていく。
 各階に出ると、狭いフロアスペースがあって、それぞれのテナントの表札が各ドアの前に貼られている。私はフロアに出ることはあっても、各テナントの目の前まで来てまじまじと見ることはしないようにしていた。こういう事業所のドアは、真ん中がすりガラスのようになっていて、向こう側に人が立ったのがぼんやりと分かるようになっている。そのせいで、ある事業所のドアが急に開いて「何か御用でしょうか?」と中から事務員らしき女性が出てきたことがある。私はドアに印字された事業者名を読んでいたので、時間にして十秒もそこに立っていなかったと思うのだが、ともかくあの時はびっくりした。それ以来テナント前を不用意にうろつくのはやめようと思った。この時の事務員さんが、栗色のボブヘアをして、事務服を着た小柄でかわいらしい人だったことまで良く覚えている。

 学習塾やピアノ教室が入った雑多ビルも好きだった。学習塾は、休み時間と被りさえしなければ誰とも会わずに済む。テナントのドア越しに、講師が授業をする声が漏れ聞こえてくるのが何となく興味深かった。ピアノ教室やバイオリン教室があるビルは、その階に降り立った瞬間にその音色がうっすらと聞こえてくるのが奇妙でもあった。その前後の階にいても聞こえてくることはなかったのに、その階に出た瞬間に、ふっと聞こえてくるのだ。ゲームで各ステージに割り当てられたBGMみたいだと思った。
 一階にコンビニがあるようなビルは、絶対に避けた。ローソンなんかが鎮座しているようなところだ。探索している時、ビル内の人とすれ違う確率が格段に上がる。おそらく仕事の合間にコンビニへ買い出しに行っているのだろう。
 あるとき上の階に向かっていると、背後から買い出しを終えたらしい人が追いついてくるのが聞こえた。レジ袋を手に下げたスーツ姿の男性だった。軽く冷や汗をかき、彼を撒くために、どこかの階に降りるまで素知らぬ顔で上に突き進もうと思った。しかし男性は思ったよりも上の階までついてくる。ようやく彼がどこかのフロアへ下りた時、私は心底ほっとしたのだが、不審そうに彼がこちらを振り返るのが分かった。階段を上がってその意味が分かった。それより上の階は屋上しかなかった。私は一分ほど階段の踊り場で暇をつぶしてからビルを出た。不審者だと通報されていないといいと思いながら。
 スナックが入っているビルは一度も入らなかった。地下に喫茶店が入っているようなところもだ。なんとなく怪しげな感じがした。

 私が他県勤めは、二年の任期であると最初から決まっていた。それまでに、地元に住んでいる栄養士を見つけて採用して、その引継ぎもすると決められての期間だった。だからこそなのかもしれない。不審者として知れ渡るようなことがあっても、どうせ二年後にはこの県を出ているのだ、という気持ちがあった。
  雑居ビルの探索について、結局何がしたかったのか今振り返ってみてもよく分からない。なにかを得ようとしてやったことだったのだろうか。
 ただ、雑居ビル自体は子供の頃から好きだった。学校の校外学習で、駅前なんかに行くとそういう雑居ビルが立ち並んでいた。外からでは、中がどんな構造になっているのか分からないことが私の心を躍らせたのかもしれない。ごみごみした外見なのも惹かれた理由だろう。本来なら教室で授業を受けているはずの平日の昼間に、クラスメイト達でぞろぞろと外に出て教師の指示を待っている間、その薄汚れたビルの外観は青空の下で妙に目立っていて、記憶に残るのに十分な存在感を放っていた。

 あかねちゃんに再会したその日も、私は雑居ビル内を出入りしていた。平日だったので、外を出歩いている人は暇そうな老人ばかりだった。ビルの中を探索しても、みんなテナントにこもって仕事をしているので、すれ違うこともない。満足できる探索収穫日だった。
 ビルの外へ出る。長年の汚れで白く曇ったガラス戸を押しのけた。外の空気が顔にぶつかる。曇りの日の、特に昼間特有の外気の感触がした。冷たくも暖かくもない。次はどこに行こうか、そう考えた瞬間に背後から声がかかった。
「用は済んだん?」
 一瞬、思考が停止した。慌てて振り返る。実際に見るより先に、その光景を予想していたと思う。ビルの出入り口横に、あかねちゃんが立っていた。
「びっくりした」
 私はそのまま声に出した。あかねちゃんはうすく笑ったまま顔のまま(彼にとってはこれが無表情だ)「そりゃ驚かせようと思ってやったんやし」と言った。
 あかねちゃんとは、おそらく一年ぶりの再会だった。どこに居るのかも知らされていなかった。そしてこうやって急に現れるのは、いつものことだった。
 一度ピンクに染めたはずの髪は、すっかり色が抜けて元の栗色の髪になっていた。カーキ色のアウターを着て、ミリタリー崩れみたいなファッションをしている。会うたびに外見が変わっている気がするのに、色の白さと、妙に整った顔の印象があまりに強すぎて、すぐに彼だと分かるのが奇妙だった。
「何してたん?」
 彼が近づきながらそう尋ねるので「探検してた」と返した。
「ええ?」
 あかねちゃんがにやにやしながら聞き返す。困惑というより、茶化したいという意図の方が大きいのだとすぐに分かる声色だ。
「探検してた」
「ほんまに? Aちゃん変すぎやろ」
 あかねちゃんには言われたくないと思った。それからは、あかねちゃんと並んで歩きながら会話をした。まるで普段から一緒に出掛けている友人同士が、休日にばったり会ったみたいな風にして。
「あかねちゃん、どうやって見つけたの」
 一番気になっていたことを聞くと、あかねちゃんはビル群の上を指さして「屋上から見てた」と言った。ビルが密集しすぎて、どの建物を指しているのか正直判別がつかない。「とりあえず上から探してみようと思って、ほんまに会えるとは思ってなかったけど」と。私は彼がビルの屋上に立ち、転落防止の柵にもたれかかっている姿を想像した。曇りの日の風に髪をなぶられて、町並みを見下ろしながら、口にチューペットを咥えた姿で。
「それもだけど、O市にいるって知ってたのは」
「なっちに聞いた」
 なっちは、小学生時代のクラスメイトだった。嘘だな、と思った。確かになっちには、去年の年末に通話で「O市に転勤になった」と伝えはしたが。
「じゃああかねちゃんだってビルの中探索してるじゃん」
「うちは高いところ登りたいだけだもん」
 そう言った後、あかねちゃんはちょっとだけ目を輝かせて「屋上から見下ろしたことある? ほんまにええで。ミッケ見てるときみたいな景色になる」と教えてくれた。あいにく私はビルの屋上まで出たことがない。出ようという発想さえなかった。中をうろつくのは好きなのに。
「いとくに行けば? あそこ多分一番高いよ」
 いとくはこの辺にある大型のショッピングセンターだった。四階だか五階くらいまであって、フロアごとの高さがあるので、そこらのビルよりはずっと背丈がある。私は見たことはなかったが、屋上もあったはずだ。
「あんなんいたら目立つやろ。人の出入りも多いし」
「ふうん」
 この時の会話はここで終わったのだが、最近になって、あかねちゃんから電話が来て「Aちゃん聞いた? O市のいとくに無印良品入ったって」と教えられた。その頃には既にO市を出ていたし、いとくは私の中で既に無いものとして処理された過去のものだったので、それを教えてきたあかねちゃんにもびっくりした。しかもその電話は非通知だったので、最初は無視していたら続けて10件も不在着信が入っていたのでおそるおそる出た。
 なんだか変な状況だな、と私は自分で思った。急に目の前に現れたあかねちゃんにも、そのあかねちゃんを受け入れている自分にも。もしかしなくても、今目の前にいる彼は私が作り出した幻覚だったりしないだろうか。あかねちゃんと話しながら、すれ違った老人の様子を横目で窺った。私を不審そうに見ていないだろうかと思ったのだ。しかし老人は、気がおかしくなっていそうな目をして、前を一心に見つめながら手押し車を押していたのでその判別はできなかった。
 
 別れ際に、一緒にビルの中に入ってみよう、と私は誘った。ピアノ教室とかが入ってるところがいい、と思い、最終的にヤマハの音楽教室のあるビルにした。
 あかねちゃんがいるので、階段を使わずにエレベーターで教室のある階に行く。フロアに出た瞬間、ピアノの音が聞こえてきた。もう午後を過ぎているので、低学年なら習い事が始まっているのかもしれない。「愛の夢」の第三番が流れていた。それが、どこか異様な、別の世界に来たみたいな気がしてよかった。音楽教室の隣は塾で、けれどまだやっていないのか中は薄暗かった。
 フロアは珍しくグレイのカーペット敷きだった。そこに埋もれた毛玉を靴裏で擦るようにして、あかねちゃんが奥に進む。周囲を見渡して「面白いん? これ」と聞いてきた。
「面白いよ」
 私は言いながら、窓辺に近寄った。フロアの片隅に、壁をくりぬくようにして小さ窓がある。のぞき込むと、雑然としたビル群が見下ろせた。雑居ビルのフロアは、どこも薄暗い。入り組んでいるのと、窓が少ないのとで、半密室のように光が入り込まないのだろうか。なのでその窓は、映画のスクリーンみたいに光を帯びているように見えた。向こうにあるのがぼんやりとした曇り空であっても。
「あかねちゃん」
 隅に置かれた観葉植物をぼんやりと見ていた彼に声をかける。
「写真撮っていい?」
 そういえば、あかねちゃんの画像を一枚も持っていないことに私は気がついた。二人でビルの中に不法侵入するという、秘密を共有しているような行いにどこか高揚していたのもあり、そう提案してみた。
「ええけど」
 そう言って、あかねちゃんは軽く周囲を見渡した。そしてあの窓辺の前に立って「ええよ」と言う。窓からの逆光で、顔に影がかかっていた。
「影で暗くなるけど」
「ええやん。不細工なのがバレんし」
 あかねちゃんはピースなどのポーズをとったりもせずに、黙ってこちらを見て立っている。あの薄く笑った、こちらを面白がるような顔のままで。私は仕方なしにそのままスマホで撮った。
 背後で流れている、「愛の夢」が中盤に差し掛かる。指が攣りそうな、発狂するような、転落していくような曲調に変わる。
 できあがった画像は案の定、良くない仕上がりになった。明るいのは窓の中だけで、そこを塞ぐようにあかねちゃんが立っているので、わずかばかりはみ出た部分にしか光がない。周囲の壁も暗く、その影がすべて彼の顔に収束していくように影が濃く落ちていた。
 私は少しうろたえた。あかねちゃんがそばに寄ってきて、スマホをのぞき込んでくる。それが決め手のようになって「消そうかな」と私はつぶやいた。
「それがええよ」
 私はメディア欄から画像を削除した。すると、あかねちゃんがそのスマホを断りなく私の手から取った。あまりにもよどみなく行われたために、それを嫌だと思う気持ちは全く湧いて出なかった。「はい」と数秒もしないうちにスマホが返される。画面には「最近削除した項目」が映っていた。どうやら完全にデータを消去したらしい。当時のスマホは、こういう管理画面を見るのにパスコードの類は必要なかった。
「あーあ」
 あかねちゃんが背を向けて、エレベーターの方に向かう。帰るつもりなのだと分かった。もう飽きてしまったらしい。
「モス食べてから帰るわ」
 帰る、というのがO市内のどこかなのか、それとも別の場所にマンションでも取っているのかは知らないが、そう言ったのを私は覚えている。この日はそのまま彼と別れた。そしてそれ以来、彼をO市内で見かけたことはなかった。
 翌日から、雑居ビルの探索を私はぱったりとやめてしまった。