すっ転ぶようにして、マンションのエントランスに駆け込んでいく男の背中を俺は追いかけた。持ち逃げした封筒でスーツの尻ポケットをパンパンにした、なんとも情けない後ろ姿だ。醜男は逃げ方も醜い。けれどこういう男に限って、足は速いのが世の常だ。
「待ちやがれ!」
そう言って俺も後に続いた。地方の住宅地によくあるような、外観に少しもきらびやかさのないマンションだ。建物の壁全体は薄いグレイになっていて、それまあいいのだが、馬鹿馬鹿しいことに柵とドア、外付け階段部分がすべてショッキングピンクで塗られていた。そこだけ何処かのテーマパークから引っこ抜いてきたのかというほどのダサさだった。エントランスと居住区の部分がL字型に繋がっているので、建物に入る前に視線を上げると、自然と外に面した廊下部分が視界に入る。なので男を追いかける俺の視界にも、奇妙なショッキングピンクの柵が映るというわけだ。
ただ、俺の目を引いたのはそこではない。その廊下部分に、見知った顔を見つけたからだ。グレイとピンクで構成された廊下に、墨を落としたように黒いものが立っていた。騒ぎを聞きつけてか、白い顔がこちらを振り返る。
「美空!!」
走る視界の中で、目が合ったように思えた。美空の笑みが濃くなるのと同時に、エントランスの壁に阻まれてその顔が見えなくなる。男が、階段を駆けていく音が遠くから聞こえた。
俺はたった今追いかけている男のことを考えた。偶然、俺と美空がここでばったり会ったとは考えにくい。てっきり、俺を撒くために目についたマンションに飛び込んだのかと思ったが、この中に男の伝手が住んでいるのなら、話は別だ。美空も男のことを調べ上げていて、俺よりひと足先に辿り着いたということなら、納得がいく。その場合、先に始末をつけた美空が、手柄を横取りするかもしれない。そう思うと全身がカッと熱くなっていくようだった。
「畜生畜生畜生!」
俺は一気に階段を駆け上がった。心の中でそう言っているのか、それとも口に出しているのかも分からないまま、足を動かす。騒音問題になりそうなほどの音を立てて何階か登り、廊下に出る。視界の片側に柵越しの外が映るので、一気に開けた景色になる。廊下の中ほどに、美空が立っていた。そばには例のショッキングピンクの柵がある。そして足元に、あの男が倒れていた。
「やはり毒島さんでしたか」
俺を見て、美空が言った。いつも通りの、見ているだけで腹の立つような微笑を浮かべている。男は仰向けに伸びていて、白目を剥いて気絶していた。安っぽいスーツと、顎の肉がいかにも無様だった。刑事ドラマの死体役でも、ここまで不細工な寝姿はそうそうない。この分だと、しばらく起きそうにないだろう。
「てめえ、取り分は俺と同額だぞ!」
「何のことです」
言ってから、同額は流石に優しすぎたと思った。俺が追いつめて、美空がとどめを刺しただけなのだから、7:3でも充分だろう。
「毒島さんに用がありそうだったので、転ばせただけですよ」
美空は言う。その光景は容易に想像できた。走ってくる男に、軽く足を引っ掛けて、ついでに首の後ろを突いて気絶させたに違いない。
「なら、何のためにここに来た」
「下見ですよ」
美空は静かに言った。
「事務所をそろそろ引っ越そうかと思いまして」
そう言って、美空は廊下の端に寄ると、外へ視線をやった。言いたくはないが、正直さまになる絵だった。足元の男に目もやらないのを見る限り、本当にこの件とは無関係のようだ。
「この貧乏臭いマンションにか?」
「セキュリティより立地を重視しようと思っていました」
「ここはやめとけ。見た目が悪い」
「そうですね」
柵に手を置きながら美空が返す。
「柵がショッキングピンクですし」
俺は何かを言おうとしていたのだが、それらを全て忘れた。風が廊下に入ってくる。場違いな色をしている柵が、美空の白い手を受け止めて、今だけ妙に誇らしげにしているように思えた。