フィガ晶♂(魔法使いの約束)

「ここが賢者様の家?」
 そんな声と共に、少しも汚れていない靴下を履いた足先が、ふわりとフローリングに降り立つのを晶は見ていた。あっちの世界に居た時と同じように、白衣を肩に羽織ったままの姿で来たフィガロは、アパートの一室を背景にしているとやはり浮いて見える。くすみのない白い肌も、そう見せているのかもしれない。
 フィガロはいかにも物珍しげに、キョロキョロと室内を見渡している。1DKのアパートの中で、特に雑然としているダイニングキッチンは、彼の目からするとお世辞にも整頓されているとは言えないだろう。そう思ってつい「そんなに見ても面白いものはないですよ」と晶は言った。
「ごめんごめん」
 フィガロがそう言いながら振り返る。まだ昼間の、外から入り込む日差しだけが光源の部屋で、白衣の裾がひるがえった。少しだけバツの悪そうな表情と一緒に、「怒られちゃった」と彼が言う。それを聞いて、無意識のうちに棘のある声を出していたかもしれないと晶は気がついた。
 自分をよく見せようとするところ。自分の欠点はそれだろうと晶は昔から思っていた。きっと魔法使い達に聞けば、そんなことはないと否定されるだろうし、事実向こうの世界に居た時はあまり言動に出ていなかったと思う。けれど、こっちの世界に戻ってきて、バイト先や大学の人間関係、SNSで飛び交っているいろんな価値観に揉まれる日常が再開すると、やっぱり自分の欠点はそれだと自覚するようになった。
 自分の意見より相手の意見を尊重するところ、誰にでも礼儀正しい振る舞いをするところ。それは美徳だといろんな人に褒められてきたけれど、それは多分、自分の底を知られたくない、よく見せたいという考えが理由であったような気がする。
 そんな風に考えていたために、ガサガサという音で晶は我に返った。見ると、フィガロがロールパンの入った袋を手にして、不思議そうに見つめている。冷蔵庫の扉にマグネットで袋ごと吊るしておいていた、どこにでも売られているような五個入りのロールパンだ。
「パン?」
「ええと、俺が朝ごはんにいつも食べてるんです」
 生活感があまりにも滲み出たそれに、晶は少し居心地が悪くなった。彼が食べる朝食といえば、大抵そのロールパンのみだった。朝ごはんのために火を使ったり皿を出したりすることはそうそう無い。大抵、ヒーターの前に立って暖房に当たりながら、袋から直接出したパンをもさもさと食べて済ませている。
 大学生ならさして珍しくもない食生活だろうと思うものの、魔法舎でネロの作った豪華なご飯を食べていた姿ばかりフィガロは見ていただろうから、その差異にがっかりされるだろうかと変に気にしてしまう。もちろん、食事風景を実際に見られたわけでもないので、わざわざフィガロに言わなければ知られることもないだろうけど、隅に埃の薄く積もったダイニングを見れば、普段の食生活はある程度想像されてしまいそうだった。
 こんなに色々気にしてしまうなんて、今日の自分はいつも以上に変だ。晶はそう思って、しかしすぐにそうだろうと自分で納得する。だって、フィガロが急に目の前に現れたのだから。しかも、何をしにきたのかはまだはっきりと言わないまま。
 俺に会いに来てくれたんですか? 本当は真っ先にそう尋ねてしまいたかった。久しぶりに目にした、灰色がかった緑色の瞳を前にして。けれどそれが口に出なかったのは、もし見当違いな発想だったら、と怖気ついたせいだった。自分が傷つく未来がありありと脳裏に浮かんだから。世界を行き来できる魔法が発明されたからとか、興味本位でとか、きっとそういう理由に決まっている。
「これ、食べていい?」
「あ、はい、どうぞ」
 そんな晶の思考回路に気づいているのかいないのか、フィガロはどこか無邪気な顔をしてそう尋ねると、早速袋から一つ取り出して、立ったままそこで一口頬張った。晶はどこか呆けた顔でそれを眺めていた。並外れた美形がロールパンを食べてる姿は、逆に違和感がすごいな、と思いながら。
「へえ、レーズン入り」
 しげしげとパンの断面を見ながら、そんな風に呟くフィガロの声を聞いて、晶はようやく以前のような空気感が戻ってきたように思えた。
「あの、コーヒー淹れましょうか。うちにあるのはスティックだけなんですけど」
「スティック?棒状?」
「あーえっと、なんて説明すればいいんですかね……」
 キッチン行って、ケトルでお湯を沸かす。フィガロの質問を背中に受けながら、そうだこういう距離感だったじゃないか、と晶は感覚を取り戻しつつあった。
 確かに、厄災を退ける直前、少しいい雰囲気になったりはしたけど、あれは多分一時の夢みたいなものだ。あの日中庭で、いつか見たムーンロードについて教えてくれた時のように。彼の長い人生を振り返れば、ほんの一瞬だけ施しのように情をかけたようなものだろう。フィガロが毒のある冗談を時たま口にして、自分がそれに少し戸惑いながらも訂正したりして、そんなやり取りが自分たちにとっての「普通」だった。
 こうやって、ぬるま湯みたいな温度のまま、やり過ごしていけばいい。そうすれば傷つかずに済む。
 沸騰直前のケトルがこぽこぽと言う音。マグカップのつるりとした感触。今まさにお湯を注ごうとケトルに手をかけた瞬間に、背後でフィガロの声がした。
「だって賢者様、あの部屋に全然物を残してくれなかったでしょ」
 あの部屋。聞き返すまでもなく、魔法舎で長く使っていた、自室のことを指しているのだと分かった。晶は、いつ前の賢者が戻ってきてもいいように、できる限り彼が置いていったものを残しておいた。同時に、自分の私物も、あまり増やさなかった気がする。
「だから、たまに部屋に行ってみても、賢者様がいた場所だって気が全然しなくてさ、そんなんだからここに来てびっくりしたよ。何から何まで賢者様の気配がして、君が選んだんだなあってすぐに分かるものばかりで」
 晶は、なんて返事をするべきか迷った。もしくは、何も聞こえなかったふりをして、マグカップにお湯を注いで、何食わぬ顔でコーヒーを持っていくことさえも考えた。けれど、その考えを読んだかのように、フィガロが続ける。
「久しぶりに俺に会えたんだから、ちょっとくらい喜んでくれてもいいのに」
 言い終わりに近づくにつれて、おそらく頬張ったパンに吸い込まれたのか、その声は曖昧にしか聞こえなかった。それでも晶は、彼の言葉を全てはっきりと聞いたような気がした。
 お湯を注ぐ。黒く、光を反射する液体が並々とマグカップの中を満たしていく。二人分のそれを手にして、晶はフィガロの元へ行こうとした。それを手渡しながら、まず最初に「ごめんなさい」と謝ろうと思った。そして、「もし違っていたらと思うと怖くて、言い出せなかった」のだとちゃんと伝えよう、とも。きっとフィガロは、それを聞いた瞬間に安心してくれるだろうから。