この部屋には何もない2

 弟は学校をサボりがちで、登校している日の方が少ないくらいだった。堂々と朝から家に居座っている日もあれば、制服を着てちゃんと登校したのかと思わせてそこらをぶらついている日もあった。後者の偽装のおかげで、私は週に最低二日は出席しているのだろうとたかを括っていたのだが、その希望は打ち破られた。
 例えば一学期の出席日数を科目ごとに見ても、修身が四十のうち五、国語が五十のうち五、代数学が三十のうちゼロ、力学が十五のうちゼロ、兵法が……と挙げていくのも嫌になるくらいの惨状であった。
 心理の授業だけは何故か出席日数が多く、弟にとって琴線に触れるものがあったのだろうかと思ったのだが、単に担当教員の慈悲の心によってかさ増しされていただけだった。この先、遊泳演習や野営演習の授業もあるだろうにどうするつもりなのだろう、と私はひどく心配したのだが、その不安は先延ばしにされた。当たり前だが留年したからである。

 そもそも通っていたのは、それなりに有名な士官学校だった。士官とついているものの、本格的にそれを目指すものではなく、地位のある家の子供が権威づけのために通っている割合の方が高いらしい。
 私はこの辺りのことは全く知らない。私は画家で、その腕を見込んで養ってくれている男が弟のためにと便宜を図ってくれた末にこの学校が選ばれ、学費を出してくれているからだ。もう一年余分に学費がかかったことについて、男が笑って済ませてくれている事が唯一の救いだ。

 弟の学習意欲についての話はここで置いておくとして、彼が学校から持ち帰ってきた教科書を読むのが割と好きだった。理学や経済学の分野も面白かったし、何より一番面白かったのは地理と兵法を掛け合わせた演習問題のテキストだった。
 例えばとある問題文で、「兵士数十人で〇〇キロ離れたAに攻め込むために遠征する。その道中で必要になる食糧と水を計算せよ」というものがあった。
 まず単純に兵士の人数に必要食事量を掛け合わせるだけでは全く足りていない。何故かというと、荷物を運ばせるための馬やロバが食べる餌の分も考慮しなくてはならないからである。これらの動物は私たちが思うよりもずっと食べる。そのため人間だけで計算し、十日はもつだろうと思われた食料は馬やロバのために三日で食い尽くされる。
 だからといって、動物の分の食糧も勘定に入れるとなると、その荷物量で鈍足になり、遠征必要日数が倍になる。その倍になった日数のせいで必要食糧分が増えて……といういたちごっこのような状況になる。それをどう解消するのかというと、野営中に放牧できそうな場所や道中食糧調達ができそうな街を遠征ルートに組み込むのだ。これで前もって用意するべき食糧数を抑えられる。

 これが私にとっては随分面白かった。今まで頭になかった分野の方向から知識が切り込まれていく感覚が気持ちよくさえあった。何故弟はこれに興味を持たないのだろう、と本心から思っていた。
 私も高等学校には通っていたのだが、こういった学科自体、取り扱っていない学校であった。通っていたのは、お嬢様学校というほどでないにしろ、それに似た指導方針が色濃く残る場所だった。校訓に「貞淑」や「奉仕の精神」という言葉がある時点で大体察せるだろう。母親の意向で入った学校だった。
 そこでの主な勉強は、基礎科目以外だと声楽や水彩画、油画、家庭看護などがあった。絵の科目は純粋に楽しかった。音楽はてんでだめだった。演奏も声楽もだ。私に音楽の才能は無いということを身に沁みて理解した。家庭看護は意外にも楽しかった。講師にじろじろ見られながらの実習は嫌だったが、薬学や人体の授業は興味深かったのだ。

 歌については、弟の前で披露した事がある。学校を卒業した後の話だ。弟の学校に声楽の授業が無いという話から、「ちゃんと指導を受けた人の歌を聞いてみたい」と弟が言い出した。身内の前という事で、私は割合堂々としながら一曲歌ってみたのだが、全て聴き終えた後で弟は拍手の後にこう告げた。
「姉さまが音楽の道に進みたがらなくて良かったね」
「そんなに?」
「才能の話とかじゃなくて、体が歌うのに適してないんだよ。足の指が他人より少ない人が歩くの得意だとは誰も思わないでしょ」
と。
「姉さま自分が歌ってる時の声を聞いてみなよ。見てられない。痛々しいよ」
 そんなことを言われても私にはどうすることもできない。私は私の声を本当の意味で聞いたり感じたりすることはできないのだから。鏡がなければ、私が私の顔を視界に入れるのは不可能であるのと同じように。