「治してください」
その声と共に、突然室内に現れた扉を見ても、フィガロは特別驚かなかった。その扉から現れたミスラと、ミスラの手に抱えられた見覚えの無い男を見ても、やはりフィガロは眉一つ動かさなかった。
ミスラは普段と違い、白衣を身につけていなかった。黒いシャツから覗く首筋や手首は、僅かに汗ばんでいる。ミスラの体臭と汗が混じり合った、どこか生臭くもある甘く饐えた匂いが、フィガロの前に迫る。しかしその匂いは、それ以上に生臭い、獣じみた青臭さにすぐにかき消された。それは、ミスラが手に抱いている青年から立ち上る匂いだった。
ミスラはフィガロへ許可を得ることなく、室内のベッドへ青年を叩きつけるように寝かせた。フィガロは青年の顔を覗き込む。そこでようやく、表情をほんの少しだけ変えた。
「前も言ったけど、感心しないな。こういうのは」
ベッドに横たわる青年は、どこにでもいそうな、ありふれた見た目をしていた。黒い髪に、黒い目。色白でも特別日焼けしているわけでも無い、しかし温かみを感じる肌をしていた。おそらく成人しているのだろうが、小柄な体と、幼い顔立ちが、ひどく印象に残る青年だった。
本当に、どこにでもいそうな見た目だった。活気のある街に出かけて、ふとあたりを見渡してみれば、一人か二人は似た外見の男が視界に入るだろう。それくらい、ありふれた見た目をしていた。しかし、その平凡さを打ち消すように、青年は奇妙な表情をしていた。青年の顔は白目を剥くようにして目玉が上を見ており、大きく開かれた口からは、舌がこれ以上ないほどに口の外へ引っ張り出されていた。舌の上や、歯の裏側や口の粘膜には、白くゼリー状に固まりつつある液体がこびりついている。青年の異臭は、主にその液体からしていた。
「あなたがどう思ったかなんてどうでもいいです。早くこの人間を治してください。あの双子に叱られたいんですか?」
「叱られるのはお前の方だよ、ミスラ。善良な一般市民をこんな風にして……」
「なんで俺が叱られるんですか?この人間が死んだら、原因は見殺しにしたあなたのせいになるでしょう」
「いやいや、まず最初に手を出したお前のせいに決まってるだろ。ああ怖い。これだから北の魔法使いは……」
軽口を叩きながら、フィガロは青年の舌を指で押さえて、喉奥を覗き込む。幸い、付け根から引き抜かれているわけではなさそうなので、これならば再生は容易いだろうとフィガロは予想した。清潔な白いガーゼで、自身の指を拭いながら、フィガロはミスラへ声をかけた。
「気がついてる?お前、ここに来る頻度が増えてるよ」
「そうですか。気が付きませんでした」
「自制心が効かなくなってる証だ。そろそろ、本当にお前を去勢しなきゃならないかもね」
“本命”に手を出す前に。
そう静かに付け足された声を聞いても、ミスラは特別表情を変えなかった。
「やれるもんならやってみてくださいよ。全力で抵抗してみせます」
「そうかい。なら、スノウ様とホワイト様と、あとオズを呼んでこなきゃね。お前の両手両足を押さえつけてもらわなきゃ」
挙げられた名前に、ミスラは眉をひそめた。何も言い返さず、大人しく口を閉じる。これ幸いとばかりに、フィガロは説教めいた言葉を続ける。
「本当に、お前は自制を覚えたほうがいいよ。取り繕うくらいのことはしないと。お前が思ってるより、人間は聡い生き物なんだから」
「聡い?俺よりずっと生きていないのに」
「そうだよ。むしろ、短命だからこそかもしれない。生き延びるために、あの子達は無意識に危険を嗅ぎ分ける力を持っている」
フィガロの頭の中には、南の国に住む人間達の姿が思い浮かんでいた。無垢で無知で、そして時折無能にさえ見える生き物達。
「お前の隣で寝ている”あの子”だって、もしかしたらお前の欲にもう気がついてるかもしれないよ」
「へえ」
フィガロは、この言葉を聞いたミスラがほんの少しでも驚けばいいと思っていた。衝撃を受けて、そして出来ることなら自身を顧みて欲しいと思った。しかしそれは叶わなかった。ミスラは口の端を釣り上げて、どこが上機嫌そうに微笑んでみせた。
「気がついてもまだ俺と寝てるってことは、誘ってるってことですか?」
フィガロは答えなかった。ただ、首をすくめてみせた。返事の代わりに「明日、スノウ様とホワイト様の部屋を訪ねなさい」と言う。ミスラは「命令しないでください」とだけ答えて、その直後扉の開く音がした。やけに重たげに軋んだその音は、この部屋の扉からするものではない。ミスラが魔法で生成した扉から鳴った音だろう。ミスラの気配が室内から消えたのを受けて、フィガロは青年の治療を始めた。
今頃ミスラは、”本命”のいるベッドに潜り込んでいる最中だろう。いくら盛っていても、飢えていても、ああはなりたくないものだと、フィガロは老いぼれのような気持ちでミスラという獣を憐れんだ。