フィガ晶♂(魔法使いの約束)

「どうしてこの仕事に就こうと思ったんですか?」
 それを聞いて、向かいに座っていたフィガロが、不思議そうに目を瞬かせた。晶は言葉が足りなかっただろうかと思い「ただの好奇心で、フィガロの仕事を非難するつもりはないんです」と慌てて付け加える。二人の間にあるテーブルには、マグカップが二つ置かれていた。どちらもコーヒーが注がれていて、片方はミルクがたっぷり入っており、もう片方はブラックコーヒーである。もちろん、晶が飲んでいるのは前者の方だった。
「どうしてって言われても、難しいな」
 うーん、と唸りながらフィガロが背もたれに体を預けなおす。やや天井を仰ぎ見るような姿勢になった。こういう風にしていると、日本人離れした彼の体型が、より明確になる。全身の半分くらいは脚なんじゃないだろうか。特にスーツを着ている今は、脚の真ん中に沿って伸びるスラックスの折り目が、脚の長さを強調していた。
 青みがかった灰色のスーツから覗く手は、驚くほど白い。石膏のような手だ。それでも、その手の爪の先に至るまで、血で汚れたことは一度や二度ではないのだろうと晶は知っている。世の中で反社だと呼ばれているだろうこの仕事に何故就いたのか、晶は不思議でならなかった。
「あの、答えにくいことならいいんです」
「いやいや、それは全然いいんだよ。なんだろうね。うまく言語化できないって言えばいいのかな」
 フィガロは考え込むような仕草をしていたが、ようやく答えを見つけたのか、不意にソファーから背を離した。両肘を脚に置いて指を組み合わせ、やや前屈みになる。内緒話をするようにぐっと距離を詰めた白い顔には、どこかわざとらしい笑顔があった。
「今とは違う場所に行きたかったから」
「……違う場所?」
「そう。俺はどこにいてもうまくやれてはいたんだけどさ、なんだか違うなあっていう意識がずっとあってね。今とは違う環境に移れば、俺にとってしっくりくる集団を見つけられるんじゃないかなって思ってた」
「それで、この仕事に就いたんですか?」
「まあ、一直線にってわけではないけど。今とは違う環境に、って続けていけば、普通から外れた世界にどんどん入ってっちゃうものなんだよね」
 だから君も気を付けた方がいいよ。あーでも俺と知り合ってる時点でもう遅いかあ、あはは。フィガロがそんな風に笑う。晶は愛想笑いを返すことしかできなかった。けれど、納得のいく答えを得られたと内心彼は思っていた。
 フィガロは何でもそつなくこなす。先ほど彼が言った「どこにいてもうまくやれた」は嘘ではないのだろう。どんな場所でも、彼は器用に生きていけるし、受け入れてもらうことができる。だからこそ、どうしてこんな仕事を、という疑問がずっと頭の中にあった。生活のために仕方なく、という理由ならば晶にも納得がいく。しかしこの仕事はどうやったってリスクが高い。最低限の知能があれば就きそうにない職種だ。それをフィガロが選んだ理由を思いつかないままだったが、ようやく納得のいく答えを知ることができた。魚でさえ住みやすい水の清濁は違うのだ。ここがフィガロにとって生きやすい場所であるならば、晶がそれに文句をつけることなどできない。

「なんじゃその格好つけた理由は。我が隣にいればそんな風に話しはしなかっただろうに」
 後日、晶はそのやり取りをフィガロの親代わりとも言える男に話していた。他人の考えをむやみに話して回るのは、という躊躇いを一瞬覚えたが、そもそもとして親代わりでもある彼なら既にフィガロから聞かせられているだろうという思い込みから口を滑らせたのだ。そして返ってきた言葉が、これである。
「え」
「ま、そう教えたくなる気持ちは分かる。そなたに良く見られたかったのだろう。どこぞの三文小説から抜き出してきた理由に違いない」
 そう言って、唇を薄く開いて無邪気に笑う顔に、晶は一瞬魂を抜かれたように見惚れてしまった。耳元のピアスが揺れている。普段からそうである通り、今日も耳と言わず指にも手首にもきらびやかなアクセサリーを身に着けている。それに加えて、柄物のジャケットまで羽織っているのだが、それに負けることのない華やかさがこの男の顔にはある。ウェーブがかった黒い髪が、白い額や耳にかかっている。今まで出会った男の中で、一番美しい男は誰かと問われれば晶は悩むだろうが、一番華やかな男は、と問われれば、すぐさまこの男の名前を上げるだろう。そういう容貌をした人だった。
「別の理由を聞いたことがあるんですか?」
「聞いたことなぞない。聞きたいと思ったこともないからのう。しかし長年見てきたのだから、だいたい察しはつく」
「そういうものなんですか?」
「そなたには分らんかのう」
「ええと……」
「ほほほ。これは察しの良し悪しとは別の問題じゃ。こういう仕事に就く者の思考などたかが知れておる」
 じゃあ、どんな理由なんですか。晶はそう尋ねたかった。口に出さなかったのは、それを知る権利が自分にあるのか不安だったからだ。しかしその思考を読んだのかのように、男が口を開く。
「ボーナスステージみたいなものじゃからな」
「へ」
 どこかゲーム的な、場違いな言葉に一瞬戸惑う。
「ふふふ、いいか? この世界は、一度道徳を取り払って見てみると、”どう動けば得をするのか”が怖いほどはっきり見えてくる。そういう世界として見えてくる。迫ってくると言ってもいいな。倫理や法をかなぐり捨てて暴れた方が過分なサービスを受けられる。法律を守らなかった側に甘いと言えばいいのかのう。犯罪に手を染める者はこのボーナスステージがいつまで続くかと考えて、喜びながらも怯えて過ごすもんじゃが、フィガロはそれを試してみたくなったんじゃろう」
 男が笑っている。晶は、その半分も理解できていないような気がした。言葉の体裁を保っているのに理解できないという点を踏まえれば、念仏を聞いているのにも似ている。
 ふと、男が話を止めて、こちらをじっと見つめていることに晶は気づいた。はっとして我に返る。うまく呑み込めずにいることを咎められたのかと男の表情を窺ったが、そこに気分を害した様子はなく、晶を観察するような、鏡のような目をしていた。
「下り坂を早足で駆けていくのは、少し怖いじゃろう?」
「はい」
「足がもつれてしまえば、顔から地面に転ぶ可能性だってあるだろうに」
「はい」
 晶は反射的にそう返事をしていた。まるで催眠を受けたかのように、考えるより先に口が開くのだ。
「でも、そのぶん駆け足でいるうちは、風を受けて気持ちいいはずじゃ」
「……」
 晶は、しばらくの間続きを待った。しかし男がそれ以上説明する気はないらしく、むしろ晶が困惑しているさまを楽しんでいるような目でこちらを見ている。さっきのたとえ話はなんだったのか。男からするともう十分説明してやったつもりなのか。よく分からないでいるうちに、男がまた口を開いた。
「我らのことが怖くなったか?」
「……いいえ?」
「では、フィガロのことが許せなくなったか?」
 そこまで聞いてやっと、フィガロが今まで加担してきた(そして主導してきたこともあるのだろう)犯罪行為の数々を指しているのだと気がついた。
「それは……正直、自分でもよく分かりません」
 それは嘘ではなかった。自分でも分からない。もし、同級生が万引きをしていると聞いたら晶は怒るだろう。しかしフィガロやこの男については、あまりに前提とする常識が違いすぎて、晶には裁きようがなかった。「ほほほ。”分からない”とはいい言葉じゃ」と男が笑う。
「我らのような業種には時間稼ぎができると言われたようなものじゃからな」
 一般人の晶からすると、やはり理解できない言葉だった。
「しかし、本当にフィガロが許せないと思ったら、そなたもあやつを試してみれば良い」
「試す?」
「そなた可愛さにフィガロがどれだけ道を踏み外せるのかを試してみるのじゃ」
「できませんよ、そんなこと」
「今までのうのうとルールやモラルを試す側でいたのだから、しっぺ返しを喰らってるのを我は見てみたかったのだがのう」
「……」
 つまりは自分が見たいだけなのか。晶はなんだかがっかりしたような気分を覚えて、それが何故なのか自分でも分からず内心首を傾げた。
 男はまだ続ける。しかしその言葉はさっきまでの軽口めいたものではなく、晶を煽るような、彼の胸にある何かをくすぐるようなことを囁いていく。
「可愛い可愛いそなたのためなら、フィガロちゃんはなんでもしてやると思うぞ」
「……フィガロはただの友達くらいにしか思ってませんよ」
「本当にそう思うか?」
 服の下で、肌がじんわりと汗ばみ始める。
「……」
「あれはそなたに捨てられると思ったら、自制を失うはずじゃ。好いた者に縋りつくなんてことできない性分じゃからな。それなら施しをする側の体裁を保ったまま何でもしてやるしかあれにできることはない。傍目からは縋りついているより哀れな姿なのだがな。なにせ自分が持っているものを次々捧げることでようやく関係を保っておるのだから」
 見てきたかのように男が語る。実際、見たことがあるのかもしれない。フィガロではないにしても、似たような男に、晶のような純真そうな子供をあてがって、自制を無くしていくのを見てきたのだろうか。そこに辿り着かせるために、いま晶にしたような自尊心をくすぐることを囁いたのかもしれない。
 道徳や倫理を薪にして火をくべているのが彼らなのだろう。そしてその火に当たって体を温める程度の恩恵をきっと晶も受けている。それでも、晶自身がその”薪”にさせられる未来は、もしかしたらすぐそばにあるのかもしれない。それは彼らの気まぐれのせいで、というよりも、晶がまともな判断ができなくなった時に起こりうることな気がした。