仕事で長く不在だった若が、今日やっと屋敷に帰ってきた。
あまりに嬉しくて、つい夕飯を豪華にしてしまった。それだけではなく、寝所の用意までしようとしている。「トーマは過保護だね」と若に言われてしまったが、実際には過保護でもなんでもなく、ただできるだけ一緒に居たいというオレの卑しい気持ちが、そうさせているだけだった。
横たわった若の胸元に布団をかける。若は微笑してオレを見上げていた。白い肌は、灯りを絞った室内でも光を帯びているかのように輝いて見える。
今まで出会った人の中で、この人がいっとう綺麗だ。彼に仕えてからもう随分長く経ったというのに、ふとした瞬間にそう思ってしまう。
「今日の商談の席でね、相手の娘さんを紹介されたんだ」
若が言う。若が眠りにつくまでの短い時間、なんとはなしに交わされる雑談であったが、今日だけはその内容にひやりとした。
まさか、縁談を見据えた顔合わせだろうか。考えすぎだとは思うものの、ついそんな風に疑ってしまう。若がオレ以外の誰かのものになってしまったら、きっと耐えられないだろうから。つい考えすぎてしまうのだ。
「鎖国が取り払われたことで、久しぶりに会えたらしくてね。長いことモンドで暮らしていた娘さんらしい。再会できて嬉しそうにしていたよ」
「モンド、ですか」
若の言葉で、先程の疑惑が見当違いなものだったと判明する。しかしそれでも胸の内にある不安は晴れなかった。これから若が何を言おうとしているのか、手に取るように分かっていたからだ。
「ねえ、トーマ。君も、自分の家族のもとへいつでも帰っていいんだよ」
「帰りませんよ」
反射的にそう口にした。そして言い終わった瞬間に、自分の声があまりにも頑なな響きを持っていることに気づいた。彼を傷つけやしなかったかと、慌てて冗談めかした声でこう続ける。
「オレが帰る時は、若も一緒に連れて行きますよ。若のことを家族に紹介するんです」
勿論、ちゃんと若と一緒に稲妻に戻ります、とも付け加えた上で、恐る恐る彼の顔を窺った。
若は微笑を浮かべたまま、オレのことを見つめていた。優しげな微笑だった。
そして、口元の笑みだけは変わらないまま、目元が可笑しげに細められる。
「それではまるで、私がトーマのお嫁さんみたいじゃないか」
そう言って笑う姿は、オレの返答を心の底から愉快に思っているように見えた。あの返し方をして良かった、と内心胸を撫で下ろす。
けれどそれも一瞬のことで、ころころと笑っていた顔がふいに変わる。こちらを憐んでいるような、悲しげで、どこか憂いを帯びた微笑に。
自然な動作で目を逸らされた。こちらを見ずに、ひとりごとのように呟かれた言葉だったけれど、明らかにオレに向けた言葉だった。
「私は、トーマが本当にしたいと思ってることをさせてあげたい」
静かな声だった。肌に触れた途端に溶けて消えていくような声だった。その声を聞いた瞬間に、自分でも抑えきれない、怒りに似た何かが体の中で暴れ出すのが分かった。
あんなに長く一緒にいたのに。手を繋ぐのも、口付けも、それ以上の行為もしてきた仲なのに。
オレが本心を隠して、惰性や責任感のためだけにそばにいると思っているのだろうか?
ここで若に仕えているよりも、家族のもとに帰るべきだと、オレの幸せはここには無いと、彼は本気で思っているのだろうか。
今ここで彼に覆い被さってやりたい。
ほとんど衝動的にそう思った。
服を剥いで、舌を這わせて、それ以上のことをしてやれたらどんなに良いだろう。これが本当にしたいことだと言えば納得するだろうか?
「……若」
すぐ近くに、彼の白い顔がある。気がつくと、畳に手をついて身を乗り出していた。色素の薄い肌の中で、唇だけが花のように紅い。触れたらきっと、溶けるように柔いのだろう。手のひらに触れる、乾いた畳の感触がやけに鮮明で、喉が渇いて、彼の唇に目が吸い寄せられる。
衝動のままに、唇を重ねた。
躊躇いは無かった。
触れ合ってすぐ、舌をねじ込む。すぐに彼の舌とぶつかった。縮こまって奥へ逃げようとするそれを捕らえて、絡め合う。
気持ちよかった。
頭が痺れるかと思った。
唾液をまとった、やわらかな粘膜同士を擦り合わせる。彼の喉が震えて、それが吐息となって伝わってくる。顔を傾けて、角度を変えて、彼の口の中を愛撫するのは、ほとんど無意識の行動だった。
ずいぶんと長く、彼を貪っていたような気がする。彼の唾液を飲み干して、ようやく身を起こした。
見下ろした視界の中で、ぼんやりとこちらを見上げる若が居る。唇は濡れて、頬は上気しているのに、その視線はどこか幼なげだった。そういう行為を知らない、子供のような顔だった。
その、白い肌の輪郭がぶれる。今の若よりもずっと、幼い顔立ちをした彼の顔がそこに重なる。自分の頭が、過去の彼を想起しているのだと気がつくのに数秒かかった。
フラッシュバックのようにして、彼との記憶が甦る。
数年前のことだったか。「あなたが好きだ」といくら伝えても信じきれないと言った彼を、強引に押し倒した。
「言葉では幾らでも取り繕える」という彼の言葉が、ほとんどトリガーのようなものだった。「信じてください」とまるで被害者のように口にしながら彼を犯した。
それ以降は、合意の上での行為ばかりであったが、初めて体を重ね合わせたあの日のことは、明らかに強姦と言っていいものだった。
冷水を浴びたかのように、全身の血が冷えていくのを感じた。彼の上から急いで飛び退く。いま自分がしていることのおぞましさを、過去の記憶によって目の前に突きつけられたから。
「す、すみません、若……!」
畳に額を擦り付ける勢いで謝罪するも、若はやはりどこかぽかんとした顔をしていた。濡れた唇を拭うことすらせずにオレを見ていたかと思うと、さっきまでのことが全て無かったかのように、穏やかな声でオレに言った。
「私は気にしてないよ、トーマ」
「でも、こんな……」
「そりゃあ、あんな風に求められたのは久々だから、少し驚いてしまったけどね」
場違いなほどに穏やかな微笑だった。飼い犬が勢い余ってじゃれついてきたのを、微笑ましく見るような目だ。
若の本心がわからないまま、あまりの後ろめたさに目を逸らした。彼の視線から逃げるように首を垂れる。
すると、すぐ近くで衣擦れの音がして、その直後にぬるい物がぺたりと頭にのせられた。髪を優しくかき混ぜられて、それが若の手であることに気づく。
オレはそろりと顔を上げて、彼の様子を窺った。目元までは見えないものの、淡く微笑んだ口元や、乱れて露わになった白い胸元が視界に入る。下腹部が熱くなるのを感じ、慌ててまた視線を畳に落とした。
若はオレのことを、一体どう思っているのだろう。胸の中にある邪な気持ちに気がついていないのか、それともそれを見抜いた上で、オレのことを「忠実で素直な子」だと考えているのか。何も分からないまま、ただ俯いて彼の手を受け入れることしかできなかった。
本当に、可愛い恋人だと思う。
忠実なところも、素直なところも、胸にある後ろ暗い衝動を時々こちらにぶつけてくるところも、愛おしくて仕方がなかった。
こうして頭を撫でていると、時折こちらを窺うような視線を向けてくるのがまた可愛らしい。決まり悪そうなその目は、「悪いことをした」ときちんと自覚しているのだろう。
だからこそ、私は彼が愛おしくて仕方がないのだ。
彼が無理やり組み敷いてきた日のことを、私はよく覚えている。
彼は縋るような目をしていた。捨てられることに怯える子犬のような目だった。
私は可笑しくて仕方が無かった。
だって、もしこの場で私が彼を拒絶したとして、彼がこの家を去った時、他の人間からはどう見えるだろう。優秀な家司が居なくなって、取り残された私と綾華の方が、おそらく「捨てられた」側になるだろうに。
一心に注がれる視線には、これ以上ないほどに清濁入り混じった感情が表れていて、歓喜が胸に湧くのを抑えられなかった。
今までの人生で、こんな風に想ってもらえたことがあっただろうか?地位も権力も関係なく、ただ私だけを求めてくれる人が現れるなんて、少しも期待していなかったのに。
もっと、私を求めて欲しい。
憎悪混じりでもいい。嫉妬混じりでもいい。
もっともっと強く求めて欲しい。
どうして分かってくれないんだと身を焦がして、めちゃくちゃにしたいと劣情を抱かせたい。ほとんど暴力まがいのことをしてでも、理解させたいとまで想って欲しい。
そんな浅ましい欲望が、次々に浮かんでは溢れていく。下卑た笑みを浮かべそうになって、品の良い微笑を浮かべるよう努めた。
「好きなんです、あなたのことが」
今にも泣き出しそうな顔で想いを告げられて、胸をかきむしりたいほどの興奮を覚えた。
もっと言って欲しい。好きだと声に出して欲しい。
彼の言葉をより引き出したくて、わざとつれない態度を取った。
「お世辞を口にせずとも、私はあなたを忠臣として評価していますよ。安心してください、トーマ」
明るい萌葱色の瞳が、涙を含んだまま見開かれる。その表情に思わず乾いた唇を舌で舐めた。しまったと思ったが、彼はそんな下品な仕草に気づかないでくれたらしい。そのまま、迫るような勢いで次々に言葉を投げかけてくる。それら一つ一つが脳に染み込んでいくようで、顔が緩みそうになるのを必死に抑えた。
「家臣としてじゃない」「あなたに触れられるたびに」「ずっとそばに居たいんです」「嘘じゃない」「嫌だ」「故郷よりもあなたのそばで」「あなただけが」
そうやって想いを吐き出すたびに、彼の目の奥に暗いものが積み重なっていくのが分かった。それを覗き込むようにしながら、「あと少しだ」と思う。
あと少し、ほんの少しで多分彼は決壊する。自制心に溢れ、快活で、素直で、忠実な彼が、私のせいで狂うのだ。こんなに楽しいことがあるだろうか。
頃合いを見て、私は彼に背を向けた。その「少し」を達成するために。
「言葉でなら、幾らでも取り繕えますよ。私の周囲にいた者は、今までみんなそうでした」
背後に落ちた一瞬の静寂に、言いすぎたかと焦る。
しかしそう思った瞬間に、痛みを覚えるほど強く肩を掴まれた。振り向く余裕さえなく、背後からその場に組み敷かれる。あとはもう、彼にされるがままだった。
痕が残るほど押さえつけられた。無理やりねじ込まれたものに痛みさえ覚えた。卑猥な言葉もずいぶん言わされたような気がする。けれど、その全てが心地よくて仕方が無かった。貪欲な愛を向けられることが、こんなに気持ち良いとは知らなかった。
私がこれほどまでに浅ましい考えを抱いていることに、彼は気がついているのだろうか。
まるでしょげかえった犬のように落ち込んで、こちらを窺う様子を見るに、きっと気がついていないのだろう。垂れた耳と尻尾が見えそうなほどの落ち込み具合は、ついさっき無理やり口付けてきたとは思えないほどだ。
「トーマ」
名前を呼ぶと、ぱちりと顔を上げてこちらを一心に見つめ返してきた。
金色の髪と、萌葱色の瞳と、艶やかに白い肌。大きな丸い瞳を瞬かせる姿は、どこか幼なげにも見えて、こんな子を弄んでいる状況に、ぞくりとするような多幸感が胸を満たした。
可愛い可愛い素直で忠実な恋人に、嘘偽り無い言葉を送ろうと思った。
彼を心から思いやってるようなふりをして、故郷に帰るよう促しては好意を煽ってばかりの私も、この気持ちだけは本物だったから。
殆ど贖罪のような気持ちでこう口にする。
「私のことを好きでいてくれてありがとう」