またいつものように、シルバーアッシュが突然ロドスを訪ねてきた。手土産を持ってきて。龍門の月餅。紙袋に入ったそれを受け取りながら、「そんなにお喋りする時間はないよ」と私は言った。
「来る時言ってくれたら、夜にでも時間を作ったのに」
そう言ってみせても、彼はこちらを面白がるような目をして笑うだけで、何も答えない。今は真っ昼間で、もちろん勤務時間中だ。こんな風に突然執務室にやって来ては、お喋りだのなんだのをしたがる彼の気持ちが、私にはさっぱり分からない。保健室に駄弁りに来る不良みたいだな、とほんの一瞬思ったが、ここを彼にとっての保健室とするにはあまりに距離が離れている。イェラグとロドスは、その時々の駐在地にもよるが気の遠くなるような距離がある。
「妹さんは元気だよ」
話すことが見つからないので、月餅を出しながらとりあえずそう口にする。そうか、とだけシルバーアッシュは返した。
「いつ見ても暑そうな格好だな」
彼がそう言うので振り返ると、ソファー脇に置かれたクマのぬいぐるみを手に取っていた。そのクマはいつもニット帽を被せられている。防護服のことを言われたのかと思っていた私は、なんだかおかしくてくすくす笑った。
「そんなら、君が麦わら帽子でも買ってあげればいいのに」
シルバーアッシュの目がこちらを見る。
「それにきみだって充分暑そうだよ」
濃紺にストライプ柄のスーツを着た彼は、いつも以上に手足が長く見えた。コーヒーを淹れてくると言って、別室に向かう。行きがてら「それを飲んだら帰ってね」と彼に言った。
何故かは分からないけど、そう口にした直後に、少し意地悪な物言いだったかもしれないと気づき、ひしゃげるみたいに胸が痛んだ。彼を傷つけたんじゃないか、という不安が頭をよぎる。別に気にすることはないだろう。もっと冷めた言い方を他のオペレーターにすることだってあるじゃないか。シルバーアッシュだって、こうやって用事も聞かずに急に訪ねて来たんだから、ちょっと小言を言うくらいしてもいいだろう。そう思い直してみても、やっぱり胸が苦しくなった。最近の私は、シルバーアッシュに絆され過ぎている。
二人分のコーヒーを淹れる。シルバーアッシュの方は、ミルクと砂糖をいっぱい入れた、子供が飲むみたいなやつにした。私のはブラックだ。その黒々とした液面と、自分の分とをちらりと見た彼が、どんな表情をするのかが楽しみだった。意外と、何も言わずになんでもない顔をして口をつけるのかもしれない。
けれどそんな期待を裏切って、部屋に戻ると彼は寝ていた。
「…………」
ソファーの肘掛けに腕を置いて、そこに頭を預ける形で寝ている。腕と前髪の間から覗く彼の目は、しっかりとまぶたが下ろされていた。
「…………」
そんなに時間はかかってないはずなんだけど、と言い訳するように胸の内で呟いた。手に持った二人分のコーヒーから、まさしく二人分の湯気が漂っている。できるだけ音を立てないようにマグカップ を置いて、彼の顔を覗き込んだ。静かな寝息が聞こえてくる。
起こすべきか、と一瞬だけそう思って、すぐに「寝かせておいてあげよう」と思った。周囲を見渡す。一応、来客が来た時に通すためのソファーだから、執務室に人が来ればこの姿を見られるだろう。それが彼にとってあまり嬉しいことでないのは明らかだ。私室に運ぼう、と考えるのは自然な流れだった。
彼の体の下に手を差し入れる。その時点で、指先にかかる重みに尻込みしそうになった。意を決して、体を抱き上げようと踏ん張った。びくともしない。防護服の下で、じんわりと汗をかき始める。それでも一ミリたりとも浮く気配が無い。腕の筋肉が引き攣れるのを感じて、一旦諦めた。一歩も歩いていないのに、全力疾走したように息が切れている。
立ったまま息を整える。汗で湿った体が気持ち悪い。そうしながら、ふと彼の顔を見た時──腕の隙間、そこから覗く灰色の瞳と、目が合った。
「…………」
見間違いか、ともう一度視線を向けると、その瞳が愉快そうに細められるのを見た。もちろん、寝息なんて聞こえない。私はもう一度、彼が起きているのを確認して──ソファー脇のぬいぐるみを手に取った。次に振り返った時、彼は顔を背けていたけれど、かまわずその頭にぬいぐるみを投げつけた。ぼすんという音を立てる。
「傷害事件だ」
おどけるように言う彼に「私がなにをして欲しいか分かる?」と聞いた。面倒な彼女みたいな言い方で。シルバーアッシュはやっぱり面白がるような顔をして「コーヒーを飲み終わったらすぐ帰れ、だろう?」と答えた。