ドクターはその日、ロドス艦内にある小児病棟の、とある部屋を訪れていた。
所在なく椅子に腰かけたまま、ぼんやりと部屋を見渡す。部屋は一般的な教室程度の広さがあり、壁に沿うように本棚が置かれている。真ん中あたりのスペースには、六人がけできる長方形のテーブルがいくつも並べられていた。図書館の一角をそのまま持ってきたかのような作りである。
片側の壁には窓があり、もう片側の、廊下に面している方の壁は、全面ガラス張りになっている。色紙で作られた花や、ポスターなどが等間隔で貼られているので、丸見えというほどでもないのだが、廊下側から覗こうとすればいくらでも見ることができるようになっている。それを示すように、入院着を着た子供がちょうどそこを通りがかり、ポスターの間から首を伸ばして、手を振りながらこちらへ笑いかけてきた。ドクターもそれに手を振って応える。
普段はここに入院している子供が利用しているのだろう。ドクターの背後にある窓にも、色紙で作った何かしらが貼られており、棚には絵本や児童文学が目立つ。ドクターは毎月のようにここへ来ているので、今更目新しさもないのだが、一般的な成人男性であればこの部屋に居ると落ち着かなくなるのかもしれない。ドクターは自身が初めてこの部屋に来た時のことを思い出そうとしたのだが、当時は居心地がどうこうと考えられる精神状態ではなかったことに気づいた。
指定された時間まで、まだ余裕がある。手持無沙汰になったドクターは、窓下に置かれた本棚を見下ろした。子供の背に合わせて作られているのか、膝くらいまでの高さしかなく、斜め上を向くように本棚自体に角度が作られている。ドクターはそこから、なんとはなしに絵本を一冊抜き取った。ぱらぱらとめくり、適当なページを開く。青空を背景にして、デフォルメされたイラストが描かれている。蜂が数匹、薔薇が一輪、手足と顔をつけてキャラクター化された雫が数体並んでいて、左上には「それぞれいくつあるかな?」と丸い字で印刷されていた。薔薇の濃い赤色と、点と線で描かれた笑顔と、「それぞれいくつあるかな?」に、ドクターはゆっくりと視線を這わせていった。自分とは、程遠いもののように思えた。遠い、異様なものとして。
それはこの絵本だけに限らない。ありとあらゆるものが自分とは違うもののように、ドクターには思えていた。この部屋も、色紙でできた装飾も、さっき通りがかった子供も、ロドスという組織も、アーミヤとケルシーも。
これは、普通の人間であれば抱かない感覚なのだろうか? ドクターはずっと以前からそう感じていた。自分は周囲のあらゆるものから、遠く、隔絶された存在に思える、と。 特別な存在であると言いたいのではなく、例えるならガラスに隔離されたこの状況そのものが、その感覚に似ていた。誰もこちらの内面の、根本のところを計れないのではないかと思う。相手はドクターのことを、まるで世界で唯一の理解者のように慕ってくることがほとんどであるというのに。これは記憶を失った人間特有の感覚なのか、それとも自身の性格によるものなのか、ドクター自身、いまだ判別がつかずにいる。
そもそもとして今この部屋にいる理由が、記憶喪失の治療に向けた、カウンセリングのためだった。こうした精神疾患(に近しいもの)を持った患者への治療は、ロドスでは珍しいものではない。ただ、ほとんどの場合はもっとプライバシーに配慮した、密室に近い場所で行われることが多い。どうしてこの小児病棟の一角を毎度指定されているのか、ドクターには理解できなかったが、もしかしたらドクター以外の人間へ周知するために、ここでしているのかもしれない。ドクターの記憶喪失への治療を、怠っているわけではないというアピールに。
このカウンセリングが始まった当初、ドクターはなんとなく責められているような気がしていた。記憶が戻らないことや、質問に歯切れよく答えられないことに。しかし今となっては、採血や診察と同じようなものとして、さして心を動かされることなく、臨むことができるようになった。良いことなのだろうと思う。彼にとってメンタルケアは門外漢であるので、これは何となくの印象ではあるのだが。
ただし、あまりに慣れすぎて、このカウンセリングを退屈に思い始めているのは良い傾向ではないのだろう。特に、今現在のように、手持無沙汰に絵本を読み始めているような心持ちでは。
絵本の中の、のっぺりとした青空を指でなぞる。蜂の輪郭を描いている、黒く太い線にどこか圧を感じて、こちらを拒絶しているかのように思えた。
そこでふと、視界の端に映る黒い革靴に気がついた。顔を上げる。実際に見て確かめるより先に、予感めいた確信があった。予想通り、そこにはシルバーアッシュが立っていた。
「何をしている?」
ドクターが一気に現実へと引き戻される。相変わらず、彫刻のように整った顔をしていた。血色の薄い、男性的な顔と、さっきまで見ていた絵本との落差があまりにも大きく、戸惑ったドクターはすぐに反応できずにいたが、シルバーアッシュは特に気にした風もなく興味深そうに室内を見渡していた。
「来てたんだ」
ようやくドクターがそう返事をした。シルバーアッシュが一瞬、膝上の絵本に視線を留めたのに気づいて、ドクターはすぐに表紙を閉じた。別に何か言われるとも思ってはいないのだが、変に気恥かしかった。
「お前にしては珍しい場所にいるな」
「ちょっとね」
ドクターは言葉を濁しながら、シルバーアッシュと、その向こうにあるガラスの壁を眺める。子供用の読書会やリクリエーション日が描かれたポスターを見て、あれが貼られた中をくぐってシルバーアッシュが入って来たのか、と思うと妙に愉快な気持ちになった。そうぼんやり思っていると、黒手袋に包まれた手が、夢から覚めさせるような力でドクターの手首を掴んだ。
「行くぞ」
「どこに?」
「お前に聞かせたい近況がある」
そういえば、彼がロドスを訪れるたびにお喋りをするのがここ最近の習慣であった。大抵ドクターが淹れたお茶と、シルバーアッシュが持参したお茶菓子を添えて。執務室が空いていればそこで、そうでなくてもロドスにはいくらでも談話室の類はある。
しかしお喋りはいいとして、こちらの予定も聞かずに連れ出そうとする強引さに、ドクターはやや辟易した。もしかしたらこの男は、何か用があってドクターがこの部屋に居るのではなく、単なる興味本位でこの部屋に入り、絵本を読んでいたとでも思っているのだろうか? 他人から見た印象として、実際にそれは当たっているのかもしれないが。わざと煩わしそうな素振りで振り払おうとしたのだが、掴んでくる手が予想以上に強く、ほどけなかった。仕方なく「ここで用事があるんだよ」とドクターは言った。
「何のだ?」
「カウンセリング」
そこでノックの音が響き、二人そろって振り返る。ちょうどいいタイミングで、担当医が来たらしい。白衣を着た、たれ耳の女性が、眼鏡越しに不思議そうな目で二人を見ている。
「さあ行った行った」
ドクターはしっしっと追い払う仕草をしたのだが、それでもシルバーアッシュが動かなかったので、「執務室で待っててよ」と付け加えると、ようやく部屋を出て行った。担当医が真向いの席に座る。ドクターの手の中にある絵本を見て「少し遅れてしまいましたか?」と微笑を浮かべながら尋ねる。
「いや、早く来すぎたから眺めてただけだよ」
背後の棚に戻し、ドクターは改めて席に座りなおす。ふと、担当医の肩越しに、もう去ったと思い込んでいたシルバーアッシュの姿を捉えた。ガラスの向こうで、振り返ってこちらを見ている。流石にさっきの子供のように手を振り返すことはしなかったが、その代わりに視線を逸らさずに受け止めておくことにした。
その瞬間、ドクターは奇妙な違和感に襲われた。シルバーアッシュがあの壁に隔てられていることが、おかしいことであるかのように。こうしてカウンセリングを受けている間、同じように隣に座って聞いている方が、彼には正しいような気がした。そこまで考えてドクターは、シルバーアッシュの革靴が視界に入ったあの瞬間だけ、自分が隔絶された存在であるという感覚が消えていたことを思い出した。カウンセリングが始まって数分も経つ頃には、そう思ったことすら記憶の彼方に流れていってしまったが。