ドクターはその日、秘書当番だった女性オペレーターと昼食を摂りに行っていた。
ロドスでは勤務歴の長い、落ち着いた物腰のオペレーターだ。彼女が声を荒げているところをドクターは見たことがない。怜悧な顔立ちをしており、低い声であまり表情を変えずに話す姿は、古い児童文学に出てくるような厳格な女教師を彷彿とさせた。このオペレーターと話していると、なぜか教えを請いたくなるような気持ちになってくる。Raidianとはまた別種の、自分がずっと年下の子供になったような気にさせてくるオペレーターだった。
そんな風だからか、食堂に向かう道中、いつもは聞き役に回ることが多いドクターが、珍しく雑談をふる側になっていた。とはいっても、二人とも元来口数の少ない方だったので、ぽつりぽつりといった風だったが。昼を少し過ぎていたためか、食堂の混雑具合はピーク時よりは空いていた。食券を買って、注文した品をトレイごと受け取ると、二人で席に向かった。その途中、彼女が何かを探すように周囲を見渡していた。
「誰かと約束してた?」
ドクターがそう尋ねると、「いえ、」と答えて席についた。彼女の注文した五目そばの湯気が顔にかかる。普段と同じ落ち着いた声が、その湯気の中で「シルバーアッシュさんがいないのかと探していました」と答えた。
「時間が合えばドクターとご一緒できるかと思ったのですが」
「ああ」とドクターが納得する。そういえば、今はシルバーアッシュがロドスに来ているはずだ。このオペレーターに限らず、昨日のうちから「シルバーアッシュさんが来てますよ」とこっそり教えてくる者が何人かいた。ドクターとしてはそうまで熱意をもって会いたいとも思えないので、毎度受け流しているのだが、このオペレーターがそれを気にするのはやや意外に思えた。
「珍しいね」
「何がです?」
「恋バナに熱心なタイプには見えなかったから」
ドクターは割り箸をぱきんと割りながら言った。自分とシルバーアッシュの関係性を恋バナと称するのは気が引けたが、変に凝った言い回しにする方が恥ずかしい気がして、冗談めかしてそう口にした。純粋に応援しているのか、単にはやし立てているだけなのかは不明だが、何やかんやとシルバーアッシュのことを話題に出してくるオペレーターたちは確かにいるものの、彼女はむしろそういったものとは距離を置いているイメージがあった。ドクターが自分の注文したラーメンに箸先をくぐらせる。対して女性オペレーターは、恥じ入ったような顔をして、箸袋から出しかけた割り箸を入れ直した。一拍遅れてラーメンに手をつけながら、オペレーターが言う。
「すみません、不躾でしたね」
「別にいいよ。それより、意外だなって思ったから」
ドクターがそう言うと、オペレーターは首を振って否定した。
「いえ、私も恋愛ごとにはそんなに興味はありません」
「うん、そういうイメージだった」
「ただ、ドクターとシルバーアッシュさんの関係は、そういうものとは違って見えるので」
「違う?」
「はい」
そう答える頃には、ややバツの悪そうな顔をしていた顔が、普段通りの怜悧な無表情に戻っていた。しかしその目だけが、どこか遠くを見つめているような、ぼんやりとしたものをまとわせている。説明しようとして、歯切れ悪く口ごもった様子を見るに、自分の頭にあるものを言葉にしようとして手間取っているらしい。
「よく、古めかしい小説の中で、敬虔な信者を目にした人間が、尊敬の念を抱く場面がよくあるでしょう」
「うん」
「私がシルバーアッシュさんを見ている時の気持ちは、きっとそれに近いのだと思います」
昼食の後、ドクターは一人でとある場所へと向かっていた。ロドスの片隅に作られた礼拝堂である。普段、意識せずにいた場所なので、ドクターがここを訪れたことは一度もなかった。他の部屋とは違う、古めかしいつくりをした扉の横に、金属でできたプレートが飾られている。「礼拝堂」と彫られた下に、やや小さめの字で「宗教の垣根をこえて、祈りの場としてご活用ください」と書かれていた。
ドクターは扉にそっと手を置いた。中から物音はしない。定期の礼拝日とは被っていないことを前もって確認していた。ゆっくりと扉を押し開ける。無機質なロドスの内装とは程遠い、西洋風の部屋が目に飛び込んできた。正面奥に祭壇があり、手前に長椅子が並んでいる。祭壇から一番近い、左の長椅子に見知った姿を見かけて、ドクターは思わず声をかけた。
「シルバーアッシュ」
その声を聞いて、椅子の背もたれ越しに獣の耳が振り返る。石膏のように整った顔がドクターを見つめ返した。先客がいたら出直すつもりだったのだが、ドクターはそのまま礼拝堂の中へと入った。通路を歩きながら尋ねる。
「なにしにここに来たの」
礼拝堂なんて柄じゃないだろうに、と言外に匂わせながら言うと、わずかに笑みを含んだ声で「目に入ったから立ち寄っただけだ」と返される。
「そういうお前は何のために来た」
「ちょっと、気になることを言われてね」
「どんなことだ」
ドクターは答えず、通路を挟んでシルバーアッシュとは反対側の長椅子に座った。祭壇を挟んで、ちょうど線対称のような光景になる。しばらく、二人とも無言のまま時間が過ぎていった。ステンドグラス越しの日差しが、ドクターの膝や指先へと落ちている。宙に浮かぶ埃が、光で金色に照らされているのを眺めながら、何か祈りをささげるべきだろうか、とドクターは考えた。「祈りの場としてご活用ください」という文言が思い出される。こうして長椅子に座り、祭壇を前にしてみたら、自然と祈りたいことが思い浮かぶような気がしていたが、実際には何も脳内に浮かんでこなかった。
「ねえ」
前を向いたまま、ドクターは声をかけた。
「祈りたいことってある?」
「ない」
シルバーアッシュは答えた。
「ただ、こうなっていればと思うことはいくつもあった」
「何」
さして興味も惹かれずに尋ねると、シルバーアッシュが音もなく立ち上がった。そのまま、ドクターのすぐそばまで来て、立ち止まる。ステンドグラスからの日差しがさえぎられる。ただそこに立っているだけなのに、ずいぶん黒々とした影が、ドクターの足元に落ちた。伸びてきた腕が、無言のままドクターの手首を掴む。シルバーアッシュの半分ほどの太さしかない、青白い腕が薄闇の中に晒された。
「今ここで、無理やり組み敷いたらお前はどうする?」
「大声を出すよ」
特に怯えもせずに答えるドクターに、シルバーアッシュはひっそりと笑った。
「お前に体さえなければ、こんな想像もせずに諦めることができただろうな」
「体が無かったら、私はそもそも存在してないよ」
「お前なら、あれと同じものになれる」
シルバーアッシュが、祭壇のほうを顎で軽く指し示した。しかしそこには、どれだけ目を凝らしても宙に舞う埃と、光に照らされた祭壇しか見当たらない。何を指して言っているのか、ドクターは分からなかった。
「机?」
「”主”と呼ばれているものがいるだろう」
ドクターは閉口した。ひどく馬鹿馬鹿しい発想に思えたからだ。ふーん、と言って口を開く。
「私が神さまだったら、ふしだらな妄想せずにいられたってこと?」
「こうやって、お前から反応が返ってくることさえ期待せずに過ごせていただろうな」
ドクターは、昼間にオペレーターから聞いたことを思い出した。
「君が敬虔な信者みたいだって」
シルバーアッシュを見上げながら言う。
「オペレーターが言ってたよ。私と一緒にいる時の君は、ここで祈りをささげてる人たちと同じに見えるんだってさ」
「聞いていた」
シルバーアッシュが表情を変えずに言う。ドクターは驚いて目を見開いた。
「居たの?」
「お前と食事をするつもりだったが、先約がいるのを見て入口で引き返した」
「気にせず来ればよかったのに」
「いじらしいと思わないか?」
意地の悪い笑みと共にそう聞かれて、こういうところがいじらしくないんだとドクターは思った。
「来て」
椅子から立ち上がり、シルバーアッシュの手を引いてドクターは言った。
「執務室に行ってお茶しよう」
「二人でか?」
「そう」
礼拝堂の出入り口に向かう。歩くたびに、日に照らされた埃が薄く足元で舞い上がるのが視界の端に見えた。それを捉えながら、ドクターは言った。
「私は神さまじゃないから、腕以外のところも触らせてあげる」