ビリヤード台の木枠が、照明を受けて濡れたように光っている。ロドス艦内の娯楽室に置かれているものだ。細かな傷はあるものの、高価な代物であると分かる。ここに入院している鉱石病患者が、自分の店を畳む際に折角だからと持ってきたものらしい。
ドクターがキューを構える。突いた。ぶつかり合った球は徐々に減速し、しかし動きを止めることなく、ゆるやかな速度でひとつだけ穴に落ちる。
「君の番」
「ああ」
身を屈め、テーブルの上に上半身を伏せる。慣れたものだ。こういった「社交」は、留学時代に飽きるほどやった。
ドクターの視線を感じる。おそらく彼の目は、こちらの動き全てを捉えようとしているのだろう。筋肉への力の入り具合、姿勢、キューを突く角度まで。唇の端が無意識に吊り上がる。手元を固定し、キューを突いた。小気味よい音が響く。頭で思い描いていた通りにボールが入った。
「人によって音が違うんだね」
ドクターの言葉に頷く。彼はついさっき習い始めたばかりの初心者だった。
球同士がぶつかり合う時、彼のそれはなかなか珍しい音を立てる。かたん、とかぱたん、という音だ。たとえ力が弱くても、もう少し鋭い音を立てるのが普通だろう。そして球がゆるやかに動き出す。弾かれた、というより空気に押し出されたかのような動作で。
そうして何ゲームかやった後、ノックの音がひそやかに響いた。コータスの少女が部屋に入ってくる。ロドスの最高経営責任者、アーミヤという名の少女だ。書類を腕に抱えている。こちらと目が合うと、頭を小さく下げた。
「お休み中にすみません、ドクター。どうしても確認したいところがありまして」
書面を確認しながら二人が少し言葉を交わす。その後にドクターが、いかにもいいことを思いついたという声で「アーミヤも一回だけやってみなよ」とキューを差し出した。
「えっ?その、いいんでしょうか……?」
「うん、やってやって」
明らかに戸惑いながら、書類と入れ違いにキューを受け取る。
「……あのボールに真っ直ぐ当てるんですよね?」
ドクターに促され、彼女が台の上に構える。ぎこちない姿勢だが、表情は真剣そのものだ。息を詰める。大きな瞳の中に、火花が散ったように思えた。
力強い音が響く。瞬く間にボールが弾かれ、ほとんどの球が穴に収まった。反響した音は霧のようにかき消えて、後には心地良い静けさが部屋に満ちていった。
「すごいな」
呆けたようにドクターが言う。声には純粋な称賛が含まれていた。自分も気を抜いていたら同じような声を上げていたかもしれない。
「えへへ」
少女がはにかむ。おそらく彼女の研ぎ澄まされた神経と、肉体をコントロールする能力によって為せたものだ。それと、並外れた集中力も。
きっと、彼女はあらゆるゲームにおいて強いのだろう。以前からぼんやりと認識していたことを、改めてそう意識した。遊戯に限らず、ゲームと名の付く全ての物事において。
「楽しかった」
私室の中で、ベッドに腰を下ろしながらドクターが言う。スプリングで細い腰がわずかに跳ねた。声には満足そうな響きが含まれている。好きなだけ毛づくろいをした後の、猫のような声であった。彼の向かい側のソファーに腰かける。
「ビリヤードって、あんまりしたことないし、教えてくれる人もいなかったから」
「そうだろうな」
彼を満足させることができた事実に、充実感を覚える。体を動かしたのとは違う、思考を巡らせたとき特有の心地よい疲れが全身を満たしていた。ビリヤードは、体力よりも意識の集中と技術がものを言うゲームだ。そういえば、と天井を仰いでいた彼が口を開く。
「すごかったな。アーミヤ」
それは認めざるを得ない称賛だった。「慣らし」もいらず、一発目でああもこなすとは。
「……お前のところの代表は、ああいったゲームにも慣れているのか?」
「ええ?そんなことないと思うけど。練習する時間もなさそうだし」
ドクターの予想はおそらく当たっているのだろう。あのぎこちない動きは実際に初心者のそれだった。それでも、体をどう動かすべきかのコントロールを、本能で理解しているに違いない。
「アーミヤと言えばさ、あの子またヴァイオリンの練習を始めたんだ。この間のパーティでみんなに披露して、すごく褒められてたよ」
「ほう」
「私も練習してみようかな」
それで、いつになるか分からないけど、アーミヤと一緒に演奏したりとか……。彼の言う光景を、頭に思い描こうとした。あの少女とドクターが、ヴァイオリンを携えて曲を奏でる。きっと絵になるのだろう。そして、幸福そうな空気が二人を包み込むはずだ。他の誰にも立ち入ることのできないような、排他的な親密さをもって。
──ゲームでも演奏でも、何かしらのルールに基づいて複数人で物事を成し遂げようとした時に、そこにはひどく内輪的な空気が作られる。一体感といってもいい。奇妙な熱量をもって、張りつめ、時にゆるみながら上り詰めていく空気。チームでスポーツをしている時が一番分かりやすいだろう。ついさっきビリヤードをしている時に、自分とドクターは「そういうもの」を共有できていたと、そう思い込んでいた。
もう一度、二人が合奏している姿を想像した。少女と彼との間で、腕前にどうしても差が出るだろう。けれど、もし音を外しても二人は目くばせをして、くすくすと笑い合って演奏を続けるはずだ。じゃれ合う小鳥を眺めるような、微笑ましさがそこにあるだろう。
「もしかして、君もヴァイオリン弾けたりする?」
「少しな」
「へええ。さすがだなあ。あ、でも、混ざりたいとか言わないでね。そしたら君とアーミヤとの間で、私だけ下手くそなのが目立っちゃうから」
冗談めかした声でドクターはそう言った。
廊下を歩いていると、突然背後から呼び止められた。
「シルバーアッシュさん」
見ると、あの少女が立っていた。華奢な体躯には大きすぎる、ロドス・アイランドデザインのジャケット。
「あの、もしかしてイェラグに」
「ああ、帰るところだ」
「お見送りしてもいいですか?」
相手は多忙の身だ。断ろうと思ったが、彼女の好きにさせることにした。ロドスの代表であるのだから、話し方を改めるべきかと考える。しかしそれも、この少女は望んでないように思えた。
「ドクターは一緒じゃないんですか?」
「部屋で寝ている。起こさないように出てきた」
「ふふ、はしゃぎ過ぎて疲れちゃったんですね」
二人並んで甲板へと向かう。そこに私用のヘリを置いていた。
少しの間、会話が途切れた。沈黙を破ったのは彼女の方からだった。
「あの、シルバーアッシュさん。プライベートなことなので、私が言うべきことじゃないかもしれないんですが」
「なんだ」
「ドクターと仲良くしてくださって、ありがとうございます」
予想に無い言葉だった。少なくとも、十四歳の子供にかけられるとは思ってもいない言葉であった。
「ドクターと仲の良い方は他にもたくさんいるんですが、やはりオペレーターと指揮官という立場から、ドクターは一線引いているように見えるんです……でも、シルバーアッシュさんは違います」
少女が──アーミヤが続ける。
「本当に、差し出がましいことだとは分かってるんです。でも、私にはしたくてもできないことなので──だから、ありがとうございます」
この少女は、理解しているのだろうか。自身とドクターとの間に横たわる空気を。血のつながりよりも濃い、親密な、入り込む余地のないものがあることを。それ以前に、こんなことを口に出せる権利なんて、彼女以外の誰も有していない。
足を止めた。ずっと下にある小さな顔を見下ろす。
「ヴァイオリンを弾けると聞いた」
「え?あ、はい」
「私も幼少期にいくらか習っていた」
大きな目がこちらを見つめ返す。青く透き通った瞳だ。
「やるべきことがすべて終わった時、もし機会があれば、二人で一緒に合わせるのはどうだ」
三人で、とは言わなかった。一瞬の間の後に、彼女はこぼれるように笑った。少女らしい、無邪気な笑顔を浮かべて「はい、ぜひ」と言う。
──彼女はあらゆるゲームに勝つことができる。だからこそ、盤上を隔てて向かい合いたくなかった。
「ドクターが知ったら、きっと聞きたいって言うでしょうね」
そうだろうな、と返した。それ以外に返すべき言葉がないように思えた。頭が重い。早く外の空気を吸いたいと思った。