足枷

 とある山の中に、カランドの所持する別荘はあった。温暖な気候をしていて、二月の頭でもシャツ一枚で過ごせるような場所だった。勿論、雪など少しも降らない。一年中、青々とした木々が陽の光を浴びて輝いている。町へ出るには車で片道一時間もかかるが、それに見合った平穏さがそこにあった。資産家が別荘を建てるのに、これ以上最適な場所はないだろう。
 その別荘は、ここ数年使われていないようだった。時折建物の世話をしにくる使用人がいるくらいで、屋敷の主人が足を踏み入れることはない。
 しかし今この時、シルバーアッシュと数人の使用人、そして客人までもがこの別荘に滞在しているらしい。役目を果たすことができた屋敷の、歓喜の声が聞こえるようだった。

 もう午前九時過ぎになる。そろそろ起こしに行った方がいいだろう。シルバーアッシュはそう思って、二階の寝室へと向かった。ノックはしなかった。相手はまだ寝ていると思っていたからだ。
 しかしその予想に反して、ドクターはきちんと目を覚ましていた。
 眩しい。咄嗟にシルバーアッシュはそう思った。ベッドのすぐそばに、大きな窓がある。ドクターはそこにもたれかかっていた。ベッドの上で上体を起こし、脚を投げ出した姿勢で。
「ああ、エンシオディス」
 ドクターが振り向く。窓から差しこむ陽射しが、彼の輪郭を照らしていた。
「起こしに来てくれたのか。ありがとう」
 シルバーアッシュは、珍しく喉の渇きを覚えた。そして、ドクターの姿を改めて眺める。彼は今、簡素なスウェットを身につけていた。ロドスから持参したものだった。淡い灰色をしたその服が、肌の白さを際立てていた。
「窓の外を見ていたんだ」
 ドクターはそう言って、窓の方へ向き直った。「目が覚めてすぐ自然を見れるのはいいね」という彼の言葉通り、窓の外には青々とした木々が並んでいる。
「ロドスが移動する時は、どうしても荒野ばかり見る羽目になるし……」
 ドクターの白い横顔を、シルバーアッシュは見つめていた。窓の向こう、光を含んで緑を滲ませた景色が、その肌をより透き通らせていく。今まで生きてきた中で、この男より美しい人間は居なかっただろう。シルバーアッシュはそう考えた。それが客観的な事実ではないだろうとわかっていても、そうとしか感じられなかった。
「いま、下に降りるよ」
 何の反応も示さないシルバーアッシュの様子を、催促とでも思ったのかもしれない。
「急かしたわけではない」
 それに、着替えを先に済ませてからだ、とクローゼットを開けながらシルバーアッシュは言った。
「そういえばそうだった」
 防護服を受け取ってドクターが言う。やけに子供じみた仕草で、スウェットの上を脱ぎ始めた。

 溜まった有給の消化のため、そして心身のリラックスのためにも、長い休みを取るべきだとドクターが忠告されたのは一月の中旬近くだった。ドクターは年末年始も働いていたんですから、というアーミヤの言葉もあって、彼はしぶしぶその忠告に従った。しかし休暇といっても、何をして過ごすべきか。そう悩んでいたところに、シルバーアッシュが訪ねてきたのだ。
「お前が長期休暇を取ると聞いた」
 誰から。そしてどうやって聞いたんだ。そう問いただすことはなかった。この恋人がロドス内に独自の情報網を築き上げつつあるらしいことはドクターも知っていた。いつかアーミヤに叱ってもらわねばなるまい。まるで他人事のようにドクターはそう考えた。
「カランドで所持している別荘をお前に貸し出そうと思ってな」
「別荘」
 まるで初めて聞く単語のように、ドクターはそう繰り返した。お前さえ良ければ、私も休みを合わせてそこで過ごしたい、と低い声がそう続ける。そんな風にして、この奇妙な休暇は始まったのだった。

 深夜、ドクターは目を覚ました。
 手足が怠い。暗闇の中で目を凝らすと、すぐ隣で眠るシルバーアッシュの姿が見えた。小さく呻いて身を起こす。恋人の寝顔を、見下ろす形になった。
 端正な顔だ。
 まだ夢を見ているような感覚で、ドクターはそう思った。シルバーアッシュは眠っていても、険のようなものが顔に浮かんでいる。彫りが深いせいでそう見えるのかもしれない。頬には微塵も贅肉が感じられず、首筋まで男性的なつくりをしている。自分とは全く違う生き物のように思えた。そして多分、その認識は間違っていない。
 ベッドを抜け出す。足音を忍ばせながら、彼はダイニングへと降りた。電気をつけて、コップに注いだ水を飲む。まるで風邪を引いた時のように、体が熱っぽかった。しかしそれは、数時間前にした行為のせいであるとドクターは分かっていた。あの大きな背中が覆い被さってきた時の光景も、彼を受け入れた時の粘膜の感触も、ありありと思い出すことができる。
 もし、シルバーアッシュに何も言わずこの別荘を抜け出したら、彼はどんな反応をするだろう。
 唐突に──それでいて、ずっと前からそう考えていたような気持ちで、ドクターはそんなことを思いついた。すぐ寝室に戻る気にはなれず、テーブルに腰かけ、頬杖をついたまま彼は空想する。
 少なくとも──まず家中を探した後に、私兵を使って辺り一帯を捜索させるはずだ。それでも見つからなければ、自分が行きそうなところへ手当たり次第に電話をかけるか、カランドに兵の増員を頼むのかもしれない。
 それはひどく愉快な想像だった。どれだけ迷惑をかけるのかと思うと安易に実行できるものでもなかったが。
 手足が冷えている。そろそろベッドに戻るべきかもしれない。そう思った途端に、背後から声をかけられた。
「ドクター」
 振り返る。シルバーアッシュが立っていた。眩しがっているかのように目を細めている。明かりはダイニングテーブルの頭上にあるものをつけているばかりで、廊下への入り口近くに立っている彼の姿は、半分以上暗闇に吞まれていた。
「眠れないのか」
「ううん」
 「部屋に戻るぞ」と彼は言った。ドクターと距離を詰めると、有無を言わせぬ強さで腕を掴む。
「コップを洗わなきゃ」
「明日でいい」
 そう言って無理やり引き寄せた後、そうしなければドクターが逃げ出すとでも思っているかのように、シルバーアッシュは彼を抱き上げたまま寝室へと連れ戻した。

 ドクターが知る由もないことだが、その時シルバーアッシュの目には、ドクターが全くの別人のように見えていた。
 煌々とした明かりの下で、ダイニングテーブルに腰かけて、じっとしている彼の姿。寝巻きから突き出した白い手足も、その薄い背中も、数時間前に抱いたものとは思えなかった。別の世界で、シルバーアッシュ以外の誰かのものになっているドクターが、突然目の前に現れたかのようにさえ思えたのだ。勿論、声をかけてドクターがこちらを振り向いた瞬間に、その錯覚は霧のように消え去ったのだが。
 別荘の外に「家出」しようと考えていた姿が、シルバーアッシュにそう見えたのかもしれない。もしくはドクターという男自体が、自分のものになったという確信をどれだけ抱いても与えない人間だという、ただそれだけのことかもしれなかったが。

 翌朝。まぶたを焼く陽射しの気配に、ドクターは目を覚ました。奇妙な感覚があった。右足を、誰かに押さえつけられているような感じであった。持ち上げようとしても、そこだけ重力が増しているかのように重い。彼は上体を起こし、自身の足に起きている異常をその目で確かめた。身を起こした姿のまま、彼は数秒固まった。少ししてシルバーアッシュが寝室にやって来るまで、その姿勢のままであった。
「起きたか」
 そう言ってシルバーアッシュが部屋に入ってきた時、ドクターは無言で彼を見上げた。寝乱れてくしゃくしゃになった前髪が、目元にかかっている。そのせいか、睨みつけているようにも、上目遣いをしているようにも見えた。吹き出すのを堪えているように、唇を片方だけ吊り上げて笑みを浮かべたシルバーアッシュが近寄る。
「どうした?悪い夢でも見たか」
「これはなに?」
 ドクターが自分の足先に視線を戻す。彼の細い右足首には、昨晩まで無かったものが取りつけられていた。フィクションの中でしか見ないような、分厚い金属で作られた足枷。長い鎖が伸びていて、その端がベッドの脚に付けられている。ご丁寧なことに、あからさまな鍵穴まであった。底の見えない洞穴のように不気味なその鍵穴を、指先でなぞりながらドクターが聞く。
「君がやったのか」
「ああ。愉快だろう?」
「愉快?」
「そうだ。今まで退屈してたんじゃないか?寝るか本を読むかばかりの毎日で」
 セックスもしてた、と付け足そうか迷って、ドクターは結局口をつぐんだ。ちゃり、と金属が擦れ合う音が頭上からした。顔を上げると、シルバーアッシュが小さな鍵を手にしていた。そしてドクターの前で、それを胸元の内ポケットに仕舞い込む。
「力づくで取りあげるか?」
 意地の悪い笑みを浮かべて彼は言った。ドクターは、昨日の夜中に見た、恋人の分厚い胸や広い肩を思い浮かべる。「いい」と小さく首を振った。その代わりのように早口でこう問いただす。
「着替えは?トイレは?お風呂は?」
「お前が私を呼んでくれたら、その度に鍵を外してやる」
「親切だね」
「お前を苦しめたいわけじゃないからな」
 シルバーアッシュが手を伸ばし、ドクターの頬に触れた。陽光が遮られ、ドクターの体が影に飲み込まれる。
「分かるだろう?」
 低い声が、そう囁いた。ドクターはため息をついて目を閉じた。奇妙な気持ちだった。穏やかとは言えないが、苛立ちもあまり無かった。小さな子供の悪戯を前にしているような、彼を許してあげる側に自分がいるように思えたのだ。「そうだね」と彼は答える。
「これは、君なりのサービスなんだね」
 目を開き、シルバーアッシュを見つめ返してドクターは言った。
「私を退屈させないように、サプライズをしてくれたんだろう?エンシオディス」
「その通りだ」
 何か、知らず知らずのうちに彼を不安にさせていたのかもしれない。もしくは、休暇の過ごし方が彼の思い描いていたものではなかったのだろうか。どちらにしても、これを受け入れるための大義名分として、ドクターはこのようなことを言うしかなかった。
 シルバーアッシュが屈みこみ、ドクターの右足をすくい上げる。その足先は未だ影に覆われたままだったが、まるで陽射しを含んでいるかのように、ほの白く光っていた。シルバーアッシュはそのつま先に口づけた。足枷のせいでいつもよりずっと重く、みっしりとした負荷が彼の手にも伝わってくる。その重みが、自身の執着の表れのように思えて、彼は笑みを浮かべながら小さな足指を口に含んだ。そしてそのまま、満足気な吐息をこぼした。

 足枷をつけられても、ドクターの休暇の過ごし方はさして変わらなかった。今までは、外のハンモックだったりソファーの上なんかでまどろんだり本を読んだりしていた。それが全てベッドの上で行うようになっただけだ。
 着替えも風呂も、シルバーアッシュ本人が言い出した通り、甲斐甲斐しく足枷を外しては済ませている。風呂に行く時はシルバーアッシュが抱き上げて連れて行く。用を足す時も同様だった。トイレの中にまでついてきて、まるで赤ん坊の排泄を手伝うように後ろから抱き上げたままさせようとしたのは、流石のドクターも顔を赤くして拒絶することになったが。
 食事も、シルバーアッシュが寝室まで運んできたのを食べている。
「急にさ、私がダイニングで食べなくなったのを、使用人の人たちはどう思ってるの」
 湯気を立てる牛乳がゆを、スプーンで掬いながらドクターは尋ねた。その量はまるで小鳥の餌のように少なかったが、彼にとってそれが普段の食事量だった。
「どう、とは?」
「だって、今までずっと下に降りて食べてたのに。そうじゃなくても、私が姿を見せなくなったことについて、困惑したりしてないのかい」
 ふふ、とシルバーアッシュが笑った。それ以上の答えは聞かされなかった。その笑みに何か恐ろしいものを感じ、ドクターは問いただすのを諦めた。一体どんな風に説明しだのだろうか。もしくは、何も聞かされないまま働いているのかもしれない。ドクターの方も、使用人たちの気配は階下から聞こえるささやかな物音でしか察するのみであった。

 閉じたまぶたの上を、心地よい風が通り過ぎていく。ほんの少しだけ開けた窓から、外の空気が流れ込んでくる。その空気には、甘い春の気配や、木々の匂いまでもが含まれていた。寝ている時に、こんなふうに風を感じるのはあまり無いことだった。ドクターがロドスの自室で眠る時、防犯のために必ず窓を施錠していたから。
 薄く目を開け、ドクターはベッドの上で身を起こした。時計を見ると、まだ午後の二時だった。腹の上には、読みかけて中断した本が閉じられた状態で乗っている。
 彼は時間を持て余していた。ベッドの上でできることは限られている。彼はロドスから本を持ってきていたし、別荘の小さな書庫からシルバーアッシュが選んでくれたものも数冊そばに置かれていた。けれど、本というものは足枷をつけられたまま読むべきものではないだろう。そんな考えのせいか、彼の読書は全く捗っていなかった。
 彼は枕元の呼び鈴を一瞥した。カランドから持ってきたこまごまとした仕事を、階下でこなしているはずのシルバーアッシュを呼び出そうと思っていた。そして、退屈しのぎにセックスしようとも。
 ドクターから行為に誘われて、彼がいやそうな素振りを見せることはいつどんな時でも無かった。勿論それは以前からのことであるが、ドクターが寝室に閉じ込められてからは、前以上に嬉しそうに応じてくれる。
 変なことを、学習させてしまったかもしれない。いつだったか、ロドスでエリートオペレーター向けに行われた、心理学の授業を思い出しながら彼はそう思う。少なくとも、物理的な枷をつけてしまえばドクターは自分のそばを離れないし、望んだものを与えてくれるとシルバーアッシュは学んだはずだから。
 呼び鈴を鳴らす。可憐な音がそう広くもない屋敷に響き渡った。もうすぐカランドの主が部屋にやって来るだろう。ドクターただ一人のために。倦んだ頭で、これは良くないことだとぼんやり思いながらも、これからされるだろう行為を想像して、甘やかな期待が体に滲んでいくのを彼は自覚した。