「兄に対して、そこだけが憐れだと私は思っています」
穏やかな午後、執務室に持ち込んだ簡素なティーセットの向こう側で、プラマニクスがそう言っていたのをよく覚えている。
「あの男は、あなたを支配することを望んではいないのでしょう。言葉や暴力、権力や金銭を用いて、あなたを思い通りにしたいと思っているわけではありません。ええ。断言できます」
彼女はシルバーアッシュのことを「あの男」と呼んだ。最初はあの人と言おうとして、しかしわずかな逡巡のあとに「いえ、こういう話をする時は、あの男と呼ぶべきでしょうね」と結論づけた。
「実際はその逆に、あなたに支配されたいと思っているのでしょうね」
「私に?」
「はい」
「そうは見えないけれど」
プラマニクスは、色素の薄い目でじっとこちらを見つめた。まつ毛で縁どられた大きな目。その瞳の中に、もしくはティーカップを持つ指先の白さに、気品とは別の、洗練されたものを感じる。おそらくそれは、神聖だとか、清貧という言葉で表現できるものなのだろう。
シルバーアッシュが、私を支配しようとは思っていない。それはその通りであるような気がした。実際、彼はロドスに押しかけ、オペレーター契約まで結んだ。その結果、不平等な条約によって不便を強いられているのは彼の方だ。「支配という言葉はいささか乱暴でしたね」プラマニクスがティーカップを受け皿に置いて言う。
「もっとやさしく言い換えるなら、あなたに振り回されたい、と思っているのですよ」
「へえ」
「あなたに振り回されたいんです。あなたに執着されて、所有者であるかのように振舞われたいのでしょう。そしてその関係を他の者に見せつけたいのです。あなたの都合で、いろんなところに連れ出されたり、無理難題を押しつけられたり、それであなたの望みをどうにか達成して、あなたに喜ばれて、価値を認識されたいんですよ。あなたに会いたいと言われたり、不在を惜しまれたりしたいんです」
プラマニクスの言葉はよどみなく続いた。まるで書き記されているものをただ読み上げるかのように。言い終えた後に、彼女はクッキーを一口かじった。チョコチップが入ったものだ。白くやわらかそうな頬が、満足気にゆるんでいる。
「そうだね。そう言われると、実際その通りなのかもしれない」
私はそう答えた。シルバーアッシュがこちらに好意を向けていることは事実だった。好かれている、という言葉で片づけるには重すぎる彼の言動の、正体を今初めて目にしたような気がした。
「さすが妹だ。シルバーアッシュのことがよく分かるんだね」
「私は兄を見てこれらのことを察したわけではありません。兄を観察する機会は、屋敷の使用人たちの方がずっと多くあるでしょう」
「でも」
でも、そうやって指摘することができたのは、やっぱり彼をよく見てるからだろう。そう続けようとしたのだが、不快そうに揺らされるフェリーンの耳で黙殺される。プラマニクスはもう一度、私のことを見つめた。さっきと同じような表情で。
「私は、あなたを見てそう考えただけです」
「──」
「あなたに魅入られた方々は、みなそのように考えるのだろうと思いました。私の兄も含めて」
あなたに魅入られた方々は?それはひどく奇妙な言葉として、意味を持たずに目の前で霧散した。まるで新種の生き物の名前を聞いた時のように、理解できぬものとして頭が処理しようとする。私に魅入られた人たち。そんなものは実在しているのだろうか?
「でも、あなたは誰にも執着を持たないでしょうし、所有したいと思うこともない。だから、あなたを好きになった方々が満たされることは一生無いのでしょう。兄に対して、そこだけが憐れだと私は思っています」
憐れ。それは私が思うに、シルバーアッシュから一番遠い言葉だった。
プラマニクスは目を伏せて、紅茶に映る自身の姿を見つめている。私は彼女の気が安まるようなことを言おうとしたが、嘘はつきたくなかった。散々悩んだ末に、絞り出した返答がこれだった。
「悲しませたくてやってるわけじゃないんだ」
それを聞いて、プラマニクスは少し笑った。そして「分かっています」とだけ彼女は答えた。
風邪を引いた時のように、体が熱っぽく、だるかった。しかしそれは、こんな風に行為をした直後であればいつものことだった。
息をつき、ぐったりとベッドに横たわる。そうしながら、隣にいる彼の体をぼんやりと観察した。広い肩だ。髪の隙間から覗く太い首筋には、男性的な色香が感じられる。厚みのある胸も、引き締まった胴体も、自分とは全く違う。腕や足の太さも、自分の倍はあるかもしれなかった。
私は、プラマニクスの言葉を思い出していた。兄が憐れだと、彼女は言っていた。この恵まれた容姿と肉体を持つ男を、一度として満たしてやることもできないまま、自分は恋人の地位についているのだ。改めてそう考えた。
視線に気がつき、彼がこちらを振り返る。わずかな微笑を浮かべて「どうした」と尋ねてくる。何もない。こうやって彼と見つめあっても、やはりそう思うだけだった。私が彼にして欲しいことは何一つ無い。もっと見つめ合いたいとも、彼を独り占めしたいとも思わない。プラマニクスの言う通りだった。
「なんでもない」
そう答えながら、他に何か言うべきではないだろうかと考える。考えて考えて、考えた末にこう言った。乾き切った喉を動かして。
「大好きだよ」
多分この言葉は、ひどく空々しいものとして聞こえただろう。構わず、彼の肩に頬をすり寄せる。『憐れだと思った』プラマニクスの言葉が形を変えながら何度も頭の中で反響する。
「誰の受け売りだ?」
低い声だった。顔を上げると、彼がこちらを見下ろしていた。口の端を吊り上げているが、愉快な気持ちではないのだろう。見ているだけでそうと分かる表情だった。なんと説明するべきか迷って、正直に白状することにした。不機嫌な獣の前に誤魔化しは通用しない。
「君の妹に助言をされた」
「妹に?」
「正確には助言じゃないだろうけど、好意的に見ればきっとそういう言葉で表現するべきものだよ」
「何と言われた」
「君が憐れだと」
シルバーアッシュはほんの一瞬だけ黙り込んだ。片眉をわずかに持ち上げる。そしてすぐに「エンヤか」と言う。彼の表情を見るに、妹の言葉に特別ショックを受けたようでもないらしかった。彼らしいと言えばそうだろう。私はその反応に、安堵したのかもしれない。だから口が滑ったのだろうか。
「私も時々、君が憐れな子犬のように見えてくる」
彼が私を見た。その目から感情を読み取ることはできなかった。
「シルバーアッシュ、これは私なりに君を想っての言葉なんだが」
「なんだ」
「君は私に構わない方がいい。その方が君は完成されている。カランド貿易の主としてね」
シルバーアッシュは黙ってこちらを見つめている。その表情は形容し難いものだった。例えるなら、書面の中に不要な黒点を一つ見つけた時のようだった。快か不快かで言ったらおそらく後者だろう。それだけは分かる。
「クーリエもマッターホルンも、本当はそう思ってるんじゃないのか?子犬みたいに私に付きまとうのをやめた方が、君のイメージにふさわしいよ」
ほとんど思いつくままにそう言った。口にすればするほど、それが事実であるかのように目の前に迫ってくる。しかし、この助言は彼に響かなかったようだ。
「馬鹿らしいな」
シルバーアッシュは俯き、前髪をかき上げた。伏せられた目元の、長いまつ毛に自然と目が吸い寄せられる。次に顔を上げた時の彼の目は、やはり私のことをじっと見つめていた。真正面から、視線を逸らす気配など少しも感じさせず。
「それとも、それもお前の計略のうちか?」
「計略って?」
「散々体を許して私を舞い上がらせた後に、最初から捨てる算段だったということだ。私がみっともなく縋りついてくる姿を見たくてそうしたのか?まさか、お前を信奉しているオペレーターは数多くいるが、他の男にもお前はこういうことをしてきたのか?」
「してないよ」
そう答えた。何かしらの企みがあって、彼に体を許してわけではなかった。それだけは事実だった。
多分、嬉しかったからだろう。彼に求められたものを差し出して、喜んでもらえるのが。誰かを見返りなしに助けて、お礼を言ってもらえることを心地よいと思うことの、延長線上にそれはあったと思う。彼に望まれた分だけ、手も口も貸していた。請われるがままに下品な言葉を口にしたこともあった。喜ばれるのが嬉しかったから。
けれど、それはシルバーアッシュが望む関係に果たして合致しているのだろうか?そんなことを、私は以前からたびたび考えはしていた。
「今さらお前を手放す気は無い」
「そう」
「もしお前から強制的に接触を絶たれるようなことがあれば、私はありとあらゆる手段を使ってお前との関係を周囲に言いふらし、証明するだろうな」
「証明って……」
自分は少し呆れてしまった。けれどその一方で、目の前の男に対する愛おしさも、同時にこみあげてきているのが分かった。彼の頬に手を伸ばす。柔らかな髪と一緒に手のひらで撫でた。彼が心地良さそうに目を細める。そのまま彼の後頭部にまで手を這わすと、熱く湿った頭皮の感触がした。さっきまでしていた「運動」のせいで、うすく汗ばんでいるのだろう。
彼が手招かれるように、こちらへ身を寄せてくる。体格差があるせいで、その影にすっぽり覆われた。視界が一気に暗くなる。
「友達に戻りたいって思ったこと、ある?」
「ない」
彼は短くそう答えた。思わず笑ってしまいそうになる。彼にしては珍しい、突っぱねるようなその返答が、まるで意地を張る子供のものみたいに聞こえたから。
彼の胸に頭を押しつける形になる。汗の匂いがした。それと一緒に、香水のような匂いも感じられる。ひどく濃厚で、肺まで甘やかに濡らしていくような匂い。
「これ、香水?」
「ああ」
額に口づけられる。前髪越しだったため、唇の感触はひどくぼんやりしていた。
「またするの?」
「お前が許してくれるなら」
私は笑って「いいよ」と答えた。いいよ、何回もしよう、と。
胴体まで彼と密着する。何の合図も無しに、お互いの手脚をゆるやかに絡め合った。触れ合った部分から体温が混じり合う。覆い被さってくる影の中で目を閉じた。
「こういうことをしてるのは、本当に君だけだよ」
だから君を相手にするときはできる限り誠実でいたいし、後悔して欲しくもない。それも口にしようとして、けれど言い訳めいて聞こえてしまいそうで、結局口をつぐんだ。しかし彼はそれでも十分だったらしく、お返しのようにまぶたに口づけを落としてくる。薄暗闇の中で「覚えていてくれ」と彼が言った。
「何を?」
「お前を愛した男がどんな形をしているのか」
「あはは」
さっき彼が入り込んできた場所に、また質量のあるものが押し込まれていく。徐々に広げられていく部分から、粘膜をくすぐられているような、ぞわぞわとした感触が這い上がってきた。
あの品の良い口の中のどこに収まっていたのか。そう尋ねたくなるような分厚い舌が鎖骨を愛撫する。咥え込んでいる部分に力を入れれば、それに呼応して熱い息が肌にこぼされた。
多分こういう時──もっとしたいと私がねだるようなことがあれば、彼はひどく浮き足たつのだろうな──と、プラマニクスの言葉を思い出しながら考えた。