口腔

 ヒッ、という掠れた声は、目の前で尻餅をつく男の、歯の隙間から鳴ったようだった。
 男は小太りの中年で、全体的に薄汚れた身なりだった。顔には垢が浮き、髪は脂っぽく顔に張り付いている。それだけでも男の身分を想像できるのだが、それ以上に特徴的だったのが、男の目つきだった。こういう目をした人間を、自分は何度も目にしてきた。そのほとんどが「感染者」と呼ばれる人たちだった。こういった目は、時として刃物を向けるよりも効果的に、人々へ恐怖を抱かせる。ついさっきまでの自分も、そうだった。
 息がかかるほど近くにまで迫った男の瞳。それに覗き込まれた途端、石のように体がこわばるのが分かった。喉元に当てられた刃物の存在に、気づくほどの余裕もなく。
「ちがいねえ」
 男がカビ臭い息を吹きかけながら言う。
「お前、あの、ロドスの……」
 その続きを聞くことは無かった。男の手にした刃物が、横から伸びてきた杖の先で弾かれる。とっさにそれを追いかけようとした男の腹へ、重い蹴りが入れられた。重厚なブーツと長い脚。雪原の上に転がった男が、すぐさま身を起こそうとする。しかし目の前に立ちふさがった男を見て、その戦意は恐怖に取って代わったらしい。雪の上に落ちた刃物を拾いに行くそぶりも見せず、尻餅をついたまま、歯を鳴らして男を見上げていた。
「シルバーアッシュ……」
 彼の背中へ呼びかける。ユキヒョウの耳がぴくりと動いた。けれどそれ以上の反応は無い。あたり一面、まばゆいほどの雪原だ。そこに座り込んだままの男は、あんなに着込んでいてもきっと衣服が濡れて体が冷えてしまうだろう。加害されたばかりだというのに、そんな風に同情してしまうのは、怯え切った表情のせいだろうか。
「どこの手先だ」
 シルバーアッシュが聞く。男は震える唇を何度か開閉する。しかし声は聞こえず、口の端に泡が溜まるばかりだ。シルバーアッシュが男の前に屈みこむ。男が喉奥から悲鳴を上げる。さっきよりも甲高い、壊れた笛のような音で。
「喋れるんじゃないか」
 笑みを含んだ声だった。からかっているような、あやしているような声。今この場で聞くには、あまりにも場違いで、むしろ恐怖を駆り立てるだけの声だ。
 シルバーアッシュの手が男の顔へと伸ばされる。その親指が、男の上唇を押さえる。それ以外の指が、顎の下へ添えられた。何をするんだ、と問いかける暇も与えなかった。
 みし、という音がした。親指を、ほんのわずかに唇へめりこませただけで。さして力を込めたようには見えない。それでも、男の顔があからさまに歪んだ。口を懸命に閉じる。しかしすぐに、こらえ切れなくなったかのように身をよじると、雪の上に何かを吐き出した。血だった。いちごシロップのように赤い、鮮血だ。その中に白いものが一粒だけ混じっている。男の前歯だった。
「痛いか?」
 やさしい声で、シルバーアッシュが尋ねる。子供に言い聞かせるように。男が必死に顔を振って頷く。血の混じった唾液が顎を伝って雪の上に零れていく。
「痛くしているんだ」
 今度は、すくい上げるように片手で男の顎を掴んだ。
「吐け。誰に頼まれた?」
 男は答えない。シルバーアッシュの手に力が込められる。横顎のあたりから、みししりと音が鳴った。男の顔が蒼白になり、汗をかいてずぶぬれになる。口からあふれさせるように血を吐いた。
「う、うっ、ぅ、ぁ、」
 身震いするたびに男が声を漏らす。その震えは痛みのせいというより、恐怖によってもたらされたもののように見えた。血に濡れた歯をまた一本吐き出す。男がシルバーアッシュと目を合わせる。そしてすぐに逸らした。視線を逸らしたまま、男がとある貴族の名前を言う。
「────の、次男だ」
 そう言い残して、男は地面に倒れこんだ。雪を踏みしめる音が背後から聞こえる。振り返ると、クーリエがそこに立っていた。いつものにこやかな表情を浮かべて。縄と、ずた袋のようなものを持っている。
「旦那様、他に仲間は見当たりませんでした」
「ああ」
 クーリエの視線がこちらに向けられる。彼は笑みを崩さないまま「ドクター、僕によりかかってもいいですよ」と言う。どうしてそんなことを?そう考えて、自分で思うよりもずっと、憔悴した顔をしているのだろうと気づいた。白衣の中も、いつの間にかじっとりと汗ばんでいる。
「いや、いいよ……」
 そう答えて、彼の手にしている袋に目が引き寄せられる。
「……あの男は死んだのかい」
「え?」
 支離滅裂な質問だっただろう。実際、自分は少し動揺していたように思う。ただ、クーリエの手にしていた袋が、いかにも死体を入れて運ぶためのものに見えて、思わずそう聞いてしまったのだ。
「いえ、まだ生きていると思いますよ。数時間後には、どうなってるか分かりませんけど」
 そう答えるクーリエの声は、平坦で、落ち着いていた。それを聞いて、平静を取り戻しつつある自分を実感する。そうだ、さして珍しいことではない。クーリエにとっては慣れたことだろうし、そして自分自身も、「こういうやり取り」をよく目にする側の人間なのだ。
「すみません。寒いでしょう。先に屋敷に戻っていてください」
 屋敷の使用人が、促すようにそばに駆け寄ってくる。自分はそれに従った。それから数分後、シルバーアッシュはようやく屋敷の中に戻ったらしい。それまでの間、耳を澄ませて外の様子をうかがっていた。けれど、悲鳴が聞こえるようなことはなく、雪が降り積もる気配だけが感じられた。
 
「不運でしたねえ」
 クーリエが慰めるように言う。屋敷に戻って、自分はしばらく客間で待つことになった。その間の話し相手をクーリエがしてくれたのだ。シルバーアッシュは同席していなかった。
「まさか、観光に行こうとした矢先にこうなるなんて……僕たちの不注意でもあります。申し訳ありません、ドクター」
 そう、カランドの冬の湖が絶景だと聞いて、これから車で向かおうとしている時のことだった。使用人たちが出発の準備をしている中、ぼんやりと雪景色を見ていたところに、これである。正直なところ、あの男は手先としては二流なのだろう。屋敷を出てすぐの、標的の味方がすぐに駆け付けるだろう場所で犯行に及んだなんて。もしくは、状況を選んでいられないほどに追い詰められていたのか。
「君のせいじゃないよ」
 それは本心からの言葉だった。
「それに、カランドには、また来るつもりだからね。その時に見ればいい。来年の冬でも、今年のうちにまた来てもいいし……」
 そう返すと、クーリエは慈しむような表情を浮かべて「それ、シルバーアッシュ様にも言ってあげてください」と言った。

 クーリエが部屋を出て行って、それと入れ違いに、シルバーアッシュがやって来た。こちらを見て、少し笑みを浮かべたようだった。
「待たせたな」
「ううん」
 首を振って、その後に「いいのかい」と尋ねた。あの、貴族に遣わされた男のことだ。
「今、ヴァイスが相手をしている」
 相手。その言葉に込められた含みについて、想像するべきか考えていると、不意に手を取られた。一回り以上大きな手。まるでお姫様にするように、手をすくい取られる。そして、手の甲に乾いた唇が押し当てられた。
「無事でよかった」
 灰色の目が、やや上目遣いにこちらを見る。挑発しているようで、けれどどこか怖がっているような視線。皮膚の下で、ぞわりと神経が粟立つ。初めて見る表情だった。
「……なに?」
「お前に、怯えられたのかと思ってな」
「私が?」
「違うのか」
 先ほどのことを思い出す。雪原に散った鮮血と、ためらいなく拷問めいたことをしたシルバーアッシュの姿。クーリエの「寄りかかってもいいですよ」という言葉。自分は、あれより凄惨な場面をロドスでいくつも目にしてきた。眉一つ動かさず眺めていたこともある。それなのに、あの時自分が動揺したのは、眼の前で繰り広げられた暴力についてではなく、それをしたシルバーアッシュそのものに怯えたのだろうと、そう勘違いされても仕方が無いだろう。
「違うよ」
「ほう?」
「確かに、最初は君が怖くなったのかもしれないと思ったけど……」
 そう言って、彼の手から指を引き抜く。引き止められることもなく、指はするりと抜けていった。それを眺めるシルバーアッシュの目が、ひどく名残惜しそうに見えるのはきっと気のせいではない。けど、と言おうとした声が掠れる。
「多分、興奮したんだ、君の姿に」
「……」
「ぞくぞくしたよ……」
 血の飛び散った雪原。男を見下ろす彼の後ろ姿。ああいった刺客は今まで何度も見てきただろう彼が、明らかに合理的ではない手段を以って、その場で詰問した。シルバーアッシュ家の当主は、いつだって理性的で聡明であった。ただ、ほんの一時だけ、倫理を忘れた獣のようになる。ある一人の男に関する全ての物事において。
 ふふ、とシルバーアッシュが笑った。
「顔を見せてはくれないか」
 求められるままに、フードを脱いだ。手袋を外した彼の両手が頬を包み込む。彼の指は長く、美しい造形をしているけれど、触れてみると皮膚が固く、ほんの少しだけ乾燥している。親指が、目元や頬を撫でていく。くすぐったさに目を伏せた。不意に、顔に影が落ちたかと思うと、息がかかるほど近くにまで、シルバーアッシュが身を寄せていた。
「……」
 目を閉じる。唇が重ねられた。最初はついばむような口づけで。その後に、ゆるやかな速度で彼の舌先がもぐりこんできた。こちらも舌を差し出す。繋がった部分のごく浅いところで、互いの舌を絡め合う。くち、と唾液が混ざり合う音がした。
「……ふ」
 顔が離れる。透明な細い糸が、一本だけ二人の間に垂れていた。彼と見つめ合う。わずかに青みがかった、灰色の瞳。彼の熱が、その瞳の中に溶けだしていると分かる。この男がこういう目をするのは大抵、寝室の中だけであった。頬を包んでいた両手が離れる。
「……あの男の相手をしてくる」
「痛めつけるのかい」
「ああ」
「今、クーリエがしているところじゃないのか」
「……ヴァイスは十分な成果を出すだろう。ただ、私の気が収まらないだけだ」
「そう」
 シルバーアッシュが身を離す。すると、ある一点に目が吸い寄せられた。そこを見つめたまま、彼に言う。
「してあげようか」
 スラックスの布地が押し上げられている。いかにも窮屈そうに。
「頼めるか」
 うん、と答えようとしたところで、口の中に指を押し込まれた。
「う」
 二本の指につままれて、舌先が外に引っ張り出される。そのまま、弾力を楽しむように指の間で擦り合わされた。
「ここでしてくれ」
「ん」
 後頭部が手のひらに包み込まれる。乾いた手だ、と思いながら目の前のジッパーを下におろした。

 酸欠のように頭がくらくらする。激しく頭を動かしたせいと、頬張っていてうまく息ができないからだ。青臭い匂いが鼻に抜けていく。口の中に出されたものを飲み込もうとすると、頭上からの声に待ったをかけられた。
「まだ飲み込むな」
 その言葉と共に、ゆっくりと時間をかけて口から引き抜かれていく。表面に浮かんだ血管の凹凸まで分からせるみたいに。彼の指が唇をなぞる。
「見せてくれ」
「んぁ」
 上を向いて口を開けた。空気が口内に流れ込み、生臭い風味がより強調される。こちらを見下ろす彼と目が合う。ぞくぞくするような視線だった。また指が口内に差し込まれる。親指が舌の上に置かれて、そこに絡みついたものを塗り広げていく。
「もっと口いっぱいに塗り込め」
 へんたい、と声には出さずに言った。口を閉じて、彼の望むとおりに口内でぐちゅぐちゅとかき混ぜる。舌の上はもちろん、歯茎の裏にまで舌先で伸ばしていった。頃合いを見てもう一度口を開ける。シルバーアッシュが覗き込む。
「いいぞ。飲み込んでくれ」
 ようやく許可が下りたものの、口の中いっぱいに塗り広げた状態ではいくら嚥下しても風味が残り続けてしまう。うええ、となっていると頭上から楽しげな声が降ってくる。
「お前がロドスで働いている間中、ずっと口の中に溜めさせるのもいいな。フードとマスクを着けていれば、見た目からじゃ分からないだろう?」
「誰かに話しかけられたらどうするのさ」
「風邪気味で声が出ないことにすればいい」
 馬鹿馬鹿しい。たとえ冗談だとしてもぞっとする。マスクをしてフードをかぶって、バリウムよりまずいこれを口に入れたまま執務をこなす自分の姿を想像する。おそらくその背後で、シルバーアッシュがにやにやしながらこちらを観察しているのだろう。
「へんたい」
 今度はちゃんと声に出して言った。唇を手の甲で拭う。
「君は、私が絡むと途端におかしくなる」
「お前がそうさせたんだ」
 まっすぐに目を見て言われて、ぞわりと胸が騒いだ。皮膚の下に張り巡らされた神経を、やわらかな羽根でくすぐられたかのように。こんな風に、直接的な物言いで好意を伝えられるのは苦手だった。追い詰められているように感じる。責任はお前にある、と言われてるようにも。時々、彼の振る舞いは、広義では暴力に当てはまるのではないかと思う。好意というオブラートに包んだそれで、相手の口を塞ぎ殴りかかるのだ。もちろん、彼から実際に口を塞がれたことも殴られたこともない。いや、ついさっき塞がれたというか、口に咥えてはいたが。
「部屋に戻っているといい」
 頬を撫でながらシルバーアッシュが言う。
「バター茶が飲みたい」
「使用人に言っておこう」
「部屋に戻ったら、歯を磨いてそれを飲む。口の中がまずい」
 それを聞いた途端、吐息をこぼすように彼が笑った。こんな風に朗らかに笑う彼を、ここの使用人たちは見たことがあるのだろうか。
「いいのか?予行練習しておかなくて」
「なんだそれ」
 もう一度唇を拭う。口の中いっぱいに、彼が出したものの味がする。バリウムよりも美味しくない。私はこれを、彼に与えられた罰のように感じる。もしくは、この関係を証明するものとして、突き付けられているもののように。