生白い素足だ。
ベッドの上で上体を起こし、眠る友人を見下ろしながら、シルバーアッシュはそう思った。
シーツの上に、白い足が投げ出されている。すぐ隣で眠るドクターのものだ。どこか官能の匂いをさせている両足が、ガウンの裾から無防備に伸びている。肌が、彫像のように白い。うす青い血管が透けて見える分、彫像よりも白く透き通っているかもしれなかった。
信仰。彼の素足を目にするたびに、シルバーアッシュの頭に思い浮かぶのはその言葉だった。この肌を構成しているのは、たんぱく質・水分・その他ではなく、誰かの祈りや崇拝であるかのように感じられるのだ。そしてこの発想は、あながち間違いでもないのだろうと思う。
不意に、その小さな足指が丸められた。赤ん坊がむずがるようにドクターが身じろぎをする。寝返りを打った。白い顔があらわになる。眩しそうに細められた目が、シルバーアッシュを見上げた。
「起こしたか」
「いや……」
ドクターは何かもごもごと言いながら、両手のこぶしで目をこすった。眠気のせいか顔をしかめている。
「……いま何時かな」
「朝四時前だ」
「…………」
「まだ眠っているといい」
ドクターの視線が、ひたとシルバーアッシュに注がれる。無言のまま見つめ合う時間がしばらく続いた。まだ寝ぼけているのか? そう疑問に思った瞬間に、ドクターが口を開いた。
「前から思ってたんだが」
「ああ」
「寝苦しくないのか」
シルバーアッシュが自身の体を見下ろす。ワイシャツにスラックス。確かに、ガウンを着ているドクターと比べると、寝間着としては窮屈そうに見えるだろう。
「これが一番着慣れているんだ。寝る暇も無かった頃の癖でな」
カランド貿易の発展に尽力していた頃、睡眠時間を確保できるのは移動中だけということもざらにあった。屋敷に戻っても三時間眠れたらいい方であり、いちいち着替えるのも面倒だからと、ジャケットを脱いだだけの姿で寝入るのが習慣になっていた。今は流石に仕事用とで分けて着ている。
「……」
ドクターは、聞いているのかいないのか分からない顔で、シルバーアッシュをじっと見つめていた。そしておもむろに、毛布にくるまったままにじり寄ると、彼の腰のあたりに額を押しつけた。そのまま、胎児のような姿勢で身動きをやめる。しばらくすると、寝息が聞こえ始めた。
「────」
シルバーアッシュは、その姿を黙って見下ろしていた。くしゃくしゃに寝乱れた髪や、わずかに見えている白い耳たぶや、閉じられたまぶたに触れたいと思った。しかし、彼を起こしてしまうだろうと配慮するほどの理性はきちんと残っていた。
長期休暇を利用して、ドクターがカランドに滞在し始めてから数日経った。その間、彼がこのようにして自ら添い寝を申し出たことを、シルバーアッシュは内心意外に思っていた。添い寝とはいっても、文字通り寄り添って眠るのみで、それ以上の行為はしていない。
「仲のいい友人同士でお泊り会をしたらね、パジャマパーティをして、寝つくまでお喋りするんだってさ」
ロドスの小さい子たちに教えられたよ、とドクターは言っていた。それが冗談まじりの提案であるのか、その逆であるのかはシルバーアッシュには判断がつかない。しかしどちらにせよ、二人がベッドを共にする仲になれたのは事実だった。
今回の滞在にあたって、護衛オペレーターとしてエンシアやマッターホルンを連れてきてはいるものの、実際は彼らの里帰りも兼ねているようなものである。つまり、今ここにはカランド側の人間しかいない。獣の巣穴に単身で飛び込んだようなものであると、彼は分かっているのだろうか?
シルバーアッシュの目が、ドクターの白い手足を捉える。信仰、という言葉が再び頭の中に浮かんだ。もし今力づくで彼を押し倒したら、もちろん強姦ということになるだろう。それと同時に、彼をカランドに送り出したロドスオペレーターたちの善意と信頼さえ、自分は踏みにじることになるのだろうと考えた。
次にシルバーアッシュが目を覚ました時、あの小さな体は懐から消えていた。ぼんやりした頭でドクターを手探りで探すも、冷えたシーツの感触があるだけだった。
胸が一気に冷えていくような心地がした。意識が覚醒し始める。ベッドの上、床、部屋の片隅を見る。居ない。薄いシャツ越しに、イェラグの冷気が肌に突き刺さる。
すべてが夢の中の出来事だったように思えた。ドクターと共に眠ったことだけでなく、ドクターという存在そのものが、架空のものであったかのように。
彼は呆然と毛布を見下ろした。そしてそのうちに、とある音を耳が拾い上げる。部屋の奥から聞こえる、ささやかなシャワーの音。シルバーアッシュが顔を上げる。その顔には、安堵とも狼狽ともつかぬ表情が浮かんでいた。
この私室には、小さなシャワールームが備えつけられている。屋敷の奥にあるバスタブ付きの浴室とはまた別のものだ。
その手前の脱衣所にシルバーアッシュが入る。抜け殻のように置かれたガウンと、バスルームから漏れる灯りとを彼は交互に見返した。彼は戸の向こう側から、ドクターに声をかけようとした。しかしそれを寸でのところで飲み込んだ。
なにか、悪魔のいたずらめいた衝動が、シルバーアッシュを突き動かしていた。あとから考えると、そうとしか思えない行動だった。たった一時だけ与えられたドクターの体温が、彼を狂わせたのかもしれない。
ノックさえせずに、浴室のドアを開けた。音をたてないように意識しながら。生暖かい湯気が、彼の鼻先を叩いた。湿った空気と、ボディソープの甘い匂い。照明のまばゆさに一瞬だけ目を閉じた。次に彼が目を開ける頃には、こちらに背を向けて立つドクターの姿がはっきりとそこにあった。
白く細い体だった。おおよそシルバーアッシュが想像していた通りの、衣服の上から思い描いていた通りの肉体であった。薄い背中の表面を、やわらかそうな泡が流れ落ちていく。シャンプーを洗い落としている最中らしい。
ドクターが手を動かすたび、肩甲骨の形が浮かび上がる。背中にできたわずかな窪みに、白い泡が一瞬だけ留まり、すぐに腰へと流れていった。泡は絵具のようにして、薄い体のなだらかな凹凸を強調していく。シルバーアッシュはそれを、ドクターの背後に立ち尽くし眺めていた。
シャワーの飛沫が、ほんの少しだけシルバーアッシュに降りかかる。それがシャツにいくつかの模様を作った。彼は衣服を脱いでいない。シャツもスラックスもそのままである。濡れた部分から、彼の肌に張りついていく。浴室の床に下り立った素足もまた、同じように濡れていった。足指に絡みついていくお湯のほとんどは、ドクターの髪や肌を洗い流していったものだろうと彼は思った。
それからどれくらい経っただろう。あらかた髪を洗い終わったドクターが、ふとその動きを止めた。何かを感じ取ったのか、誰もいないはずの背後を振り返った。目が見開かれる。ホラー映画にでも出演できそうな表情だった。口が悲鳴の形を描いて、声が絞り出される。
「エンシオディス!?」
侵入者の姿を前に、ドクターは数歩後ろに下がった。しかしそれ以上のあからさまな行動は起こさなかった。シルバーアッシュをまじまじと見る。頭からつま先まで。次に口を開く頃には、彼は驚くほどに落ち着きを取り戻していた。
「……何しに来た?」
「ここは浴室だ」
「……だから?」
「シャワーを浴びにきた」
沈黙が二人の間に落ちた。シルバーアッシュはそれ以上の弁明をせず、ドクターの顔を眺めた。濡れたまつ毛と、火照りを帯びた肌を。腰から下へは、意識的に視線を向けないようにした。
シルバーアッシュからすると、裸を晒していることに対して、ドクターが少しの羞恥も抱いていなさそうなのが意外といえば意外だった。同性であることを差し引いてもだ。
ただ、今の状況からすると、目の前の男に対する困惑の方が大きいのかもしれない。ドクターは酔っ払いを見るような目でこちらを見ている。
今の自分の姿は、他者からすると不気味でしかないのだろう。シルバーアッシュは頭の隅の妙に冷静な部分でそう考えた。なにせ、192㎝もある男が、無言のまま浴室に侵入して、背後でじっと観察していたのだ。衣服を上下とも身に着けて、それをシャワーで濡らしても少しも気にする素振りを見せずに。そして自分は今おそらく、笑みを浮かべているはずだ。
ドクターは未知の生き物を前にしたかのように、何も言わずシルバーアッシュを見つめている。そして、彼なりに理解の落としどころを見つけたらしい。
「驚かせるなら、もっと笑える方法でしろ」
そう言った後の彼の表情は、この奇行への興味を完全に失ったようだった。髪を絞って水分を抜いている。
「もう上がるのか?」
「誰かさんがシャワーを浴びるらしいからね」
流したままでいいだろう?と了承を得て、ドクターはさっさと脱衣所に消えていった。あとには、床に叩きつけられるシャワーと、シルバーアッシュのみが残された。
しばらくの間、排水溝に絡みつく数本の毛と白い泡を、彼はじっと見下ろしていた。そして、シャワーヘッドの真下へと移動する。頭からお湯を被るかたちになった。
さっきまでとは違い、加速度的に服が水を吸っていく。シャツもスラックスも、鉛のように重みを増して、もはや拘束具のようになっていた。シャワーが服の隙間から潜り込み、長い脚を伝ってスラックスの裾から排水溝へと流れていく。彼がスラックスと下着の中に「吐き出した」ものも、それと一緒に洗い落されているようだった。
シルバーアッシュが口の端を吊り上げる。獣の牙が、照明の灯りを受けて鈍く光った。開いた唇の隙間から、シャワーの湯がわずかに口の中へ流れ込んだようだった。彼は気に留めることもなく、むしろ笑みを浮かべたまま、生ぬるい液体を喉を鳴らして飲み干していった。