ふさわしい相手

「時々考えるんだ」
 ドクターはそんな風に切り出した。
「君にはもっとふさわしい相手がいるんじゃないかとね」
「ほう」
 言葉を返したのは、ドクターの隣に立つシルバーアッシュだった。二人はいま、甲板の隅で並び立ち、空を眺めているところだった。そばにテンジンはいない。ならば、二人揃って甲板にいる意味はないのだが、立ち働くオペレーター達を背後に、何故だかこうして愛撫じみたお喋りに興じていた。
「お前がそのように提案するということは、明確な判断材料があるのだろう?」
「ないよ」
 心地よいほどに早く短い返答だった。
「ないけど、よくそう思うんだ」
 ドクターは首を動かし、夜空を見上げるような姿勢になった。しかし実際は、何かを見上げるためというよりも逡巡のために、自然とそういう動作をすることになったという方が正確だった。
「例えば、ひどく美しい、知性と教養を身につけた女性がどこかにいて、その人はカランド貿易にとって有益になるような家柄や人脈を持っている。プラマニクスにも、クリフハートにも認められる内面をしており、有事の際には君の代わりにカランド貿易を一時的に任せられるほどの信用を部下から勝ち取る能力もある。まるでパズルのピースとして作られたかのように、彼女は君にとって何もかも完璧な存在だ。長い年月をかけて君と彼女との間に子供ができて、それからまた数十年経った頃に、君はその女性と結婚したのは間違いではなかったと確信し、相応の多幸感と平穏を得ることができるんだ。そう。そういうことを、君も想像したことはないかな」
「ないな」
 先ほどのドクターのように、やはり打てば響くようにしてシルバーアッシュが答えた。
「お前の挙げた条件に正しく合致する相手が現れたとしても、お前と相対している時のような感情をその者にも抱くとは限らない」
「お前といる時のようなって、どんな風さ」
「高揚を覚えている。満ち足りた気分にもなるな。お前と共に過ごす以上に、有意義な時間の使い方など無いとも思える」
「はあ、それは……光栄だな」
 こういう時にどう返すべきか分からず、ドクターはただそうとだけ返した。実際、このような言葉を向けられた時、人はどう答えるべきなのだろう?それを知る者がこの世界のどこかにいるだろうか?いるならばどんな風に言葉を返すべきか、今すぐこの場で教えて欲しいとドクターは思った。
「もう一度繰り返すが、私はお前と過ごす以上に有意義な時間の使い方を知らない。そしてそれはお前にとってもそうであって欲しいと思っている。もしお前が他の者に、同じような感慨を抱き、私と過ごすよりもその何者かと居ることを優先するようなことがあったとすれば、私はその人間の額に穴を開けたいと思うだろう。お前との信頼関係のために言っておくが、そう思ったとしても私は決して実行しない」
「そう。そうであって欲しいよ」
「私自身を、誰よりも理解し、尊重できる者はお前しかいないと思っている。価値観の相違はいくらかあるだろうが、私の口にしたことを、一切取りこぼすことなく、全てを分かち合うことができるのはお前だけだ」
「うん」
「それで、お前自身はどうだ、盟友。私のことをどう思っている?」
「随分、真正面から聞いてくるね」
「最初に話を始めたのはお前の方だ。こういう流れになることを、お前も分かっていて切り出したのかと思っていたが」
「違うと言ったら、君の質問に答える義務を放棄できる?」
「いいや?」
 おそらく今、シルバーアッシュは器用に片眉だけ持ち上げてみせたのだろうなとドクターは考えた。そしてそう思うのと同時に、今我々が向かい合わず並び立って会話をしているのは、お互い冷静な思考を保つためであるかもしれないと思った。
「ああ、それで、君は何を聞きたいんだっけ……」
「私はお前のことを、全てを分かち合うことができる相手だと思っている。お前にとっての私もそうであるか、と聞いたんだ」
「そう。そうだったね……」
 ドクターはそう返した後、数秒ほど黙り込んだ。近くで立ち働いているオペレーターが、助け舟を出してくれはしないだろうかと願ったのだが、その瞬間は訪れそうになかった。仕事に夢中で二人のことなど気にかけていないのかもしれないし、分かっていて遠巻きにしているのかもしれない。
「ドクター」
 と珍しくシルバーアッシュが返事を急かした。ドクターはため息ともつかぬほどの吐息をこぼした。そうして、こう返事をした。
「私もそう思ってるよ」
 シルバーアッシュが、音も無くこちらを向く気配がした。ドクターもそれに倣った。しかし、真正面から見つめ合うというよりも、やや俯きがちに、フェイスシールド越しに上目遣いに見るようにしてだったが。
「でも、それは君以外にも同じことを思っている」
 そう言い放った後、ドクターは正しく体ごとシルバーアッシュに向き直った。
「この人となら全てを分かち合うことができる。私は他人に対して、そういう期待を抱くことが何度もあるよ。アドナキエルにも、パフューマーにも、12Fにも、グラベルにも、エクシアにも、私は同じことを考えて、その一方でそれは思い違いなのかもしれないと考え直したりもする。勿論、アーミヤに対しても、ケルシーに対してもだ」
 そしてその中の一人に、君も含まれている。ただそれだけのことだ。本当にそれだけだ。ドクターはそう続けた。それでもまだ足りないとでも言うように、こうも付け加える。
「けれど、そんな風にして私に期待を寄せてくれたのは嬉しいよ、シルバーアッシュ。そう、これは期待だよ。君は私に期待しているんだ。それは君の美徳とも言える寛容さから来ているんだろう」
 ドクターは、目の前のシルバーアッシュの表情がどのように変わるのか、どのような反応を示すのかをつぶさに観察しようとした。恐ろしいほどに整った顔の中で、形の良い眉がわずかに寄せられる。しかしそれ以上の変化を示す前に、彼はおもむろに天を仰いだ。ほとんどの一般前衛オペレーターより背の低いドクターにとって、そうされると表情を窺い知るのは不可能だった。
 三秒にも満たないほどの時間、カランドの主はそうしていた。そして、再度ドクターに向き直った時、氷のベールを一枚被ったかのような表情をしていた。つまりそれは、普段カランドやロドスで目にするような、彼の個人的な感情が微塵も表に表れていない表情の作り方だった。
「強情だな」
「そう?」
「お前が……」
 シルバーアッシュはほんの一瞬だけ言い淀んだ。彼の視線は、ドクターの顔ではなく、彼が目深に被ったフードの数センチ上ほどをぼんやりと見ている。
「お前に選ばれるためなら、お前の人生を破壊しても構わないだろうかと時々考える」
「考えないで欲しいな、そんなこと」
 それから二人は、また数分前のように同じ方向を向いた姿勢で立ち並んだ。二人の周囲には心地よい喧騒がある。立ち働くオペレーター達が発しているものだ。
 不意に、思い出したかのようにシルバーアッシュはこう付け加えた。
「お前とこうやって戯れるのも、悪くないと思っている」
「そう。私も、そう思ってるよ」