深夜二時。
家族に気づかれないよう、家を出るのに苦労した。
玄関の扉を閉めた瞬間、軋んだ音が僅かに響いて、両親が起きだしやしないかとしばらく扉の前でビクビクしていた。
俺はこわごわと、できるだけ音を立てないようにして、近所の公園まで向かい始めた。
外は、当たり前のように暗い。そのうえ、怖いほど静かだ。時おり強い風が吹いて、木々がざわめくくらいのものである。人の囁く声も、自転車のブレーキ音も、何も無い。
視界の中で静止している、建物やポスト、電柱、そこに貼られた動物病院の広告。それらが全て、今初めて目にしたもののように思える。
こういう時間があることを、つい最近まで知らなかった。
歩きながら、そう思う。
世界が一変したというほどではないけれど、今まで必死に塗りつぶしてきた画用紙の中で、ふと隅の方にまだ余白があることを突きつけられたかのような気持ちだ。
あの人に関わらなければ、こういう景色を知らずに居たのだろうか?
それが良いことなのか悪いことなのか、判断できるほどの道徳を自分はもう持っていない。
公園に着くと、見慣れた後ろ姿がベンチに座っていた。振り向いた白い顔が、無邪気な笑顔を浮かべる。真っ暗な空と、無人の公園を背景にして、それはどこかちぐはぐに見えた。
「来た来た」
まるで子供みたいに楽しそうな声だ。予想になかった反応に、何か悪いことをしてしまったような、後ろめたい気持ちが胸を突いた。
彼はセーターにトレンチコート、マフラーを身につけた姿だった。コンビニまで行けるくらいの部屋着の上に、軽いジャケットを羽織った格好の自分とは大違いだ。もっとも、彼の方はこの時間までそういう格好をして、仕事だったり用事だったりがあるのは当たり前の生活サイクルなのだろうが。
「これ」
彼はそう言いながら、片手に持った小さな箱を掲げた。夜の中で、光を帯びているかのように冴え冴えと白い。
「4号で良かった?」
「はい。ありがとうございます」
ベンチに並んで座り、二人の間に箱を置いて中を開ける。蓋を開けた瞬間、甘い生クリームの香りが夜気の中に広がった。小さくて白い、慎ましやかな苺のホールケーキが、俺たちの前に現れた。
なんだか玩具みたいだった。小さくて綺麗で可愛らしくて、俺たちには多分似合わない。数時間前、リビングのテーブルで目の前にしたケーキとは、明らかに違う種類のもののように見えた。
チョコプレートの上には、律儀なことに「あきらくん誕生日おめでとう」と書かれている。
「ライター持ってきた?」
「チャッカマンにしました」
「え、なんで」
「ちょうどお墓参りの時に使ったやつが物置にあったので……」
「途中のコンビニとかで買えば良かったのに。家から持ち出すより楽でしょ」
そういえばそうだと思っていると、顔に出ていたのか彼は思い切り吹き出した。
「今時、煙草も吸わない、ライターも買わない息子さんか」
しみじみと、感傷に浸っているような顔で彼が言う。傍目からだと、俳優が映画のワンシーンで決めている姿のようでかっこいい。けれど、こういう時の彼は大抵気持ち良くなっていると知っている自分は、どう反応すればいいか分からなかった。
ガサガサと、ケーキと一緒に付いてきたのだろうろうそくをビニール袋から取り出しながら彼が言う。
「ろうそく、どうせなら年齢に合わせて数字のやつにしたんだけどさ」
「え……それ店員さんに注文したんですか?」
「お誕生日おめでとう」とまでチョコプレートに書かせておいて、二十一歳のためのケーキだと知られたら引かれるだろうか。いや、十二歳用だと勘違いしてくれる可能性もある。
「いやあ、つい君の歳をど忘れしちゃって」
「えっ」
「だから、いちにーさんしーごーろくしちはちきゅーぜろ、の全部買ってきた」
にこやかに言いながら、カラフルな数字の形をしたろうそく達をバラバラとベンチの上に落とす。店員さんは呆れていただろう。
「ああでも、ちゃんとここに来る前に履歴書確認してきたから。二十一歳だよね?」
「はい……」
ちょっと困惑しながら、俺はケーキに立てた2と1のろうそくに火をつけた。青い炎の色。燃える匂い。今この瞬間が非日常的すぎて、頭の奥が痺れていくような感じがする。
俺たちはしばらくの間、火のついたろうそくと、その下のケーキを黙って眺め続けた。
誕生日を祝いたいと言った彼に、当日の昼は大学があるし、夜は家族と過ごす約束だと伝えたら「じゃあ夜中は?」と提案されるとは思ってもいなかった。しかも、どこかのレストランとか店の個室ではなく、野外の公園でやるなんて。
夜の公園は、まるで砂漠みたいに荒涼としている。
露出した足首に触れる夜風は驚くほど冷たい。それに、何だか昼間と空気が違う。昼よりもずっと、清潔で、草木と土の匂いが濃い。その中に、今だけ生クリームの匂いが紛れている。
グロテスクだ、と思った。
どこがと聞かれたらうまく答えられないけど、夜の中で冴え冴えと光るケーキも、溶けていくカラフルなろうそく達も、こうやって顔を突き合わせている俺たちの関係も。全部、不気味で、非道徳的に思えた。
「誕生日おめでとう」
不意に囁かれた言葉に、思わず顔を上げる。見ると、よそ行きの笑顔でにっこりと笑う彼が、こちらを見つめていた。
「まだ、言ってなかったと思って」
「……ありがとうございます」
俺は多分、ちゃんと笑えていたと思う。
「ねえ、もし俺の誕生日を祝う時はさ、君がケーキを用意してくれる?」
「はい、是非そうさせて下さい」
そう答えた後で、プレートに書く名前はどうしようかと考える。フィガロという名前を教えられてはいるけれど、本人からは「源氏名だよ」と揶揄われつつ聞いた名前なので、信憑性は薄い。
「あの、名前はフィガロでいいんですか?チョコに書いてもらうのは」
こんな時に聞いていいんだろうかと思いつつ、口にしてしまった。フィガロは「うーん」とどこかわざとらしく悩んでみせた後、にっこりと笑ってこう言った。
「その時は『俺の愛する人へ』って書いてくれたら嬉しいな」
この後、二人ともフォークを用意してなかったことに気がついて、慌ててコンビニで調達してくる羽目になった。
ついでに、「社会勉強だよ」という彼の提案によって、俺はライターも一緒に買ったのだった。