何もかもが平和になった後、ドクターは前にもまして眠るようになった。
一日の半分以上の時間を、ベッドの中でまどろむことに費やしている。医者が言うには、肉体的にも精神的にも、何ら問題は無いらしい。石棺から出されてすぐ、あのように苛烈な日々を送って来たのだ。自分の役目はようやく終わった、という安堵から、こうなったとしても無理はないだろう。シルバーアッシュはそう結論づけた。
だからこそ彼は、ドクターの好きなようにさせた。彼は既にロドスを離れて、イェラグへの永住を約束し、シルバーアッシュの屋敷で暮らす日々を送っている。焦る必要はない、とシルバーアッシュは考えた。いつでも手の触れられる距離にドクターがいる。それは数か月前のシルバーアッシュにとって、まるで奇跡のような状況だった。
深夜、仕事から帰宅した彼が寝室へと向かう。電気は落とされており、先客など居ないのではないかと思わせる静けさをしていたが、ベッドの縁からだらりと垂れる、白い腕を彼の目は捉えていた。
少女めいた細い腕だ。ただ、病的な白さが、その華奢な腕に奇妙な妖艶さを与えている。サイドテーブルには、ガラス製のティーポッドが置かれていた。中を満たしているのは紅茶だ。おそらく、世話を任されているメイドが置いていったのだろう。目を凝らすと、クッキーが数枚添えられているのが分かる。まともに食事を摂りたがらない、彼への苦肉の策なのかもしれない。
ふいに、赤子がむずがるようにして、毛布の塊がわずかに揺れた。何度か身をよじった後、小さな頭が暗闇の奥から這い出てくる。色の薄い目と、視線が絡み合った。
「起こしたか」
「ううん」
ドクターが首を振る。毛布を口元まで引っ張りあげると、気だるげな動作で枕に頭を埋め直した。シルバーアッシュは身に着けていたものをクローゼットへとしまい込む。会話も含めたこの一連の流れは、ほとんど習慣のように二人の生活に組み込まれていた。
「君の夢を見たよ」
毛布越しに、ほとんど眠りかけている声でドクターが言う。「そうか」とだけシルバーアッシュは返した。お前に忘れられていないのはありがたいな、とまで言おうとして、それを飲み込む。彼を責めたいわけではない、と自分自身に言い聞かせた。ただ、喉の渇きにも似たこの飢えが、どんな感情から来るものなのか、彼は自分でも分からずにいたのだ。
ベッドの脇に立ち、ドクターを見下ろす。目をつむって口を薄く開けながら寝ていた。その唇が、薄闇の中でやけにみずみずしく見えた。潤んで、やわらかそうに光る肉塊。シルバーアッシュはほとんど無意識のうちに、指先でその唇に触れていた。さして何かしようという意思はなかった。しかし触れた途端に、淡く指を咥えられた。唾液をまとった舌が、ぬくい口内で絡みついてくる。気の遠くなるような、恍惚とした何かをシルバーアッシュは感じた。
君の夢を見た、というドクターの言葉について、実は嘘ではないかとシルバーアッシュは考えていた。よく口にされるその台詞に、赦しを得たような気持ちになっていたのははるか昔のことだ。
嘘と言っても、糾弾するべきものではないのかもしれない。シルバーアッシュを喜ばせるためについた、可愛らしい戯言の可能性もある。もしくは、まどろむばかりの毎日を送っている彼が、どうにか絞りだした会話の糸口がそれであるとか。
そうやって落としどころを見つけようとしながらも、彼の頭は良くないことばかり考え始める。誰かの夢を見ていたのは、きっと間違いないのだろう。ただそれは、自分以外の誰かであるように彼には思えた。誰か、というものの具体的に思い浮かぶわけではない。ロドスを訪問した時に目にした、何人かの男たちの顔が空想の中でぼんやりとなぞられていく。美しい顔をした男が、やけに多かった。
シルバーアッシュの頭の中で、曖昧な輪郭をした一人の男が、ドクターに覆いかぶさっている。自分と同じくらい屈強な体をしていた。その体に、白い腕が巻きついている。絡み合った二人が動き始める。それに伴って、周囲の光景が徐々に鮮明になっていくのだ。いつの間にか、その二人がいる場所が見慣れた寝室のベッドの上になる。シルバーアッシュは、すぐそばに立ってそれを見下ろしていた。手に刃物を持った姿で。
深夜、シルバーアッシュは目を覚ました。毛布の心地よい重みが、彼の体にかかっている。こうして夜中に起きた時の癖で、彼は横たわったまま手を伸ばし、ベッドの中をまさぐった。普段なら、数秒もしないうちに華奢な体が彼の腕の中に収まるはずだった。しかし、指先に触れるのは冷えたシーツの感触だけだ。不思議に思い、目を開ける。彼は久しぶりに、声を上げそうなほどに驚いた。
ベッド脇に、ドクターが立っていた。無表情のまま、シルバーアッシュを見下ろしている。俯く形になっているせいか、その顔に影がかかっているのが余計に不気味だった。とっさに、ドクターの手元へ視線を走らせる。夢の中の自分のように、刃物を持っているのではないかと思ったからだ。実際には、ただの杞憂であったのだが。
「どうした」
先に口を開いたのはシルバーアッシュの方からだった。それに対しドクターは、拍子抜けするほどに他意のない声で答えた。
「せっかく目が覚めたから」
「ああ」
「君と同じ気持ちになってみようかと思って」
「……」
それが、シルバーアッシュが仕事から帰宅した時の、二人のやり取りのことを言っているのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「君の夢を見たといつも言ってたけど」
脈絡もなくドクターがそう口にしたために、シルバーアッシュは怯えにも似た感情を一瞬抱いた。頭の中を見透かされたのではないかと思ったのだ。その思考を、読み取っているのかいないのか分からない声音で、ドクターは続ける。
「あれは嘘だった」
「……」
「夢の内容なんて起きたらすぐに忘れてるから」
「……」
「でも、君の夢を見てたような気がしたのは本当だから」
特に目が覚めてすぐ、君の姿を見た時は。ドクターがそう付け加えるのを、頭の片隅で捉えながら、シルバーアッシュは目の前にある白い手足を見つめていた。これは都合の良い夢ではないかと思ったからだ。しかし視界に映る、うす青い静脈の透けた腕が、現実であると生々しく伝えている。シルバーアッシュは返事をしなかった。代わりに、毛布をめくって「冷えるだろう」とドクターを手招いた。
「うん」
そう言って素直にもぐりこんでくる様子は、飼い主の懐にすべりこむ子猫の姿を想起させた。細い体はやはり冷えていて、腕の中に抱き寄せるとそれが余計に感じられた。冷風を抱いているような心地だったのが、徐々に暖かくなっていくのが分かる。毛布の中で、薄い耳たぶを探り当てたシルバーアッシュは、そこに唇を寄せてこう囁いた。
「お前がさっき言っていたことだが」
「うん?」
「私の夢であればいいと、お前自身そう思っていたんじゃないのか」
ドクターはしばらく考えこんで、「そうかも」と子供のように肯定した。ふたりの会話はそれで途絶えた。小さな寝息が聞こえてきたのは、それから数分後のことだった。
シルバーアッシュは、この小さな肉体を長いこと腕に抱いていなかったような気がした。昨夜もその前も、こうやって抱き寄せながら眠っていたはずなのに。