寝台の上

「ねえ賢者様、今日だけ俺が添い寝してあげようか」

 普段通り、こちらをからかうような口調で言われたその言葉に、賢者は少し逡巡した。いつもであれば、フィガロのからかい癖がまた始まったと流せていたのだろうが、今日だけは少し違っていた。
 昼間の、ヴィンセントとの問答。その時に感じた重圧と、張り詰めた空気。もっとうまくやれたんじゃないかという後悔。それらが今も尚、賢者の頭から離れずにいた。手足の先が重く、頭の中はぼんやりと痺れてうまく思考が回らない。疲れているのだ、と賢者は自覚していたが、だからといって気分転換できる気分でもなかった。そこに、冒頭の誘いをフィガロから受けた。痺れていた頭の中に、その声はじわりと溶けていくかのように感じられた。
「……お願いしてもいいですか。その、フィガロが良ければ」
 賢者がまごつきながらそう言うと、フィガロは微笑を崩さないまま「うん、じゃあ、待ってるね」と囁くようにそう返した。

 約束通り、賢者は夜、フィガロの部屋を訪れた。紺色の布地に、小さな猫の柄がたくさん散っているパジャマを身につけて。手には賢者の書を持っていた。もしうまく寝付けなかった時のために、手持ち無沙汰だと何となく気まずいだろうと思って。
「お邪魔します」
 部屋に足を踏み入れてお行儀よく頭を下げる。招き入れたフィガロはさっさとベッドに腰掛けると「そんなにかしこまらなくたっていいよ」と笑った。
「ほら、おいで」
 フィガロが自分の隣をぽんぽんと叩く。賢者は何となく気恥ずかしい気持ちで、のそのそとベッドへ向かった。まるで自分が小さな子供になってしまったかのような気分だった。フィガロのすぐ目の前まで来て、彼の隣に腰を下ろそうとした瞬間、伸びてきた手にひょいと体を抱えられた。
「わ……っ」
 突然の浮遊感に思わず目を瞑り、気がつくとフィガロの脚の間に座らせられていた。肩を抱かれ、フィガロの胸に頬を押しつける姿勢になる。薄い寝巻き越しに、彼の体温が伝わってくる。賢者は狼狽えた。手を繋いだりするならまだしも、こんな風に密着して、誰かに抱きしめられることが、ここ最近なかったから。
「フィガロ、あの、これは……」
「嫌?」
「いえ、嫌じゃ、ないですけど」
「じゃあこのままで良いってことだ」
 でも、と言いかけながら賢者が顔を上げようとする。けれど、フィガロの手に頭を包み込まれて、また胸に顔を埋めることになった。
「賢者様、今から少し、何も喋らずにいようか」
 喋るのも考えるのも、意外と頭を使うからね、とフィガロが言う。
「俺が何か話しかけても、無理して返事をしなくていいから」
 賢者は何かを言いかけて、しかし彼の言う通り口をつぐんで黙り込んだ。この部屋を訪れる前に、考えていたことが思い出される。ベッドに入ったら、フィガロとどんなお喋りをしたらいいんだろうか。うまく眠れなくて、気まずくなっちゃうんじゃないだろうか、とか。そういう心配事が全て、「気にしなくていいんだよ」とフィガロに言ってもらえたような気がした。何も言わず大人しくじっとしている賢者に、フィガロが優しく頭を撫でる。
「いい子だ」
 賢者は、先ほどまで手の中にあった賢者の書がどこかに行ってしまったのに気がついた。見ると、視界の端で賢者の書がふわふわと浮いている。それはしばらく宙を漂っていたかと思うと、音もなくサイドテーブルに着地した。賢者は何故か、重荷から解放されたような気持ちになった。
「目を閉じてていいよ。可愛い子」
 フィガロの手が肩をさする。小さな子にするみたいに。小さくて、怖がりで、傷つきやすい子を相手にしているような。
「自分を責めないでね」
「…………」
「君は頑張ったんだから」
 賢者は目を閉じたまま、フィガロの胸に頭を預け続けた。彼に触れている部分から、体に溜まっていた疲労が、流れ出ていくような気がした。まぶたが重い。頭の芯が痺れて、そこから意識が遠くなっていく。
「大好きだよ、賢者様」
 そう囁かれた瞬間の賢者は、ほとんど眠っているようなものだった。力の抜けた手が、花のように膝の上へ投げ出されていた。

 久しぶりに、長く眠れたように賢者は思えた。目が覚めた時、朝の輝かしい日差しが部屋の隅々まで満たされていた。どうやらフィガロに抱きしめられたまま眠ったらしく、目の前に僅かに寝乱れたパジャマの合わせ目があった。
 賢者は不思議な気持ちだった。自分とフィガロがこんな風に添い寝することになるとは。いやらしい意味ではない。自分達が寝ている間、外では夜が深まり、そして朝が来たのだという事実が少し信じられなかった。フィガロのそばであんな風にすぐに眠れた自分のことも。
 フィガロがこっそり魔法をかけたのだろうか。そこまで考えて、そういう考え方をするのはやめようと賢者は思い直す。昨日のヴィンセントの姿に、自分が重なってしまいそうだから。
 ふと、髪に何かが触れたかと思うと、優しく頭を撫でられた。おそるおそる賢者が顔を上げると、フィガロがこちらを見下ろしていた。穏やかな微笑を浮かべて。たった今目覚めたばかり、という顔ではない。
「お、起きてたんですね……」
「うん、結構前にね」
「……おはようございます」
「おはよう。賢者様」
 フィガロは上体を起こし、くしゃくしゃになった髪に手櫛を入れながら「よく寝たな」と独りごちた。
「ぐっすり寝るのはやっぱりいいね」
「フィガロみたいな魔法使いでも、そんな風に思うんですね」
「うん、特に、君みたいに若くて可愛い子に添い寝されるとね」
「…………」
「あはは」
 不意に、フィガロは一度起こした身を屈めて、賢者に覆いかぶさった。賢者の体が影に包まれる。指先で目元を撫でられて、賢者は少しびっくりした顔で彼を見上げた。
「どう?なんか、感じたりする?」
「え……あ、いっぱい寝たのですごく元気です」
「そうじゃなくてさ、俺のこと意識したりしない?」
「……寝た翌日にそれを聞くんですか……?」
「あっはは!!」
 なんかその言い方、えっちしたみたいだね、とフィガロが言う。勿論そういう意味で言ったわけではないのは二人ともよく理解しているのだが。賢者はひっそり頬を赤くした。寝乱れた髪とくしゃくしゃのパジャマを着た彼がそうしていると、本当に一線超えた翌朝のように見える。
「ひどいなあ、ちょっとは意識してくれてもいいのに」
「すみません……」
「ふふ、いいよ。それにね……」
「?はい」
「今の君に、俺の気配がいっぱいくっついてるだろうから。他の魔法使いがどんな反応するか楽しみだなあ」
「え」
「気分いいよ」
 これから朝食の席に着いた時のことを考えて賢者が狼狽する。フィガロの気配、もしくは魔力をべったり貼り付けた賢者。おそらくミスラなんかは特にしつこく効いてくるだろう。「なんで俺のことは蔑ろにしてフィガロと寝てるんですか」と。
「あの、フィガロ、もし聞かれたらちゃんと説明してくださいね……」
 そう言う賢者に、フィガロはどうしようかなあと言った。賢者の抜けるように白い鎖骨や、少しむくんだ可愛らしい寝起きの顔を眺めながら。