麻痺したような心中で

桜吹雪とは、こういった景色を指すのだろうか。
三月の透き通った青空の下、人気の無い校庭を歩きながら晶はそう思った。桜の花びらが風に吹かれて舞い上がり、校庭の隅々まで満たすように吹き抜けていく。
今頃、生徒達は体育館で卒業式の合唱練習をしているのだろう。その練習をサボっている生徒が居ないか、見回りを任されたために、新任教師である晶はこうして寒空の下を徘徊しているのである。既に校内をあらかた見て回り、気分転換も含めてこうして校庭へとやって来たところだった。
春を迎えたものの、風は未だに冬の名残りを含んでいる。冷えた空気に頬を撫でられて、晶はふるりと肩を揺らしながら逃げるように校舎の陰へと向かった。すると、その影に隠れるようにして、桜の木の根元に座り込んでいる生徒を見つけた。晶は新任教師らしい生真面目さを発揮し、注意するためにその生徒へ駆け寄ろうとする。しかしその途中で、凍りついたように足が止まった。木の幹から覗く、驚くほどに長い手足と、派手な赤色に染められた髪を目にした為だった。
こちらに背を向けて、気怠げに木へもたれかかるその姿は、晶が受け持っているクラスの生徒である__手のつけられないけだものとして有名な__ミスラだった。晶に限らず、殆どの教師はミスラを見かけたとしても声をかけるのを躊躇うだろう。常人には理解できない思考回路をした彼は、なんの前触れもなく相手に殴りかかったり、窓ガラスや机といった備品を壊すといった問題行動を繰り返す生徒だった。母親が多額の寄付を学校へしているために退学は免れているが、教師陣の中で腫れ物扱いされているのは事実である。しかし、晶が今こうしてミスラへの接触をためらうのは、それが理由では無い。
晶は、いつのまにか自身の心臓がバクバクと音を立てている事に気がついた。その場に立ちすくんだまま、胸を押さえ、静かに深呼吸を繰り返す。心を落ち着かせるために目を閉じてみたものの、それは逆にあの日の記憶を呼び起こすことになってしまった。閉じた瞼の裏が、青空を反転させたかのように赤く染まる。晶の頭の中には、夕陽の差し込む空き教室で、ミスラに強姦された時の記憶が鮮明に浮かび上がっていた。
記憶、とは言っても、晶がきちんと覚えているのはその前後のことだけだ。最中の、つまり強姦されている間のことは、ぼんやりとしか思い出せない。ミスラに押し倒された後、晶はただひたすらに目を瞑り、縮こまり身を硬くしていた。迫り来る未知の恐怖と、いずれ与えられるだろう苦痛に身構えるための行動だった。きちんと覚えているのは、口内へ自分以外の唾液が流し込まれる感覚や、太ももに食い込んだミスラの爪の感触といった、端々のものばかりだ。晶の意識が正常に戻ってから初めて感じたのは、顔にかけられた精液の感触だった。あたたかな蜘蛛の巣のように、鼻先や唇に絡みつき、顎にまで垂れていく生臭い液体。あのミスラでさえ、慣らしていない後ろに挿れるのは躊躇したらしく、その代わりに顔射したのだろう。顔がぼんやりと温められ、その反対に意識は奇妙なほどに冷静になり始めていた。ぬるいミスラの指先が、顔に張り付いた精液を次々に拭っていくのを、晶は子供のようにじっと受け入れていた。
瞼の裏が、白く染められていく。目を開けると、ちょうど雲の隙間から微かな日差しが差し込んでいるところだった。
怖いほどに透き通った青空を視界の端に捉えながら、晶は少しずつ、ミスラへと近づいていった。途中で足音に気づいたらしく、ミスラがこちらを振り返った。その顔には、サボりが見つかったことへの後ろめたさなど、欠片も含まれていないような、きょとんとした子供じみた表情が浮かんでいた。どうしてこんな顔を出来るのだろう、と晶は痺れるようにぼんやりとした頭の隅で考える。どうして、あんなことをした相手にこんな顔ができるのだろう。土埃を払いながら立ち上がったミスラは、奇妙なほどに無垢な顔でこう言った。
「会いに来てくれたんですか」
緑色の目が、じっと晶を見下ろす。きっとミスラの頭の中には、注意されるとか叱られるといった発想は微塵も無いのだろう。晶は諦観にも似たやるせなさが胸に満ちるのを感じた。「集会をサボったらだめですよ」と言ったものの「晶だって抜け出してるじゃないですか」と返され、晶は指導を諦めた。
一際強い風が吹いたかと思うと、横殴りの雪のように桜が一気に散り始める。晶は冷えた花びらが頬や袖口に張り付くのを感じながら、これからミスラを体育館へ連れ戻すべきか、それとも生徒指導室にでも連れて行くべきかを悩んだ。そのせいか、顔へ伸ばされた指先にすぐ気がつけなかった。
「桜」
そう口にして、ミスラは指先で晶の頬を拭った。一瞬にして、晶の体が強張る。乾いた指先の感触の後、肌から何かが剥がされるのを感じた。それは確かに桜の花びらだったのだろうが、晶の体は反射的にミスラの手首を掴んでいた。
ミスラの手が、力づくで晶の頬から引き離される。たった一瞬、痛いほどの沈黙が二人の間に落ちて、晶は一気に冷や汗が噴き出すのを感じた。しかし、ミスラは意に介さなかったらしい。何事もなかったかのように晶の手を解くと、その手を掬い上げるように掴んだ。
「俺、好きですよ。あなたの手」
のんびりと、まるで日向で欠伸をする猫のようにミスラは言った。氷のような指が、晶の爪をなぞる。その感触に、晶の心臓が縮み上がった。
「あなたの爪、桜みたいだけど、桜より綺麗です」
ミスラはそう言うと、子供のように笑った。白い顔に、薄赤く染まった頬が本当に綺麗だった。
作り物みたいだ、と晶は思った。それと同時に、これと全く同じ笑顔を浮かべながら、ミスラは俺を犯したのだ、とあの時のことを僅かに思い出した。
後頭部が痺れるように痛み、忘れかけていた記憶が晶の脳裏に浮かび上がる。そういえば、確かにあの時、自分も射精していた。晶の脳みそは、彼の意思を無視して鮮明すぎるほどにあの時の光景を描き出す。薄く埃の積もったマットの上に、自身の吐き出した精液が飛び散っていた。その姿を教え子に、ミスラに見られていることを理解して、晶は確かに興奮していた。
晶は、力なくミスラの手を解いた。風はいよいよ勢いを増して、二人の髪や首筋、指先にまで花びらが張り付いていた。
「……ミスラ、屈んでください」
その言葉に従って、高い背を窮屈そうに屈めたミスラに、晶は両手を伸ばした。温かい指先が、ミスラの目元を拭った。柔らかな花びらが、ミスラの凍えた肌から剥がれ落ちる。晶の手は、そのままミスラの髪に手櫛を通すようにして、少しずつ花びらを落としていった。それに対して、ミスラは頭を撫でられる子供のように、幸福そうに目を閉じてその指先を受け入れ続けた。
「ずっと、こうしていたいです」
のんびりとそう口にするミスラに、晶は何も返さなかった。合唱練習の終わりを告げるチャイムが鳴る。指先に張り付く花びらも、眠るように目を閉じるミスラの顔も、夢みたいに綺麗だった。ミスラに体を暴かれたあの日のことも、全て夢であれば良かったのにと、晶は麻痺したように凪いだ心の中でそう思った。