フィガロって、俺を飼育したいと思ってるんですか?
そんな風に問われたことをフィガロは不意に思い出した。それが見当違いな指摘なのか、それともその通りなのか。自分のことだというのにフィガロはよく分からなかった。
そう尋ねてきた賢者のことを、可愛らしいと思っていたのは確かだった。慈しみたい、優しくしてあげたい、とも思っていた。しかしそれが、飼育したいという欲求をもとにした感情なのかは、正直、判断がつかなかった。
ある秋の昼間、賢者とフィガロはランチバスケットを持って、近くの森へ出かけた。バスケットの中に、手作りのサンドイッチをどっさりと詰めて。ピクニックと呼ぶほどではなく、ただ気分転換に外でご飯を食べようという軽い思いつきだった。
元々は、ミチルやリケも誘っていたようにフィガロは記憶している。自分と賢者の二人が、そんな風に二人きりで出かけるのは、今思うと珍しいことのように思えていたから。そして、だからこそあの時、何かが歪んだような気が彼にはしてした。
魔法でピクニックシートを取り出して、二人でそこに座る。バスケットの中身はハムサンドと卵サンドで、その白とピンクと黄色の色合いが、まるで幸福の象徴のようにフィガロには見えた。
フィガロは食べ進めながら、賢者の顔をこっそり盗み見た。幼さを残した丸い頬が、より膨らんで丸みを増している。両手でサンドイッチを持っているところも、たまらないくらい可愛らしかった。不意に、賢者の前にちょうちょが現れる。彼の視線がそれに奪われた。鼻先にまでちょうちょが迫った時、丸い目がそれにつられてやや寄り目になった。口の動きが完全に止まっている。そのまま眺め続けていると、ちょうちょが離れた瞬間に賢者が視線に気づいた。
「え、あの、フィガロ?」
「ああ、ごめんごめん」
「ずっと見てたんですか?」
「うん。微笑ましいなあって」
それを聞いて、賢者が少し拗ねたような顔をする。
「フィガロ、いつも俺のことみてますよね」
その言葉に、フィガロの肌がぞくりと粟立った。何故かは分からないけれど、隠していた悪いことを暴き立てられたように思えた。
「俺が猫と遊んでる時も、猫ちゃんじゃなくて俺の方を見てるし」
そして、続いたその言葉に安堵する。まだバレてない、と思った。なんのことなのか、自分でもよく分からなかったけれど。
「いいじゃない。変な目で見てるわけじゃないし」
「変な目ってどういう目ですか?」
フィガロは思わず言葉に詰まった。しかし賢者はそれを気に留める様子もなく、水筒からカップにお茶を注いでいる。淡い湯気を立てるカップにふうふうと息を吹きかけて、唇をちょっとつけた後「まだ熱い」と呟いていた。
帰りは、賢者がバスケットを持った。行きと同じようにフィガロが持とうとしたのだが「じゃあ、今度来た時はそうしましょう」と賢者が言った。次もまたあるのか、とフィガロは少し嬉しくなった。
途中、背の高い枝の上をリスが一匹駆けていくのが見えた。リス、と賢者が歓声をあげる。子供のように無邪気な声だった。
「触ってみる?」
フィガロがそう訊ねた。返事を聞くより先に、枝の方へ手を伸ばす。
「おいで」
リスがぴたりと立ち止まった。そして、フィガロの手の中に大人しく降りてくる。しかしそれは自発的にそうしたというよりも、命じられてそれに従ったというような動きだった。
「はい」
フィガロがリスを賢者に差し出す。手のひらの上で、お人形のように身を固くしている一匹のリス。賢者は少し目を丸くして、ほんの数秒それをじっと見つめた。
「……すみません。緊張してるみたいなので、俺はいいです」
「……そう?」
急に気が削がれた気がして、フィガロは手の上にリスを載せたまま、その手を不意に握った。握り潰される直前に、硬直の解けたリスが飛び退く。指の間をすり抜けていく尻尾の感触。
「君ってリスに似てるよね」
「え?」
賢者の目がフィガロに向けられる。さっきまで、何故か痛ましそうな目で手の中のリスを見ていた目が。その黒目がちな瞳に、やっぱり似てるなあとフィガロは思った。こちらを一心に見上げる目も、両手で食べ物を持って頬張るところも。
「君も魔法で手のひらサイズにしちゃおうかな。そうしたらポケットに入れておけるし、いつでも取り出して可愛がったりできるから」
「あはは……」
賢者が困ったように笑う。
「でも、俺がリスくらいの大きさだと、こうやってバスケットを持つのもできませんよ」
「いいよ、俺が持つって言ったじゃない。ほら、貸して」
フィガロが手を伸ばすと、避けるように賢者はバスケットを背中に回した。そして「日が暮れちゃいますよ」と言って、フィガロを置いて小走りに行ってしまう。なんだか、歩み寄った分だけ避けられたような気がした。長い脚のおかげで、数歩分大股で歩けば賢者にはすぐ追いついてしまう。賢者がフィガロを一瞬だけ上目遣いで見る。
「フィガロって、俺を飼いたいんですか?」
「買いたい?」
「飼育する、の方の飼うです」
「ああ」
フィガロは相槌をうち、けれど納得はしていなかった。飼育する?俺はただ、この子を可愛がっているだけなのに。そもそもとして「飼育する」という言葉の中に、「可愛がる」が含まれているだろうから、確かにそう遠くはないだろうけど。フィガロは想像する。体を小さくされ、ハムスター用のケージに閉じ込められた賢者の姿を。そそられるな、と彼は思った。
「でもさ、可愛い子を閉じ込めておきたいとか、手元に置きたいって思うのは他のみんなもそうなんじゃない?」
それでも、よく分からない気持ちに駆られてフィガロはそう否定した。まるで潔白を証明するみたいに。賢者はうっすらと笑っただけで返事はしなかった。
数日後。フィガロの私室でドアがノックされる。机に向かっていたフィガロが「はあい」と返事をして振り返ると、包みを抱えた賢者が顔を出していた。
「フィガロ宛ての荷持みたいです」
「ちょうどよかった。ありがとう」
荷物を渡した賢者の目が、机の上に注がれる。
「可愛いでしょ」
一匹のリスが、そこに佇んでいた。前に森で見かけた個体とは、おそらく別なのだろう。けれど、その時と同じようにフィガロを見上げた姿のまま動かない。横から覗き込んだ賢者に対しても反応らしいものを見せなかった。剥製、と言われた方が納得できるほどに、呼吸さえ感じさせない。
「あの、これって人形とか……」
「あはは。ちがうよ。俺が操ってるからこうなってるだけ」
「操る?」
「そう。支配してるって言った方が正しいかもね」
フィガロの白い指が、机に転がっていたどんぐりを一つだけつまむ。それをリスの手元に持っていくと、からくりじみた動きでどんぐりを両手で受け取った。それを口元まで持っていく。その間、リスはまばたきさえしない。
「見て。やっぱり君に似てるよ。俺から見たらこんな感じだもん」
「……あの、こんなこと言うのは変かもしれませんけど」
「うん?」
「可哀想じゃありませんか……?」
「そんなことないよ。魔法をかけている間は抜け殻みたいなものだから、この子はいま苦痛さえ感じないはずだし」
フィガロの前で賢者は何度か瞬きをした。まるで痛みをこらえているような表情が、その顔を掠めたのは気のせいだろうか。賢者が静かな声で「フィガロ」と呼んだ。
「今だけ、俺を魔法で好きにしてもいいので、その子を解放してもらえませんか?」
その、「好きにする」というのは、体を小さくするとか、動物に変えてしまうのを指しているのだろう。フィガロはそれを理解していたが、その一方で、頭の芯が熱く痺れていくのを感じ取った。
「へえ」
鈍く固い音が室内に響いた。リスの取り落したどんぐりが、机に叩きつけられて鳴った音だ。リスは我に返ったかのように頭をわずかに振ると、開け放されていた窓から外へと消えていった。
フィガロが立ち上がる。賢者と向かい合った。自然と、彼を見下ろす形になる。白い手が賢者の両頬を包んだ。色の違う二対の目が、呼吸さえせずに見つめ合う。けれど、静寂が破られるのは容易かった。
「……やめた」
フィガロの手が頬を離れる。
「俺はね、君を可愛がりたいだけだから。どう見えているかは知らないけど」
「……そうですか」
賢者がフィガロの顔をじっと見上げる。この子、こんな目もできたんだ。フィガロがそう思うような目をしていた。
賢者が部屋を出ていったあと、フィガロは荷物の包みを開いた。中に入っていたのは、ミニチュアのドールハウスだった。組み立て式の壁と床。手のひらサイズのベッドとテーブル、椅子。簡素なつくりだがティーセットまでついていた。
「逃がしちゃったから、使えないな」
ミニチュアのベッドをつまんで、検分するようにくるくると回す。小動物か何かをこの中で飼って可愛がっていれば、あの子に向けていた欲求が、解消されるような気がしたのだ。けれど、いかにも飼育小屋らしいケージではなく、こんなドールハウスなんて取り寄せた時点で、本当に飼いたいのは何か分かりきっている。
「認めたくないなあ」
やめた、なんて言わなければ良かった。あの、黒目がちな丸い瞳。愛らしい仕草。こっちを誘い込むような振る舞いをするのに、肝心なところで突き放す癖。ああいう子を自分の手の届く範囲に閉じ込めておけたら、きっと楽しくて仕方がないだろうに。
「想像するだけでも、こんなにそそられるんだからなあ」
愛してあげたい。可愛がりたいし、あの子の助けにもなってあげたい。手元に置いて、他の誰の物にもさせたくない。その感情は愛と言い換えることもできるだろう。けれどフィガロにとって、やはりそれは「あの子を飼いたい」という言葉で全て包括できる欲求のような気がした。