飴玉

※何らかの力によって元の世界に戻されそうになる晶くんを連れ戻すミスラがいます

ガタン、と大きく体が揺れて、晶は弾かれるように飛び起きた。慌てて周囲を見渡すと、「とまります」の字が光る停車ボタンが目について、ようやく自分がバスに乗っていたことを思い出した。
バス内の空気はこもっており、足元を包む温風が心地よい眠気を誘っている。晶以外に乗客は見当たらず、僅かなエンジン音だけがひそやかに聞こえていた。晶は膝の上のリュックを抱え直すと、自身の真横にある窓から、町の景色を眺めた。ビルの間を縫うようにして、赤々とした夕日が徐々に沈んでいる。夕日が明るすぎるせいか、それ以外のものが逆光を浴びたようになっている。時々窓を横切る道路標識さえ、影のように黒々としていた。
晶はふいに、全身を満たす途方もない疲労感に気がついた。手足の先まで、水を吸った綿のように重くなっている。ぼんやりとした頭で、ついさっきバイトを終えたことと、帰宅したら課題のレポートを書かなければならないことを思い出す。帰ったらすぐ取り掛かれるように、今のうちに資料を読んでおこうと、晶は鞄の中身を探った。ぐったりとした動きで、鞄の中をかき回す。
(……あれ、)
しかし、底に転がっている財布やイヤホンをいくらよけても、目当てのものが見つからない。いや、そもそもとして……。
(俺は何を探してたんだっけ……)
頭の芯まで生ぬるいゼリーに包まれているような、奇妙な意識の痺れが晶を満たしていた。ふと顔を上げると、窓から見える景色は一変していた。ぐねぐねとした輪郭の、灰色の物体が空を覆うように生えている。それらは静止したり、ぐにゃりと歪んだりしながら、時折空中に現れる別の灰色と混じり合っては、奇妙な景色を作り出していた。その灰色の間を満たすように、赤色をした色水のようなものが滲んでいる。変だな、と思った。けれど、それ以上の違和感を抱くことはなかった。
外を眺めていた晶の意識を戻したのは、腕に押しつけられた重みだった。見ると、小柄な男の子が隣に座り、晶の腕に体を預けていた。その子供は小学生ほどの見た目をしており、半袖に半ズボンを着て、細い手足を露出していた。髪は燃えるように赤く、石灰のように白い肌をしていた。目を閉じて、眠っているようだったが、それでも美しい顔をしているのがよく分かった。
その子供に見覚えはなかった。けれど、寝顔を眺めているだけで奇妙な愛おしさが込み上げてくるのが分かった。この子のために、何かをしてあげたい、と思った。自分の持っている何かを犠牲にしたとしても、この子が笑ってくれるなら構わないと思うほどだった。どうして見ず知らずの子供にこんなことを思ってしまうのか、晶は自分でも不思議だった。しかし、あどけない寝顔を眺めているだけで、手足に満ちていた疲れが溶けるように消えていくのは事実であった。
そのうちに、子供がむずがるように身震いした。そして、ゆっくりと目を開ける。まぶたの奥から現れたのは、この世のものとは思えないほど綺麗な、エメラルドグリーンの瞳だった。長いまつ毛が、その瞳を縁取るように囲んでいる。少年は晶の存在に気がついても、特別大きな反応を見せなかった。晶にもたれかかったまま、静かに凪いだ表情で彼を見上げていた。薄桃色をした唇が、気怠げに動く。
「おはようございます」
「あ……、おはようございます……」
落ち着いていて抑揚の薄い、子供らしくない声に晶は戸惑いながらも、言葉を返した。
「ここがどこだか、分かりますか」
「……いえ、分からないです」
子供の口調に釣られるように、晶は敬語で返した。子供はあくびを噛み殺しながら「そうですか」と言い、晶の腕に鼻先を擦り付けた。衣服越しに肌を愛撫されたかのようで、ひどく甘美だった。
子供は晶にもたれたまま、薄目を開けて正面をぼんやりと眺め始めた。晶は無意識のうちに、子供の顔を見つめていた。自分の周囲も、窓の外の景色も、視界に入らないほどに興味を失っていた。自分とその子供だけが、世界に取り残されたようだった。
ふいに、子供がかはりと咳をした。
「ここ、空気がわるいですね」
確かにその通りかもしれない。晶は何ともないが、いかにも繊細そうな子供の白い喉には、バスのこもった空気は毒だろう。
「あの……、のど飴ありますよ。舐めますか」
そう聞くと、子供は目を閉じたまま「食べます」とだけ返事をした。晶は鞄をかき回し、ポーチの中からのど飴を一つ取り出した。晶の視線は、既に子供の喉から唇へと移っていた。薄く色づいた、柔らかそうな唇。触れるとグミのように柔らかくて、吸い付くような湿度を持っているのだろうと思えた。その唇に触れたくて仕方がなかった。だから、晶が口にした言葉は、そんな下心を含んでのものだった。
「俺が食べさせてあげます」
そう言うと、子供はうっすらと目を開けた。体を預けたまま晶を見上げて、首を傾げるようにして微笑んでみせる。それだけで、晶は下腹部に血が集まるのを感じた。晶が飴玉をつまんでいるのを見ると、子供はかぱりと口を開けた。晶は飴玉を摘んでいる二本の指を、子供の口の中に入れる。舌先に飴玉を置いて、手を引っ込めようとした時、子供がぱくりと口を閉じた。餅のようにやわらかい唇に、指を挟まれた。反射的に指を引き抜こうとすると、唇に力が加わり引き留められる。そおっと細められた目の奥でくすぐるように微笑まれて、晶はクラクラとした。
あたたかな口の中に置き去りにされた指の先を、子供の舌先がチロチロとつついた。熱くぬるついた舌の感触が、爪の間に押し当てられて、形容し難い興奮が晶を包み込む。これ以上指を入れていたら自分が何をしてしまうか分からなくなり、晶は強引に指を引き抜いた。その際に、窄めた唇で指を吸われ、性器からペニスを抜くときのような心地よさを味わった。
晶の顔は、林檎のように赤くなっていた。唾液で濡れた手をどうするべきか分からず、自身の膝の上に置く。そんな晶の姿を、子供は満足気に眺めていた。
不意に、子供が身を乗り出した。体を密着させたまま、ずり上がるようにして晶の肩に顎を乗せる。そして耳元で囁いた。子供の口から、のど飴の匂いを含んだ吐息が吹きかけられる。小児用の風邪薬にも似た、薬品じみたオレンジの匂いだった。
「もう、帰りましょうか」
どこに、とは聞かなかった。晶は密着している体温に意識を奪われていて、それどころではなかった。気がつけば、二人の周囲には何もなかった。バスの座席も、「とまります」のボタンも無い、暗闇だけがあった。二人の足元に、白い光が浮かび上がる。それは線を引くように一つの形を取り、大きな一枚のドアになった。扉が向こう側に開く。大きな力によって、晶の体は足元の扉へと飲み込まれていった。

目を覚ました時、賢者はベッドの中にいた。暗い天井を見つめながらも、頭の中は忙しなく動いていた。さっきまで見ていた夢の内容を思い出そうとするが、試みるほどに端から忘れていった。確かめなきゃ、と賢者は考えた。何を見に行って何を確かめるのか、自分でも分からなかったが、とにかく行動しなければならないという気持ちがあった。起き上がり、ベッドの外へ足を下ろす。すると、背後から腕を掴まれた。
「どこ行くんですか」
見ると、ベッドの中にミスラがいた。いつものように、賢者に添い寝をしてもらっていたらしい。賢者にはベッドに入るまでの記憶が全く無かったので、ひどく驚いた。
「外に行こうと……」
「もう遅いですよ」
「……それは、」
「俺は疲れてるので、もっと寝たいです」
つまり、賢者にまだ添い寝して欲しいという意味だった。一拍置いて冷静になった賢者は、さっきまでの衝動性を忘れ、素直にミスラの隣に横たわった。そして、彼の手を握る。賢者は既に、夢の内容をすっかり忘れていた。半覚醒状態だったためか、賢者はすぐに入眠することができた。
「連れ戻すの、大変だったんですからね」
だから、ミスラが呟いた言葉は、眠ってしまった賢者の耳には届かなかった。