ミスラの隣で幾つもの夜を明かした末に、賢者が実感していることが一つだけある。
今現在、賢者はベッドの上でミスラとじゃれあってる最中だった。仰向けに横たわる賢者の上に、ミスラの大きな体が覆い被さっている。オオカミのように口をぱかりと開けたミスラは、ベッドについた両手両足の中に賢者の体を閉じ込めると、賢者の体のあちこちにガブガブと噛み付いていた。最初に耳たぶ、次に鎖骨に噛み付いて、賢者が笑いながら身をよじるので、それを押さえ込むように首に歯を埋める。噛み付いているといっても、それは確かに力加減のされた甘噛みであり、牙よりも生温かい吐息の方が賢者の体に触れる機会が多いほどだ。ミスラの吐息や唇が肌に触れるたび、その甘やかな感触に賢者は体を震わせる。ミスラの目からすると、その震えはくすくすという賢者の押し殺した笑い声のために起こっているように見えた。
そんな愛らしいじゃれ合いだったけれど、首筋への甘噛みは、皮膚の薄さからか他の場所よりも深く牙の先が沈み込んでしまった。ピリ、と感じた痛みに、思わず賢者が「ひゃあ」と声を上げると、ミスラが堪えきれないという風に噴き出した。あははと声を上げながら、ミスラは覆い被さるのをやめてごろりと賢者の隣に横たわる。そのまま、しばらく二人で横たわり続けた。
賢者は全身にうっすらと汗をかいて、息を荒げていた。それは、ミスラの甘噛みのくすぐったさに耐えるために全身を硬らせていたせいでもあったし、体の内側で燻っている快感の火に耐えようとしていたせいでもあった。その横にいるミスラもまた荒い呼吸をしていたが、それは笑い過ぎによるものだった。静かな部屋に、二人の息遣いだけが響く。賢者は黙って、天井を見上げ続けた。ミスラの体に遮られていた視界が開けて、突然部屋の中が明るくなったように思えていた。そのせいか、妙に開放的な気分になっている。
沈黙を破ったのは、ミスラだった。こういう時、先に口を開くなり行動に移すのはミスラの方である。気怠げな動作で身を起こしたミスラは、賢者の胸元めがけてぼすりと上体を落とす。じゃれ合いのためにやや乱れた寝巻きの襟元に、ミスラの鼻が押しつけられた。賢者が不自由な姿勢のまま、鎖骨あたりに寝そべっているミスラを見下ろす。すると、ミスラは上目遣いをするように賢者を見上げていた。綺麗な形をした両目が、すうっと細められる。薄桃色をした唇の端が持ち上がって、色っぽい吐息と共に囁かれた。
「楽しいですか?」
それは、ほとんど賢者の気持ちを確信している、問いかけというよりも確認に近い質問だった。「楽しいです」と返事をしながら、賢者はどこか懐かしいような、満ち足りたような気持ちでミスラの問いかけを反芻した。
最近のミスラは、こうやって賢者の気持ちを確認するようになった。以前の彼なら「あなたもそう思うでしょう」とか「俺と同じ気持ちのはずですよ」という風に、賢者の気持ちを決めつけて行動することが多かった。ミスラのそういった態度に、猫の自由奔放さを重ねて微笑ましくなりながらも、どこか困惑してしまうのが賢者の常だった。だからこそ、ミスラの変化に賢者は目ざとく気づいたのだ。
まるで自分の気持ちに寄り添ってもらえてるようで、賢者はひどく嬉しかった。けれどその反対に、ミスラの考え方を歪めてしまったような自己嫌悪に似た気持ちもあった。だからこそ賢者はその変化を手放しに喜べないのだが、それでも気遣うように問いかけられる言葉は、賢者の気持ちをほんのりと温かくさせた。
返答を聞いたミスラは、幼い子供のようにくつくつと無邪気に笑った。賢者の胸に顔が押し付けられて、ミスラの頬がふにゃりと歪む。それを見ているだけで、賢者は自分の胸がキュッと締め付けられるのを感じた。
しばらくそうやって身を寄せ合っていたが、ふいにミスラが腕を伸ばした。賢者の白い鎖骨に、それ以上に白い手が置かれる。そのまま、まるで蜘蛛が体を這い回るように、ミスラの手が徐々に下りていって、寝巻きの襟元の中へ入っていった。
「んっ……」
普段人に触れられない場所へ、ミスラの指が容易く侵入する。その動きに迷いはなく、自分の行動のせいで互いの仲に亀裂が入る可能性など、少しも頭に無いように見えた。賢者の背筋を這い上がるようにして、ゾクゾクとした気持ち良さが体を駆け巡る。体を強張らせる賢者に対抗するように、ミスラはさっき以上に柔い触れ方で賢者の肌に指を滑らせた。
ミスラがぽつりと声を漏らしたのは、その時だった。
「こういう時」
賢者は再度、見下ろすように彼へ目を向けた。独り言のような声ではあったが、視線は確かに賢者に向けられていた。さっきまでと違い、その顔に感情は見られず、瞳孔が限界まで引き絞られているのが見える。まるで猫の目のように見えたが、そう表すには視線に疑心が含まれすぎているような気がした。
「……こういう時、何か感じたりしますか」
「何かっていうと……」
「嬉しいとか、楽しいとか」
その言葉に、賢者はすぐに頷きそうになった。嬉しいし、楽しい。さっきのくすぐり合いほど笑い声を上げていないけど、子猫のじゃれ合いのようにこうしてミスラに肌を触れられるのは楽しかった。同意の声を上げようとした矢先に、ミスラの声が被せられる。
「俺も……」
「あと、気持ちいいとか、興奮するとか」
「え……」
「恥ずかしいけどもっとしたいとか、もっと気持ちよくなりたいとか、俺とセックスしたいとか__」
無表情のまま、ミスラは言葉を続ける。囁かれる言葉のあまりの淫らさに、賢者は思わず耳を塞ぎたくなった。文字で見ればなんてことはない言葉だろうに、落ち着き払った声で教え込むように囁かれると、まるで心を読み上げられているような気持ちになる。
賢者は、思わずミスラの目から視線を逸らした。自身の頬が熱くなるのを感じ、今すぐにここから逃げ出したいとさえ思う。しかしそれを許さないと言うように、ミスラの体が賢者へ密着したまま上へとずり上がる。耳元に唇を寄せられ、耳の穴に息を吹き込まれた。まるで、耳よりもずっと奥、賢者の体の内側の隅々にまで吐息を注ぎ込もうとするかのように。
「そういうこと、思ったりしますか?」
賢者は困惑した。ミスラのこの問いが、どんな答えを求めているのか全くわからなかった。
「嬉しいとか、楽しいって思うことはあります」
賢者はほとんど反射的に答えた。今ミスラが口にしたような淫らな感情を、自分がミスラに対して抱いたことがあるかなんて考えたくなかった。もし認めてしまったら、こうしてミスラとじゃれあってくすくす笑うのが二度とできなくなるような気がした。
賢者は出来るだけ声が明るくなるように努めた。笑顔を作ってみせたものの、どこかこわばった不自然な笑顔になっていることだろう。言外に「それ以外のことは思ったことがない」と匂わせながら賢者は答えた。
ミスラは無言のまま、賢者の顔を見つめ続けた。蛇のように瞳孔の縮まった目が、賢者を捉えて離さない。賢者はじっとりとした汗が背中に滲み始めるのが分かった。異端審問をされている時はこんな気持ちになるのかもしれない、と思った。永遠に続くと思われた見つめ合いは、ミスラの声で断ち切られた。
「そうですか」
そう言って、ミスラはふいと視線を外した。その表情はひどくつまらなさそうで、むくれた子供を連想させた。ミスラは賢者の胸元にまた顔を埋めると、目を閉じてくったりと脱力した。子供じみた無防備なその姿に、賢者は警戒心が溶けていくようだった。赤い髪にそっと指を差し込むと、ミスラは撫でやすいように頭を傾けた。そのまま髪を撫でてやると、ふわふわとした感触が指の間をすり抜けていく。緊張が解かれた反動か、賢者はつい要らぬことを口にしてしまった。
「ミスラは、俺にどんなことを思って欲しかったんですか?」
「教えたくありません」
ミスラは目を閉じたまま答えた。拒絶の言葉に、確かに軽率な質問だったと賢者は反省した。思わずしゅんとすると、ミスラの声が続けられる。
「本当は、俺と同じ気持ちでいて欲しかったです」
その言葉は、賢者にはひどく無防備に聞こえた。輪の中から外れた子供が、一人きりでぽつりと溢すような、誰かに聞いてもらえることを期待していないようにさえ思える声だった。賢者はきゅんと胸が締めつけられるのを感じた。死の湖で、いつかの日に蘇らせようとした古代生物のことを聞いている時と、似たような気持ちだった。
同じ気持ち、とは言っていたがミスラはどんなことを思っていたのだろう。ミスラが羅列したような淫らなことを思っていたのか、それとも全然別の「これからもこういうことをしたい」という風な微笑ましいことを思っていたのかもしれない。前者は難しいが、後者なら賢者でもきっと同じ気持ちでいられるだろう。
寄り添ってあげたい、と賢者は思った。本質的にミスラを理解することはできなくても、いつの日か分かり合えるはずだと希望を持たせることくらいは、してもいいはずだと思った。
「あの、ミスラ」
意を決して名前を呼ぶと、ミスラは気怠げに片目だけ持ち上げてこちらを見上げた。
「ミスラがどんな気持ちでいるのか、俺はまだよく分からないままだけど……」
ミスラがぱちりと瞬きをする。緊張で強ばった肺に酸素を取り込み、賢者は言葉を続けた。
「いつかミスラと同じ気持ちになれるように、頑張りますね」
言い切った時、賢者の胸にあるのは恐怖だった。もしここで「どうでもいいです」とか「期待してません」という風に拒絶されたら、自分は立ち直れないと思った。
ミスラの視線が斜め上を向く。何も無い空間を、探るよううにしてじっと見つめている。痛いほどの沈黙が続く。賢者は返答を急かしたい気持ちを抑えて、ミスラを見守り続けた。ようやくミスラが口を開いた時、賢者の言葉からゆうに一分以上は経っていた気がした。
「じゃあ、頑張ってください。俺のために」
いつも通りの、平坦な声だった。こちらを見上げる顔も、見慣れた無表情である。けれど、拒絶しているわけではないというだけでも、賢者には十分に嬉しかった。じわじわとした嬉しさが込み上げてきて、ついミスラの頭をかき抱いた。ミスラの形の良い鼻筋が鎖骨に擦り付けられる。多分この位置なら、賢者の心音がミスラに聞こえているだろう。それだけのことがなんだかすごく嬉しいと賢者は思った。
「俺、今すごく幸せですよ、ミスラ」
賢者は返答を期待していなかった。ミスラの頭を胸に押し付けるように抱いてるために、心音で耳が塞がれてるだろうと思ったのだ。けれど予想に反して、ミスラの声が返ってきた。
「俺もですよ」
安らかな声が、賢者の肌に唇を押しつけたまま囁かれる。ミスラの言葉がどんなに嬉しいか、少しも取りこぼすことなく彼に伝えられたらいいのにと思った。きっと自分とミスラは、全てを分かり合えることは出来ないだろうけど、幸せな気持ちくらいは全く同じように感じ取れるようになりたいと思った。