「いると思わなかった」
電話を繋いだ瞬間の、第一声がそれだった。
執務室の卓上に置かれた、アンティーク調の電話機。そこにかけてくる者は限られていた。耳に飛び込んでくる、男にも女にも聞こえる声。それだけで、相手が誰であるのかが分かった。
電話口の向こうにいる男──ドクターは、電話が繋がるのを本当に期待していなかったらしい。自分からかけてきたくせに、やや面食らっている様子がその声から感じ取れた。
「久しぶりだね、エンシオディス」
「……ああ」
この男が、わざわざ自分に電話をかけてきた。その事実を、ようやく頭が理解し始める。彼の方からこちらへ連絡を寄越すことはほとんど無い。体中を歓喜が満たしていくのが分かった。
「どうした。まさか私の顔が見たくなったか?」
そう言いながら、特に用もなく椅子から腰を上げ、窓のそばに近づいた。ふつふつと内側に募りつつあるものを、発散したくてたまらなかったから。自身がはしゃいでいることを否応にも自覚する。
「別にそうでもないんだけど」
そっけない言葉に、思わず笑ってしまいそうになる。ここまで明け透けな物言いをされても不快に思わないのが、この男の不思議なところだった。
「君の方は会いたいんじゃないかと思って」
言葉に詰まる。実際、その通りだった。
「次はいつくらいに会いに来れる?別に具体的じゃなくていいんだけど。年末近くとか、春先にとか」
「年末の少し前に行くかもしれん。二十日よりは後だ」
「ああ。じゃあちょうどいいや」
「何がだ」
「ちょうどその頃に、クッキー作りをロドスで習うんだよね。エンシアも一緒に。もしタイミングが合ったら君にあげようかと思ったんだ。ほら、クッキーって賞味期限が長いから」
窓の向こうで、雪が降り続いている。風はなく、おとぎ話に出てくる景色のように、穏やかに白く積もっていく。それがなぜか、空想上のもののように思えた。電話口から聞こえる、彼の声や、エンシアのことや、クッキーのことばかりが現実として確かに存在しているような気がした。
「じゃあ、エンシアにも伝えておくよ。彼女も君に渡したがるかもしれないし」
「そうしてくれ」
そういえば、と電話を切る間際に彼が言った。
「挨拶もなしに悪かったね」
おそらく、電話を繋いだ直後のことを言っているのだろう。気にしないでくれ、と返した。
ロドスを訪れたものの、実際にドクターと対面できたのはその日の午後九時過ぎだった。この時間まで仕事で拘束されるのが彼にとっての日常であるらしい。
「はい、これ」
部屋に入るなり彼に何かを渡される。それはよく見ると、ラッピングされたクッキーだった。星型やハート形をしたクッキーが、透明な包みに入れられて口のところを金色のリボンで縛ってある。少し驚いた。彼の部屋で一緒につまむのかと思っていたから。
「わざわざ包まなくても、ここで食べても良かっただろう」
「だって来てすぐに帰るときもあるじゃないか。年末は特に」
だから、帰りのヘリの中ででも食べてよ。彼はそう続けた。未だ防護服を身に着けたまま、ベッドに腰かけた姿で。自分は彼と向かい合うように、ソファーの方に座っていた。
「エンシアのクッキーは?」
「友人同士で交換してしまったと言っていた」
「あはは。残念」
そう言いながら、彼はベッド端に転がっていた白いものを手に取った。
「ねえ、クッキーって三十分もあれば作れるんだって。オーブンで焼く時間も含めてだよ?」
手の中のものをいじくりまわしながら続ける。
「そりゃレシピにもよるんだろうけど。最低一時間はかかるものだと思ってたなあ」
「それはなんだ」
「うん?」
彼が自分の手元に視線を落とし、「これ?」と差し出した。それは白いタオル地でできた、うさぎのぬいぐるみだった。質素で可愛らしい、いかにもベビー用品売り場にありそうなものだ。
「オペレーターがくれたんだ。可愛いだろう」
ぬいぐるみの顔を見る。眠っているような穏やかな表情が、糸で縫いつけられていた。
「そうだな」とだけ言って、すぐに彼へ返した。すると、なにやら意味ありげに彼がこちらをじっと見つめてきた。肩がわずかに震えている。そして、ふふふというひそやかな笑い声が聞こえてきた。
「どうした」
「だって、あからさまに興味なさそうな顔して返すから」
そうだったかもしれない。気を悪くしたか、と彼の様子を窺ったが、いまだ愉快そうに笑っていた。
「君ってたまに子供っぽくなるね」
こらえきれなくなったように、彼の両足がゆらゆらと揺れ始める。楽しげに宙を掻くつま先。
フェイスシールドに隠された、彼の顔のあたりをじっと見つめた。目鼻も口も、うまく目視できない。早くその防護服を取り払って欲しいと思った。別に、彼の容貌へ特段執着しているわけではなかったが、彼の目元や唇が、どんな風に動き、どんな風に笑っているのかを知りたかった。
ひとしきり笑って、ずれたシールドを直すような仕草を見せた後、彼は何でもない事のようにこう言った。
「今日も一緒に寝る?」
頷いた。
「じゃあ、シャワー浴びてくる」
彼はそう言い残して、さっさとバスルームに行ってしまった。後には、あのぬいぐるみだけが残っていた。なんとはなしにそのぬいぐるみを手に取る。石けんの匂いがした。つい最近洗濯したのかもしれない。糸で縫われた顔を改めて眺めるも、愛らしさや親しみを感じることはやはりできなかった。
一緒に寝る、とはいってもそこに性交は伴わない。言葉通りに添い寝するだけだ。いつだったか、彼がこう口にしたのがきっかけだった。
「本当は誰かとくっついて寝たいんだよね」
「輸送車で移動してる時、誰かに寄りかかったり膝枕してもらったりして寝ると、あったかくて気持ちいいからさ」
「誰かロドスでそういうビジネスでもしてくれないかな」
そんなことまで言い出したので、この体で良ければ貸し出すが、とつい口にしてしまったのだ。
順番にシャワーを浴びて寝巻きに着替える。二人でベッドに潜り込んだ。
「狭くない?」
「ああ」
毛布の重みの中で、彼の体が密着する。薄い布越しに、細くてやわい肉体が感じられた。
すぐ真横に彼の顔がある。小さくて白い、陶器人形じみた顔。その小さな顔に収まっている鼻や唇も、作り物のように小さく見えた。
「眠いのか?」
彼にそう問いかけた。布団に潜り込んでそう時間は経っていない。少し会話をしたくらいだ。それでも返答までの間隔が長くなっていて、時折意識を失うようにがくりと顔を傾けている。気づかれないようにそっと盗み見た。目を閉じようとするたびに、長いまつ毛が小刻みに震えている。うん、とぼんやりした声で彼が答えた。
「消した方がいい?」
部屋の明かりのことを言っているのだろう。彼の目はもうほとんど閉じられている。首を振った。後もう少し、彼の白いまぶたを見ていたかった。それに、彼が明るい場所でも眠れることを自分は知っている。
「あとでけしといて」
そう言うのと同時に、彼が頬を肩に押しつけてきた。そしてそのまま動きを止める。餅を思わせる柔らかそうな頬。一分もしないうちに、ひそやかな寝息が聞こえてきた。
しばらくの間、前髪の影がかかった白い額や、表情の抜け落ちた目元をじっと眺めた。神聖な、触れてはいけないもののように思えた。実際にそうであるのかもしれない。
彼が寝ていることを、細心の注意を払って確認する。そして、無防備に晒されたまぶたを舌で舐めとった。彼の肌の味がした。
その日も雪が降っていた。
春になったとはいえ、イェラグはやはり銀世界のままだ。もっと南の方に行けば、雪解けから覗く地面と、ささやかな花のつぼみが見れるのかもしれない。卓上の電話機が鳴り出した時、彼からのものであるような気がした。そして、それは当たっていた。
「良かった。出てくれて」
おそらく自分は微笑を浮かべたのだろう。どうした、と尋ねる声はきっとひどく甘やかだったはずだ。「別に何でもないんだけど」と前置きしたうえで彼はこう言った。
「会いたいなと思って」
この言葉が、蜜のように体へ染み込むのが分かった。咄嗟に踏みとどまろうとする。今自分がいる、現実という場所に。けれど、その言葉に浸るより先に、彼がこう付け加える。
「でも、別にそうでもないような気がした」
なぜ、と聞くまでもなく彼が続ける。
「声を聞いたら満足しちゃったから」
「それは、」
それは、困るな。取り繕う余裕もなく、そう返事をするしかなかった。もう余韻しか残っていない彼の蜜は、それでも全身に甘く染み込み、アルコールのように脳を麻痺させる。
「何で君が困るの」
「考えてみてくれ」
「分からないよ」
「できるだけ早くロドスに行く」
「いいよ別に。この前無理して来てもらったんだから」
「あれは、私が勝手に会いに行っただけだ」
「そうだっけ……」
ほんの一瞬、沈黙が続いた。およそ三秒にも満たない静寂だったと思う。それでも、彼がいい区切りだと考えて「じゃあまた」と電話を切りかねないと思った。できるだけ長く、彼の声を聞いていたかった。しかしその不安は意外にも外れた。
「じゃあ、来て」
あまりにもあっけらかんとした物言いだった。思わず息をこぼして笑う。
「ああ。数日以内に。長くても今週中には」
いくつか言葉を交わしながら、ふと窓の向こうが目についた。降り続く雪。驚いたことに――自分は今この瞬間まで、外が雪であることを忘れていた。それだけでなく、いま執務室にいることも、ここがイェラグであることさえも。この電話をとった瞬間から今に至るまで、自分は電話の向こうにいる彼の存在だけを知覚して生きていた。冗談のように思えるが、それは確かに事実だった。
「ドクター、今お前はどこにいるんだ」
「ロドスだけど」
「どの部屋で、今周りには何があるんだ」
「執務室で、書類があって、右奥にはもうそろそろ水を変えなきゃいけない花があるけど」
無意識のうちに笑みを浮かべていた。彼の返答が愉快だったからではない。すぐに答えられるほど、彼はちゃんと現実に足をつけていることが分かったからだ。気がおかしくなっているのは、自分の方だけなのかもしれない。
「ペン立てには油性のペンが三本、水性が一本。広げてる書類は三枚あって積んでる書類はその二十倍以上ある。PRTSの充電は残り五十パーセント」
お気に召した?と彼が言う。
「ああ、十分だ」
そして最後に、数日以内にはそちらへ行くともう一度繰り返した。それが今この瞬間、一番頭に残しておくべき情報だったからだ。ペンの種類よりも、端末の残り充電量よりも。