離陸せしめる

 これは夢の中の出来事だ。
 白と黒を基調にした内装も、手足の感触も、静まり返った屋敷の様子も、すべて夢の中の産物だろう。彼はそう理解しながら、いたって冷静に自室の中へと入った。
 室内には、先客がいた。少年のような体格と、ぞっとするほどに白い肌。男は、家主が帰って来たのを見てもうろたえず、ごく自然な動作でグラスを手に取った。グラスには、ピンク色のシャンパンが注がれている。男はすいと飲み干してみせた。反らした喉が、ゆるやかに上下する。
「あいつは」
 潤んだ唇のまま、男はまずそんなふうに切り出した。
「あいつは、いつでもお前を捨てることができるよ」
 長いまつ毛に縁どられた、大きな目がシルバーアッシュを見る。乳白色の瞳。少年のように華奢な喉だった。はすっぱな物言いが、あまりにも似合わない喉だ。
「寝たいんだろ? あの男と」
 シルバーアッシュは、黙って男を見つめ返す。
「あいつの周りには、お前より若くて親切で、きれいな男がいっぱいいる。お前は下品なことばかり考えてるだろうけど、そいつらは打算なしに、あの男に優しくしてやれるんだ」
 だからお前にはふさわしくない。そう言外に匂わされていた。「お前の言う通りだ」とシルバーアッシュは答えようとした。しかしそれより先に、彼は夢から目覚めた。見知った天井と薄暗い部屋。呻き声を漏らし、前髪をかき上げる。
 あの男に罵られるのは、これが初めてではなかった。夢の中でああいった風に対峙するのは、もうずいぶん前からしていたことだ。そのうえ、最近では現実の世界でも、目の前に現れては彼を憐れんだり嘲笑したりしている。その間中、シルバーアッシュ以外の者には男の存在は見えないし聞こえもしないらしい。
 幻覚、妄想。そういった類のものであれば、まだ対処はしやすい。しかし、それとはまた別の――たとえば、好意を向けている「あの男」が内心思っていることを、アーツで具現化させたものであるならば話は別だ。シルバーアッシュの好意について、気づいているのかいないのか分からないかわし方を続けるあの男が、内心ではああいった風にこちらを蔑んでいるのだろうか。そう考えるだけで、胸のうちをナイフでえぐられるような心地がした。
 そして何より――睨むように天井を見つめて、シルバーアッシュは考える。そして何より厄介なのが、あの「声」がドクターと同じ姿形をしていることだった。少年のような体つきも、少女じみた顔立ちや唇も。悪意をもって、そうなるよう設定されたとしか思えないほどに、ドクターと瓜二つの姿をしていた。

 午前中、屋敷で仕事をしていると使用人の一人が声をかけてきた。ドクターが昼食をとるつもりなのか後で聞いてきて欲しい、とのことだった。どうやら今朝から部屋を出た形跡がなく、起きているのかどうかもまだ分からないと。時計を見ると、あと二時間もすれば昼と呼べる時間だった。
 ノックをしても返事がなかったので、寝ているだろうと思いそのまま部屋に入る。すると、意外なことにドクターは起きていた。ベッドの上で上体を起こし、寝乱れてくしゃくしゃになった髪を、額にはりつけている。ベッドが巨大なせいで、体の薄さが良く目立つ。腕はまるで棒きれのように細く見えた。ドクターがこちらに気がつく。
「おはよう」
「ああ」
 声がガサガサだった。「なにか飲むだろう」と声をかけると、数秒の思案の後に
「シャンパン」
 とだけ返ってきた。夢の中で、いま目の前にいるのと全く同じ顔をした男が飲んでいたのを思い出しながら、シルバーアッシュがそれを用意する。以前、食前酒として出したところ「ピンク色のは初めて見た」とドクターに感嘆された、透き通ったローズ色のシャンパン。以来、彼が訪ねてくる時は何となく部屋に常備するようになった。
 グラスを持って、ベッド脇に腰かける。さしたる他意はなかったのだが、ベッドから這い出してきたドクターが隣に座り、全身をもたれかけてきたので、予想外のことに体温が上がった。
 グラスを受け取ったドクターが、喉を反らすように飲み干す。その様子を、シルバーアッシュは眺めた。夢の中にいたあの男と、全く同じ顔をして飲むのだろうと彼は思った。
 しかしそうではなかった。別人のように違う。シャンパンが喉を通り過ぎるたびに、肌の下の血管や、まつ毛の先にその液体が行き渡るのを見ているかのようだった。うすく閉じたまぶたにさえ、気品があった。唇など、誰にも触れられたことがないかのようだった。
 ドクターが、くったりと頭を預けてくる。その髪を手でとかしてやった。体温は低いのに、頭皮だけは子供のそれのように熱く湿っている。
「お前は、ここだけ温かいな」
 エンシアが子供の頃を思い出す。一人言のようにそう言うと、ドクターは腕を持ち上げて自身の頭に触ってみせた。しかし「分かんないや」と言った後、気だるげに腕を下ろした。その手首から先が、シルバーアッシュの太ももに置かれる。ぞくりとした。なんの意図もなく、そこに力なく投げ出された手。布越しに、肌が痺れるような心地がした。
 ぐったりと身を預けてうつむいているドクターの姿は、ひどく無防備に見えた。伏せられたまつ毛を、シルバーアッシュは見つめていた。「声」が聞こえたのは、彼の後方からだった。
「下品な目だ」
 腹の下が一気に冷える。氷水を喉に流し込まれたかのように。
「失望するよ。いま、そいつがお前の顔を見たら」
 背後から、二人を覗き込んでいるのだろうか。シルバーアッシュは「声」を振り払おうと、使用人に頼まれていたことをドクターに訊ねた。ほとんど無意識のうちに、唇の端をわずかに持ち上げて、品の良い笑みを作ろうとする。
「昼は食べるだろう?」
「うん」
 ドクターは頭を胸に押しつけたまま、ミリ程度に動かして頷く。
「なにがいい」
「なにを作れるの」
「お前に合わせる」
「じゃあ、サンドイッチ」
 太ももに置かれた手に、シルバーアッシュが手を重ねる。
「手をどけろ」
 後ろからそんな声が聞こえたが、従わなかった。ドクターが顔を上げる。大きな目が、シルバーアッシュの目を見つめた。吸い寄せられるように、シルバーアッシュもまた目を覗き込んだ。背後の「声」は、いつのまにか消えていた。

「まるでストーカーだな」
 その数か月後、「声」がそんな風に呆れるのを聞きながら、シルバーアッシュはロドス艦内の執務室へと向かっていた。
 ドクターは彼を快く出迎えたうえに、クッキーとコーヒーも出してくれたが、「仕事があるからこのままでいい?」と言って、机で書類を仕分けながらの会話になった。来客用のソファーとテーブルに通されたシルバーアッシュは、誰も座っていない真向いのソファーと、やや遠くにあるデスクとを見て恨みがましそうにしながらも、ドクターと話す時間ができたことには素直に喜んでいた。
「今度、ふたりで食事をしないか」
「ああ、食堂で?」
「違う」
 ドクターの言う食堂とは、ロドスに備えられている飲食スペースのことだろう。
「そうではなく、外での食事だ。龍門でもヴィクトリアでもいい。お前と休暇を擦り合わせて」
「いいけど」
 視線を書類に向けたまま、そっけなくドクターが返す。
「いいけど、じゃあそれに付き合う分、私の用事にも今度付き合ってよ」
 続いたその言葉に、シルバーアッシュはむしろ喜んだ。頼まれごとでも何でも、ドクターから任されるものであれば、なんだって甘やかな興奮をもたらす。
「どんな用事だ」
「今度、考えておく」
 しかし返事は、さっき以上にそっけないものだった。今すぐに思いつくほど、シルバーアッシュにして欲しいことなどないのかもしれない。どうでも良さそうに断られた方が、落胆せずに済んだかもしれないとシルバーアッシュは思った。
「飲み終わったら帰ってね」
「飲み終わったら帰ってね、だってさ」
 追撃するように、「声」がドクターの言葉を真似た。いつのまにか、ソファーの隣に座っている。「声」はフードを被らず、フェイスシールドも外しているので首から上があらわになっている。意地悪そうに、口元を歪めて笑っていた。対する本物のドクターは、フェイスシールドまできっちりと身に着けているため、この距離では表情さえも伺い知れない。
 久しぶりのお喋りが嬉しくて、ペースを考えずに飲んでいたせいか、コーヒーはもうカップの底が見えそうなほどの量になっていた。皿に盛られたクッキーも、残りわずかである。約束を交わせたというのに、来る前よりも気落ちしながら、シルバーアッシュは執務室を出ることになった。

 しかし意外なことに、ドクターの言う「用事」はすぐにやって来た。シルバーアッシュが執務室を訪ねた翌日、ドクターから電話がかかってきたのだ。
「一緒にプールに来てよ。ロドスの中にある室内プール」
「プール?」
 ドクターの口から聞くには、あまりに馴染みのない言葉だったので、思わず聞き返した。
「うん。泳ぎたいから」
 シルバーアッシュは信じられない気持ちになりながらも、飛び上がりそうなほどに喜んでいた。用事といったって、殲滅作戦に参加してくれだとか、そういったものだろうと想像していたのに。プールなんて、まるで学生同士のデートのようだ。口元を緩めながら「お前の空いてる日はいつだ」と尋ねる。ドクターは一瞬考え込んで、「いつがいい」と聞く。
「お前に合わせる」
 そう答えながら、そういえば似たようなやり取りをした気がするとシルバーアッシュは思った。
「じゃあ、今日」
 子どもっぽい口調でドクターが言う。シルバーアッシュがロドスを発つのは明日だ。笑みを滲ませた声で了承する。「声」は端末の反対側にぴったりと耳を寄せて、二人の会話を聞いていた。彼にとっては、このやり取りの何もかもが面白くないのかもしれない。
「今日の、夜十時ね」
 ドクターはそう言い放ち、返事を待たないまま電話を切った。夜十時? 奇妙に思いはしたが、それ以上の追及はしなかった。

 室内プールは、あたり一面真っ暗だった。照明ひとつ付いていない。室外の通路やホールに面した小窓がやや高いところにあり、そこから入り込む光だけが光源だった。プール内の水は、その暗さのためか黒々とぬめりを帯びた油のように見える。ほんのわずかな光を受けて、てらてらと反射するプールサイドやデッキチェアが、奇妙な妖艶さを帯びていた。
 人の気配もない。当然だろう。さっきまで施錠されていたのだから。静まり返った室内に、二人分の足音がぺたぺたと響く。シルバーアッシュはあたりを見渡しながら、ドクターの後をついていった。
「本当はね、昼間しかプールは使えないんだ」
 後ろを振り返らないまま、ドクターが言う。
「昼間でも、監視員がいなきゃ泳げないことになってる。安全性のために」
「だからあの鍵か」
「うん」
 さっき、ドクターが取り出した鍵を思い出す。よろしくない手段で持ち出したに違いない。少なくとも、バレたら大目玉を食らうような方法で。
 ドクターは不意に、デッキチェアのすぐそばに立ち止まった。そしておもむろに、身に着けていた防護服を脱ぎだす。小さな子供がセーターを脱ぐような動作で。シルバーアッシュが呆気に取られているうちに、ドクターはぜんぶ脱いでしまった。くしゃくしゃになった防護服を、畳まずにデッキチェアに置いてしまう。
 彼は服の下に水着を着ていた。黒のラッシュガードだ。ぴったりと肌に張りついたそれは、体の薄さをひどく強調していた。すんなりと細い手足。笑えるほどに凹凸のない体。見てはいけないものを見てしまったような気がして、シルバーアッシュは目を逸らした。肌の下で血がざわめくのを感じた。
「更衣室はどこだ」
 目を逸らしたのをごまかすためにも、彼はそう聞いた。ドクターのように、今ここで着替えるのはさすがに気が引ける。しかしそれに対して、ドクターはゆるく首を振っては「いらないよ」と答えた。意味が分からず黙り込んだシルバーアッシュに、くるりと背を向けてプールに足を入れる。
「そこで見てて」
 ドクターはゆっくりと、緩慢とも言える動作でプールの中に入り、二本足で立った。そのまま水中を歩き出す。
「この前、ようやく泳げるようになったんだ」
 水圧のせいか、ドクターの歩き方はいつも以上に遅い。遅すぎて、波さえ立たないようだった。水面が、もどかしげにゆらゆらと揺れるだけである。
「体力づくりにもいいって言うし、もっと泳ぎたいんだけど、インストラクター付きじゃないと私は泳いじゃダメだって」
 もっと小さい子だって、プールの監視員さえ居れば自由に泳げるのに。そう不満そうに言うものの、彼の運動能力がどれくらいか分からないシルバーアッシュの目からしても、その薄い体を見ているだけで不安を覚えるのは確かだった。
「だから私を?」
「そう。溺れないように見てて」
 体がほぐれてきたのか、ドクターは上半身を沈めて、本格的に泳ぎ始めた。さっきと打って変わって、ばしゃばしゃと派手にしぶきが上がる。
「…………」
 シルバーアッシュは、しばらくそこに立ち尽くした後、空いているデッキチェアに腰かけた。もしかしなくても、自分は舞い上がっていたんじゃないだろうか。見ていて恥ずかしいくらいに。そんな風に彼は考えた。
 懐には、新品の水着があった。ロドス内の私室に常備してるわけもないので、購買で今日の昼間に買ったものだ。今から数時間前には、頭に思い浮かべていたはずの浮かれた妄想を彼は振り払おうとする。ドクターの姿を探すも、この暗闇の中では水しぶきに隠れてほとんど目視できない。ドクターからすると、本当に誰でもよかったのだろう。シルバーアッシュが相手だからこそ思いついたものではないはずだ。それが一層彼の心を暗澹とさせた。
 見ると、プールサイドの端の方に、あの「声」が立っていた。さすがに水着姿ではなく、いつもの防護服を着ていた。こちらを見てにやにやとしている。意気消沈しているシルバーアッシュの姿が、愉快でたまらないのかもしれない。途中、泳いでいるドクターが「声」の足元を通り過ぎると、視線をそちらに向けて屈みこんでいた。ドクターに手を伸ばすも、すぐにその腕を引っ込める。触れられないのかもしれない。シルバーアッシュ以外には見えもしないのだから、当然と言えばそうか。
 シルバーアッシュはぼんやりと「声」の姿を見ていたが、その背後に、非常口の誘導ランプに似たものを見つけた。発光していないので読むのに時間がかかったが、そこには矢印のマークと、「更衣室」という言葉が印字されていた。

「ドクター」
 そう呼びかけられ、ドクターはプールの真ん中で顔を上げた。暗闇の中で目を凝らすと、プールサイドに立つ白い人影がぼんやりと見えた。水着を身に着けたシルバーアッシュだった。周囲に脱いだ衣類が見当たらないのを見ると、更衣室で着替えてきたのかもしれない。無心で泳いでいたので、いなくなったことに気がつかなかった。
「君も泳ぐの?」
 そう訊ねるドクターの、長いまつ毛をシルバーアッシュは見ていた。水に濡れたせいか、化粧をした女性のそれのように濃く束になっている。答えないまま、水面に足先を入れた。全身に鳥肌が立つ。冷たさのせいではない。足を踏み入れるこの瞬間に、一線を越えてしまうような気がしたのだ。水面は、拒絶するように彼の肌を締めつけた後、ある一点でぷつりと水圧が途切れる。体が驚くほど軽くなった。
「フォームがぎこちないな。誰かに指摘されなかったのか」
「だって、教えてもらった時は、泳げるようになっただけでも花丸だって」
「ずいぶんとお前を甘やかしてるな」
 シルバーアッシュが、水をかき分けてドクターに近づく。すると、手を伸ばすと届くだろうという距離になって、突然ドクターが抱きついてきた。
「――」
 驚きすぎて、声も出なかった。体が密着する。ほとんど素肌に近い恰好でこんなにも触れ合ったのは初めてだった。その抱きつき方に何かしらの含みは感じられず、例えるなら子供のコアラが、親にしがみつくのに似ていた。ドクターが顔を上げる。見つめるその瞳にも、他意は感じられない。犬や猫が人間を見上げている時のような、ただ純粋にこちらを見つめているだけなのだろう、と感じさせる目だ。
「どうしたの」
 ドクターが身を寄せたまま言う。驚くほど近くに、彼の唇があった。
「教えてくれるんでしょ」
「お前がお行儀よくしていたらな」
 シルバーアッシュはさりげなく、ドクターを下半身から遠ざけた。プールに立つシルバーアッシュに対し、ドクターは水面に軽く浮くような姿勢になる。手はシルバーアッシュの腕を掴んだままだ。
「ねえ」
 闇を映して黒々と輝く水面の中で、白く薄い体が浮かんでいる。
「替えの下着、ちゃんと持ってきた?」
「本気で聞いているんじゃないだろうな」
「私はね、忘れちゃった」
 目を瞬かせるシルバーアッシュに、ドクターが一瞬だけ目を細めた。その瞬間だけ口元が水に隠れていたので、笑ったのかどうかは分からなかった。
「だから、裸に防護服だけ着て部屋に帰るけど、みんなには内緒にしてね」
「それを言いふらす男に見えるか?」
「さあ」
 ふと横を見ると、プールサイドで「声」がしゃがみ込んでいた。肘をついて退屈そうに、むくれた顔をして二人を見ている。彼にしてみれば面白くも無いのだろう。自分からは触ることも認知されることもできず、シルバーアッシュに茶々を入れることしかできないのだから。
 不意に、この「声」はアーツでも何でもなく、単にシルバーアッシュの一部分であるような気がした。多重人格というほどでもない、彼の中の冷静な部分が形を得ただけで。しかしそのせいで、彼はドクターに触ることすらできない。自意識だけが肥大化しているのだ。シルバーアッシュによく似て、尊大で苛烈で、ドクターに付きまとう自分以外の男のことを嫌っている。本当に、滑稽なほどシルバーアッシュそのものだ。
「もしここに、私以外にもう一人いるとしたらお前はどうする?」
「君以外に?」
 ドクターが少女じみた眉を寄せて考え込む。シルバーアッシュは、初めて作った試薬を紙に垂らして、どんな色が浮き出るかを楽しみに待つ少年のような気持ちで返事を待った。回答は意外にも早く、彼は分かり切ったことのような顔をして
「本当に誰かいるなら、君はそんなにご機嫌じゃないと思うよ」
 とだけ言った。
「それもそうだな」
 シルバーアッシュもまた、そう短く答えた。
 水の中で細い腕を抱き寄せる。水面には、ドクターとあの「声」の、二人分の白い顔が映りこんでいた。

 

タイトルお借りしました:演繹