銀糸

※モブ若のような描写があります

 日が落ちて、段々と周囲が薄青く染まっていく時間帯。
 ぽつぽつと酒場の明かりが目立ち始めたのを見て、今日はどこで飲もうかと考える。騎士団の仕事を終えたばかりの体は程よい疲労感に包まれていて、そこにどんな酒を流し込もうかと考えるだけで胸が沸き立つのを感じた。
 エンジェルズシェアに向かおうと、大通りを歩く。夜を迎えても、自由の国モンドは活気に溢れている。夜風に乗って届く喧騒を心地よく思いながら、周囲を見渡した。すると、ふとあるものに目を吸い寄せられた。
 料理屋「鹿狩り」の周囲にある、テラス席。そこに、一人の男が座っていた。
 和服と呼ぶのだろうか。稲妻でよく見るような、変わった衣装に身を包んだ男だった。白い布地の中に銀糸を織り交ぜているのか、青く透き通った夜の景色の中で、光を含んでいるかのように淡く輝いている。
 その格好だけでも随分目立つ男だったのだが、それ以上に目を引いたのが、彼の横顔だった。
 抜けるように白い肌をしていた。くっきりとした目鼻立ちが、前髪の隙間から除いている。その目が、怖いほどに澄んでいた。
 そこまで見て、自分が立ち止まっていることにようやく気づいた。いつのまにか、彼に見惚れていたらしい。胸に沸き立つよく分からない感情を抑え込みながら、エンジェルズシェアに続く道を横目で見た。いつも通り、酒場の明かりが点々と浮かんでいる。けれど、彼の姿を目にした途端、それらがひどくつまらないもののように見えてきた。
 もう一度、彼に目を向ける。彼は品のある仕草でテーブル席についているのだが、何となくその表情に、退屈そうな雰囲気が表れている。声をかけていいものか。そう悩んでいるうちに、不意に彼がこちらを振り向いた。
 目が合った。しまった、と思った瞬間にはもう遅かった。けれど、予想外にも彼はうろたえなかった。その反対に、こちらに目を合わせたまま、微笑さえ浮かべてみせた。どこか不思議がっているような、からかうような表情が目に浮かんでいる。
 見ず知らずの男に見られているのに気づいても、それに困惑さえしない。こういうことに、慣れているのだろうと分かった。声をかけていいものかという躊躇が一瞬で消えていった。
「──隣、空いてるかな?」
 彼がちらと上目遣いにこちらを見た。そのまつ毛が長いことに、今初めて気がついた。
「ええ、どうぞ」
 穏やかな声だった。知らない男に話しかけられても、うろたえも怯えてもいない。
「──珍しい格好だね。稲妻の人かい?」
 彼はまた「ええ」と頷いた。
「観光で来たんです。今日、着いたばかりで」
「やっぱり」
 彼の首筋を視界の隅に入れながら頷いた。淡い色をした髪のほつれ毛が、細い首に絡んでいる。
「稲妻は一度も行ったことが無いんだけど、噂話とかはよく耳にするよ。すごく綺麗な姫君が稲妻にいるってよく聞いてね──」
 彼が話題に興味を持ったことを確認しながら、言葉を選ぶ。
「だから、君がそのお姫さまなのかなって思っちゃったよ」
 もちろん、これは軽い冗談だった。流石にキザすぎただろうか、と不安になったが、その心配は杞憂だった。
「まさか」
 彼がくしゃりと笑った。さっきまでの整った微笑とは違う、吹き出すのを堪えているような、「素」の部分を感じさせる笑顔だった。
 笑うと、ずいぶん幼い顏になるんだな。そう思いながら言葉を続ける。
「そうなの?でも、すごく綺麗だ」
 これは本心からの言葉だった。夜を迎えて、周囲の景色は水槽の中のように青く染まっている。その中で、彼の横顔だけが月のように白い。
 彼は返事をしなかった。その代わりのように、不意に真正面からこちらに顔を向けた。澄んだ瞳と、至近距離から見つめ合う。白い顔に、どくんと胸が脈打つのが分かった。
「……モンドに、友人とかはいるのかい」
 まるで思春期の子供のように、舞い上がっている自分に気づいた。喉の奥が、急速に乾いていく。別に、今夜すぐに彼と何かしらの関係になりたいと思っていたわけではないのに。ただほんの少しの時間、彼と楽しく酒を飲み交わせたら楽しいだろうと思っていたはずが、声が震えないようにするのがやっとだった。
「家族がね、いるんですよ」
「へえ」
 つい最近まで稲妻が鎖国をしていたのを知っている。それなら会えなくて寂しかっただろう。
 そう思った瞬間に、奇妙な視線に気がついた。ぞわ、と強い寒気が背中を走る。冷水を被ったかのように手足が冷たい。その視線の正体について、確かめたくない、と思うのに、見なければとも思う、本能的な恐怖があった。
 視線を動かす。意外なほど近くに、その原因がいた。
「鹿狩り」の、注文用のカウンターの前に、一人の男が立っている。金髪の、若々しい見た目の男。いかにもモンド人らしい佇まいなのに、その顔に浮かんでいるのは同胞とは思えないもので。特別怒りが顔に出ているわけではないのに、こちらを見つめるその瞳に、明らかな悪意が滲んでいた。久しぶりに向けられる、純粋な敵意。もし周囲に人がいなければ、きっと自分は素手で締め殺されていただろうとさえ思った。
「──私ではなく、連れの家族なんですが」
 その声に、ようやく我に帰ることができた。気を取られていたせいで、前後の繋がりが一瞬理解できなかった。
 できるだけ感じの良い笑みを作り、彼に向ける。ほとんど無意識の反応だった。
「ごめんね、連れがいたのに気がつかなくて」
「いいえ」
 彼は変わらず綺麗な微笑を浮かべたままだ。もしかしたら、声をかけられた瞬間から、こうなることを期待していたのかもしれない。そう邪推してしまうほどに、楽しげな笑みをしていた。
 長居をしない方がいいだろう。そのまま席を立って去ろうとした時、意外にも彼に引き留められた。テーブルの陰で、彼の指先が袖をそっとつまんでいる。困惑していると、目を合わせないまま囁くような声で彼が言った。
「声をかけてくれてありがとう」
 どこか子供じみた言い方だった。
「少し、心細かったから。……君のおかげで気が楽になったよ」
 寂しげな声だった。きっといま彼の顔を覗き込めば、迷子の子供のような顔をしているのだろうと思った。けれど、それを実行に移すことはできなかった。あの「連れ」が今もこっちを見ているだろうから。
 けれど、友人を連れているというのに、何を心細く思うことがあるだろう。もしかしたら、単なる観光のために来たわけではないのかもしれない。そう不思議に思いながらも、彼の指をそっと外しながらこう言った。
「もし、モンドで困ったことがあったらいつでも頼ってよ。僕は騎士団の──」

 トーマが席に戻ってくる。わざと視線を逸らしたまま彼を迎えた。何か言おうとしたのを気配で察し、それより先に口を開く。
「店員さんは何て言ってたんだい?」
「えっ?ああ」
 一瞬口籠もって、けれどすぐに聞かれた通りのことを教えてくれた。
「本当は予約制の店だったみたいですけど、稲妻からの観光客だって知ったら特別に席を空けてくれました」
「へえ。モンドの人は優しいね。トーマみたいだ」
「……もしかして、誤魔化そうとしてます?」
 彼の言葉に、つい笑みを浮かべてしまう。
「なんだい。まるで私が悪いことをしたみたいに」
「だって、ナンパされてたじゃないですか。あの男、オレに気づいてなかったら──」
「困ったことがあったら言ってくれって教えてくれただけだよ。西風騎士団に所属してるって」
 そう答えても、何か言いたげな視線は向けられたままだ。いつもみたいに、困ったように笑って済ませてくれる気はないらしい。少し、からかいすぎたかもしれない。
「彼の家に着いて行けば良かったかな」
「若」
 ぴしゃりと、いつもより低い声でそう遮られた。まるで、悪いことをした犬を躾ける飼い主みたいに。
「そんなんだったら、オレも意地悪しますからね。どんな風に紹介されるのか、今から楽しみにしていてください」
「おや、この人に馬車馬のようにこき使われてるとでも言うのかな」
「そっちじゃなくて……もう、本当に分からないんですか?」
 ようやく、彼の声にいつもの調子が戻ってくる。それを確認して、彼の顔を見上げた。普段通りの彼が視界に映る。大きな目と、快活そうな顔立ち。背後に映るモンドの景色は、嫌になるくらい彼にぴったりだ。
「大丈夫、君の母君の前ではちゃんとお行儀よくしてるから」
「……別に若が粗相をするとは思ってないですよ。お行儀よくっていうか、暴走するかもしれないのはオレの方ですし……」
「へええ?」
 何やら困り切っている彼の様子に、またからかいたい気持ちがむくむくと湧いて出てくる。お行儀良くする、と宣言した途端にこれだから、やっぱり自分は彼に不釣り合いなのかもしれない。
「楽しみだなあ。『家族』の前で暴走しちゃうトーマ」
 そう自分で言っておいて、その事実に少し打ちのめされた。今まで、トーマも家族だと言っておいて、本当の家族を前にした時、どんな顔をすればいいのか未だに分からなかった。
 それでも、隠し続けてきた手の震えはいくらか収まっていて、声をかけてくれた騎士団の彼に心の中で今一度感謝の言葉を送った。