四年生の頃、一日の終わりにする帰りの会に、「みなさんから」という項目があった。日直の「みなさんから何かありませんか」という号令を機に始まる。
その名の通り、生徒のみんなが何かしらの発表をする場になっていた。こまごまとした取り決めはなかったものの、話す内容はだいたい決まっていて、クラスメイトの功績をみんなの前で発表したり、その逆にクラスメイトがした「悪いこと」を晒し上げるかの二択になっていた。「きょう、宮田くんがテストで百点をとっていてすごいと思いました」や「けさ、龍成くんにあいさつをしたのにあいさつを返してもらえませんでした」とか「掃除の時間にふざけていた人がいました」という風にだ。その議題によって、みんなで顔を伏せて挙手するよう言われたり、個人が指名されたら起立して「謝ってください」「ごめんなさい」というやり取りがみんなの前で交わされる。
私も一度、起立させられたことがある。「今日、牛乳を残していた人がいました」と発表されたからだ(当時の私は給食というものを醜悪だと思っていて、白米にしか口をつけない日もあったし、牛乳パックを空けることすらしない時もたびたびあった)私含めた数人が立ち上がって、担任が明日からはちゃんと牛乳を飲みましょうと注意して終わった。
よく分からない場だったな、と今になって思う。吊るし上げの時間にしては、妙にうすぼんやりとした空気が流れていて、叱られる側に罪悪感が植えつけられるほどでもないし、クラス全体で自制心や団結力が培われるわけでもない。そんな奇妙な時間だった。
私はその「みなさんから」を含めて、帰りの会をあまり真面目に受けていなかった。これさえ終わってしまえば家に帰れる、と思って浮き足立っていたからだ。当時の私は、学校で過ごす時間というものに意義や情熱を見いだせなかった。囚人にとっての刑務作業にも似ていた。この時間さえやり過ごせば、遊んだり漫画を読んだりしても怒られない家での生活に戻れるから。
「この時間さえやり過ごせば」、こんな風に思うことを、中学になっても高校になっても、大学に行っても社会人になっても私はやめることができずにる。
その日の帰りの会の最中も、私は意欲的に発言することなく場をやり過ごそうと思っていた。「みなさんから」が始まって、誰も挙手しないまま早く終わってくれたらいい、と内心願っていたのだが、期待に反して一人の女子が手をあげた。私の後方の席に座っている子だった。
「風邪だと言っていたゆうたくんが、昼休みに校庭で遊んでいました」
それが彼女の発表だった。朝の出欠の時間に具合が悪いと嘘をついておいて、休み時間に遊ぶのは悪いことだという、そんな主張が言外から滲み出ていた。彼女の名前は思い出せない。黒髪のショートカットで、おさまりの悪い前髪をピンク色のピンで留めていた。帰りの会でよく発言していた子だった気がする。これだけのことは思い出せるのに、やはり名前は思い出せなかった。
私は前に向き直り、ゆうたくんを見た。彼は斜め左前に座る男の子だった。黒くてつやつやした髪を、ヘルメットみたいな髪型にした男の子だ。色白で、痩せていて、口数が少なく、夏場はなぜか白い半袖ばかり着ている子だった。彼は発言した女子に対し、うつむいたまま様子を窺うようなそぶりを見せた。彼の口がもの言いたげに小さく開閉して、けれど最終的に口をつぐんだのが私の席からはよく分かった。
いつもなら、ここでゆうたくんが起立して「ごめんなさい」を言えばそれで終わる流れだった。しかしそれより先に、見知った声が「せんせえ」と言うのを私は聞いた。
「ゆうた遊んでないですよ」
あかねちゃんの声だった。
「うちも校庭にいたけど、ゆうたはずっと非常口のところに座ってただけで、遊んでなかったです」
気がつくと、周囲のクラスメイトはみんな、あかねちゃんの方を振り返っていた。私は珍しくあかねちゃんが発言したことに驚いてか、もしくはいつもと同じようにぼんやりしていたせいか分からないが、前を向いたまま耳だけであかねちゃんの様子を窺っていた。椅子を引く音が聞こえる。今になって、起立せずに発言していたことをあかねちゃんが思い出したのだろう。
「なんで座ってんのって聞いたら、具合が悪いから休んでるってゆうたが言ってました。うちそのとき校長先生と喋ってたから、校長先生もそれを聞いてます」
「校長先生が」
担任が、どこか困惑したようにそう反応する。中肉中背で、おどおどとして、くすんだ青いトレーナーをいつも着ている担任。
ゆうたくんを見ると、顎を引くようにしてぎこちなく何度も頷いているのが分かった。教室がほんの一瞬静かになる。言い出しっぺの女子からの返答をみんな待っているのだ。しかしいくら待っても彼女からの返事はなかった。私は振り返るというより、肩越しに見るようにして彼女の様子を窺った。
その子は起立したまま、なぜか怒っているような、悔しがっているような顔をして机の上を見つめていた。彼女を見かねてか、すぐ近くの席の子が「謝った方がいいよ」と囁く。静かな教室ではその言葉がやけにはっきりと聞こえた。はやくなにか言えばいいのに、と私は思った。あかねちゃんの物言いに、彼女を責めるような響きは感じられない。糾弾されてるわけでもないんだし、「わかりました」でもなんでもいいから返事をすればいいのにと思った。
ここであかねちゃんが何かを言った。内容は思い出せない。ただ、それを聞いた途端に、怒ったような彼女の顔が、一気に泣き出しそうなものへと変わったことを覚えている。何を思ったのか、ガタガタと音を立てながら彼女が着席する。間の抜けた沈黙が、また教室を満たした。彼女が何も言わずに席に着いたので、落としどころが分からずみんな困惑している。「謝った方がいいよ」と言った方の女子が、担任の方を見て、その次に私を見た。はっとするほどに綺麗な顔の子だったが、そこに浮かんでいるのはどうにかしてくれという表情だった。どうして私を見るんだろう。何とかして欲しいなら、担任か、あかねちゃんに頼めばいい。
そう思っていると、隣のクラスから一斉に椅子を引く音が聞こえた。そっちはもう帰りの会が終わったのだろう。羨ましい。そう思いながら前に向き直ろうとしたその瞬間に、巨大なものが視界を横切った。
けたたましい音がした。静まり返っていたこの空気に怒りをぶつけるようにして。いつのまにか、着席していたはずの女子が床にへたり込んでいる。近くには椅子が一脚だけ転がっていた。言うまでもなく、あかねちゃんが投げたものだ。それが女子の頭上を通り過ぎ、壁に跳ね返った後、床にたたきつけられたのを、私はこの目でちゃんと見ていた。その際に、頭を庇って縮こまった女子が、勢いあまって椅子から滑り落ちたのだ。一拍遅れて悲鳴が上がる。クラスメイト全員分の悲鳴だった。
みんなが一斉に席を立って避難する。逃げ遅れた子も、机ごと身を引いてその女子から離れようとした。静止していた空間が、一気に賑やかなものになる。波のように視界を行き交う、カラフルなジーパンやTシャツの裾。私は憑りつかれたようにその場から動けなかった。視線を感じて振り返ると、ゆうたくんが私を見ていた。席を立ってはいたけれど、机の陰に隠れるようにしてその場にしゃがみ込んでいる。避難訓練の時に、机の下に隠れてくださいと言われた時に似ていた。
気がつくと、ほとんどの生徒が教室の隅に避難していた。残っているのは、あの女子と私と、ゆうたくんとあかねちゃんだけだ。私たちを取り囲むようにして、クラスメイトがドーナツ状に広がっている。なぜだかこの時、私はあかねちゃんよりもそのクラスメイト達の方を怖いと思った。
また、黒い影が教室の宙を舞った。今度は机だった。私が目を離している隙に、あかねちゃんが振り上げたのだろう。それもまた壁に叩きつけられる。二度目の悲鳴があがった。しかし今度は、煽るような、歓声めいたものも含まれていた。視界の端に、引きつったような笑みを浮かべた男子が映る。歓声はきっとこの男子のものだ。この状況を心から楽しんでいるのか、それとも、理解できない事態に対して、防衛本能のように無意識に浮かべた笑みであるのか。私には後者のように思えた。
「なにしてるんだ」という怒号がして、学年主任の先生が教室に駆け込んできた。ちょうど、机の中に入っていたあかねちゃんの教科書が、空中に投げ出されては床にバサバサと落ちていっている最中だった。学年主任の先生は、教室を一瞬見渡して、すぐに状況を悟ったらしい。
「帰りなさい」
彼がそう叫んだ時、クラスメイトが顔を見合わせた。動かない生徒に、苛立ったように彼が続ける。窓ガラスが割れるような大声で。そのせいか、彼の首筋に筋っぽい線が浮かんでいた。
「帰りなさい。はやく。先生たちが片づけるから」
その言葉で真っ先に動き出したのは、意外なことにへたり込んでいたあの女子だった。弾かれるように立ち上がり、教室後方のロッカーに向かうとひったくるようにランドセルを手に取って、そのまま廊下へ駆けだしていった。もちろん、教科書を詰めることもせず。その背中を学年主任が引き留めたが、彼女が戻ってくる気配は無かった。
張りつめていた空気が、ようやく解け始める。クラスメイトがめいめいに動き出した。担任と学年主任が、さっきまで彼女がいた場所に屈みこんで何かをしていた。その背中越しにそっと覗き込むと、水たまりのようなものがそこにあった。どうやら彼女が漏らしてしまったらしい。他のクラスの子まで様子を見に来ている喧騒の中で、先生二人が顔を寄せ合って話す声が耳に届いた。疲れ切った声で、声を潜めて。
「砂城か?」
学年主任の先生が訊ねる。
「は、いえ、はい、そうです。砂城です。いつもの、癇癪なんです。本当に……」
担任が途切れ途切れに答えるのが聞こえた。いつもはおどおどしてるのに、大人相手なら饒舌なんだな。私は妙に冷静な頭の隅でそう思った。
そこでふと、あかねちゃんの存在を思い出す。彼は自分のランドセルを引っ張り出すと、空のはずのそれを背負ってそのまま教室を出ようとしていた。そこらに散らばった教科書やノートが、まるで自分のものではないかのような顔をして。私は慌てて、自分のランドセルを取りに行った。教科書類を乱暴に詰めて、フタの留め具をしめないままあかねちゃんを追いかけた。
あかねちゃんは廊下の真ん中、そう遠くない場所にいた。息を切らして駆け寄る。留め具を固定してないせいで、跳ねるそれに体の重心を引っ張られる。それでもどうにか追いついて、ぶつかるようにしてあかねちゃんの肘を掴んだ。あかねちゃんは最初、ぎょっとしたように振り返り、けれど私だと分かった瞬間に、いつも通りの笑顔を浮かべた。いつも通り。本当にいつも通りの、何事も無かったかのような笑顔。
「一緒に帰ろう」
そう言うと、「おー」と笑って彼は答えた。私は珍しく、階段を一段飛ばしで降りていった。
「なんでそんなに急いでるん?」
あかねちゃんがのんびりと尋ねる。私は、一刻も早く背後の喧騒から離れたかった。階段を下りれば一年の教室、もっと行けば生徒用玄関がある。そこまで行けば、この騒動を知ってる生徒はいなくなるだろう。そこにしか酸素がないみたいな気持ちで階段を駆け下りる。あかねちゃんはのんびりとしながらも、階段の踊り場から踊り場へ、ほとんど一息にジャンプしていった。その顔に、後ろめたさや罪悪感といったものは浮かんでいない。本当に彼は、自分が起こしたことになんの感慨も抱いていないようだった。