小学生の頃、私はN市の一軒家に、父と母との三人で暮らしていた。
家は、私が保育園児になってから移り住んだものらしいが、狭く窮屈でボロボロだった。四年生の途中で、父方の祖父母が亡くなったのをきっかけに彼らの家へ移り住むことになるので、この家には長くても十年は住んでいないことになる。祖父母の家は広く、客間がふたつあるほどなので、私にとって前の家を去ることには大賛成だった。この家のことを私は生涯「一番目の家」と呼び続けた。
「一番目の家」は住宅地に建てられており、家を出てまっすぐ右に突き進むと水田があって、行き止まりになっていた。その水田に突き当たるまで、こまごまとした家々が向かい合って並んでいる。
学校から家に帰る途中、必ず川にかかった朱い橋を渡ることになる。橋は、大人なら二歩ほどで渡り終えることができそうなほどこじんまりとしていた。
私はその橋を渡るのがいやだった。夏場になると、ちょうど顔の高さで羽虫が飛び回っているからだ。目には見えないほどの大きさをした羽虫が、団子のように集まってそこに鎮座している。当時の私は、目をつぶり息を止めながら、その羽虫の群れの中へ突っ込んでいかなくてはならなかった。だから橋の前まで来ると、ランドセルの肩紐をぎゅっと握りしめて、勇気を振り絞る時間が必要だった。早朝は、まだ気温が低いせいか虫たちが姿を現さない。だから登校時の方が、まだ気が楽だった。しかし朝における「いいこと」は、それくらいしかなかったように思う。
川と水田が近くにあるせいか、家にはたびたび虫が現れた。当時から虫を毛嫌いしていた私は、それだけで家を飛び出したい衝動に駆られた。虫といってもムカデやゲジゲジのような虫ではなく、蟻やハエのようなものばかりではあった。けれども私は、虫が家に現れるのは父と母の怠慢であったように感じていた。虫が室内に出ないだけ、学校の方がまだ清潔であるように思えた。私は学校の醜悪さや不潔さを憎んでいたのに。
父が言うには、虫が出るのは隣の家の奥さんが犬を多頭飼いしているのが原因らしい。右隣には、五十を超えていそうな痩せ細った女性が家族と暮らしていた。彼女はチワワを最低五匹は飼っていて、それらの鳴き声が早朝から聞こえていた。家にいても聞こえてくるその声に、私はすっかり慣れ切っていたのだが、父と母がそれをどう思っていたのかは私には分からない。
さっきも言った通り「一番目の家」は私にとって狭く窮屈な場所だった。
間取りとしては、一階にリビングとキッチン、脱衣所と風呂とトイレがあった。二階には部屋がふたつあった。その二つの部屋のうち、片方が家族全員で寝るための寝室であり、もう片方が父親の私室だ。
今になって思うのだが、私が思春期を迎えたら両親はどうするつもりだったのだろう。当然ながら、私専用の個室はなく、着替えは全てリビングの茶だんすとクローゼットに家族全員分収納されていた。子供の頃と同じように過ごすのならば、私は高校生になっても居間で着替える必要があっただろう。
当然ながら子供部屋はなかった。しかしながら母親が苦肉の策で、「子供部屋のようなもの」をこしらえたことがある。キッチンの端、ガスコンロや流しから離れたスペースに仕切りを立てて、その内側に勉強机とカラーボックスを置いて、そこを私の部屋としたのだ。
しかし私室としてはあまり機能しなかった。仕切りとはいえ、それはどちらかというと装飾目的の、どこかの別荘にでも置かれてそうな見た目のもので、隙間から仕切りの向こう側がほとんど見えていた(どうぶつの森の「オリエンタルなスクリーン」という家具によく似たしろものだった)それに、母親がキッチンを使っていると、油の匂いや調理の音が私のところまで届いてしまう。それと巨大な食器棚がこちらのスペースにまではみ出していて、食器を出し入れするたびに母親がせわしなく部屋を出入りするので、正直落ち着かなかった。それよりは、寝室で勉強をしている方がよっぽど集中できた。寝室は、夜九時近くにならないと家族の誰も出入りしないからである。
なので、当初は「子供部屋のようなもの」を使っていたものの、しばらくしないうちに寝室の方で宿題をするようになった。ベッドの上で体育座りをして、膝の上にノートや教科書を置いてそこに書きつけていた。そういう時、私はかならず窓際に座り、カーテンがほんの少し背中に触れる位置をいつもの場所とした。寝室のカーテンは藍色で、ふくろうと月とお星さまの柄が散っていて、電気を消してベッドの中から見上げると、黄色いはずの月とお星さまが、なぜだか黄緑色に見えているのだった。
母親はデパートのブティック勤務で、小柄な背丈と七十キロはありそうな肥満体をしていた。全身のシルエットがムーミンママに似ていた。母親はそのぽっちゃりとした体つきに、勤めているブティックの服を着て、髪と化粧だけはいつもきちんとしていた。そのせいか、田舎の母親の中では品のある美人として見られていた。性格は穏やかで、けれども人を甘やかしすぎるきらいがあった。私は大学に入るまで、母親のいる前ではお茶をついだこともなかった。甘やかされたのは夫である父もそうらしく、彼の目に余る出費は、私が成人しても続いた。
父は食品会社の営業をしていた。有名な経営者が全国にあれこれ散らかした食品会社のうち、乾物が主体のところに勤めていた。しかし全国規模とはいえあまり儲かっているようには見えず、街中のビルに入っているような会社ではなく、一見すると平屋のような、昔ながらの児童館のような建物を事務所にしていた。
母は父を甘やかしてばかりと書いたが、父の方は自分を甘やかすのが得意だった。衝動性を抑えられず、あれこれ物を買ってはその場しのぎで欲望を満たして、すぐに興味をなくすのだ。私が覚えているだけでも、焼き肉用の機器を八つか九つは買ってきていた。そしてすぐに飽きて、ダイニングテーブルの端に寄せられ忘れ去られる。シャツやスーツも大量に買い込んでいるらしく、クローゼットを三つも四つも占領してしまい込んでいた(もちろん、一年に一度でも袖を通しているのは、そのうちのクローゼット一つ分もないだろう)
父は細身で、下腹は出ていたけれど、顔と手足は痩せていた。肌は酒焼けで赤黒くなっており、そこにサングラスを好んでかけるため、インテリヤクザのような風貌となった。冗談好きだが、その一方で子供のようにすぐ機嫌を損ねて癇癪を起こした。
私が小学生の頃の父は、ヤフオクにはまっていたらしい。その梱包のための段ボール箱が、必ず四つは玄関内に積まれていた。それが家の窮屈さに拍車をかけていたのだ。
父の私室は荒れ果てていて、CDケースのようなものが窓を遮るほどに積まれていた。そのために、CDの山の後ろにカーテンがくしゃくしゃになって押し込まれていた。当時にしては珍しく、デスクトップPCとノートPCを家庭用に二台持ちしていた。私も保育園の時からいくらか触らせてもらったことがある。けれども、飲み物でもこぼしたのか赤茶けた染みをカーペットの上に見つけてからは、何となく汚らしく思えてあまり父の部屋には立ち入らなくなった。