遺書代わりの小説8

 はじめてあかねちゃんと話した日のことを書こうと思う。
 私が三年生の時の真夏日だった。
 その日は、母親の友人が朝から家を訪ねてきていた。二人は居間のテーブルについて、子供の私には理解できないことばかりずっと話していた。
「でもさ、てるちゃんのご主人だって最初からそうだったわけじゃないでしょ?」
 母親の友人がそう言うのが聞こえた。私は居間の隣の台所で、何をするでもなくしゃがみ込んでいた。土曜日の昼間で、私は何もすることがなかった。友人が来るからと、昨晩母親がはりきって掃除をしていたおかげで、あちこち片付いていて、いつもより風通しが良かった。蒸し暑い日で、少しでも涼しくするために家中の窓を開けていた。
 ときおり入り込んでくる風を額に受けながら、私は暇を持て余していた。しゃがみ込んでいるせいで、台所の、樹液で覆われた木のように濃い茶色をした床が、すごく近い場所にある。ごみ出しカレンダー、ベルマーク封筒、そういうものがマグネットで貼られた冷蔵庫。そういうものを眺めては、母親たちが麦茶を飲みながら話しているのを、ぼんやりと聞いていた。
 十一時半になっても、母親がお昼を作る素振りを見せないので、私は立ち上がって「外で遊んでくる」と言った。
「家の近くでね」
 母親が居間の方から言った。不用心に思えるかもしれないが、当時の私は、一人で遊びに行くと言っても学校か近所にしか行かず、それも家の真ん前の道路にチョークでお絵描きする程度のことしかしていなかった。だから、今日もそんな風にして、目の届く範囲で一人遊びするだけだと思い込んでいたのだろう。
 何も持たないまま、玄関を開けて外に出る。鍵をかけ直したりはしなかった。そういう地域だったのだ。いつもみたいに、チョーク遊びをしたり、庭のミョウガをいじくったりして過ごそうとしていた私は、奇妙なものをそこで見た。
 あかねちゃんが居たのだ。私の家の前、というより、向かいの家の前にしゃがみ込んで、道路になにか書きつけていた。
 私の家の向かいには、変なおじいさんの住んでる家があった。両親が言うには、そのおじいさんは「気がおかしくなっている」らしい。「奥さんを早くに亡くして、気が変になってしまった」のだと。たしかに彼は、いつもそこにいない誰かを睨みつけているような、険しい表情をしていた。私が実際に彼を見かけることはあまりなかったが、いつ見ても白いランニングシャツに、トランクスみたいな薄手の半ズボンを履いていた。朝も夜も、冬でさえも。
 その家の庭、というより玄関前には、いろんな粗大ごみが放置されいた。大きなたんすとか、古びたちゃぶ台とか、テラス用の白いティーテーブルだとか。そういうものが、ずっと野ざらしにされていた。よく言う「ごみ屋敷」みたいに。
 そんな家の近くの道路に、あかねちゃんがしゃがみ込んでいた。
 私はまず戸惑った。あかねちゃんとは同じクラスだったけど、直接話したことは今まで一度もなかった。あかねちゃんがおしっこを引っかけてきたとか、チョークの粉をわざと服につけてきたとか言って、クラスの子が泣いて先生に言いつけている場面はたびたび見ていた。しかしそういう時、あかねちゃんはいかにも意地悪な男の子みたいににやにやしたりはせず、なぜかぼんやりと、その子や先生の周囲を眺めていることが多かった。実際にあかねちゃんがおしっこをかけたようには思えず、だからといって言いつけた子が嘘を吐いているようにも見えなかったので、私はいつもそういう場面を目にしては戸惑っていた。
 その昼間の真夏日、私の目を引いたのはあかねちゃんだけではなかった。彼の背後、「ごみ屋敷」の庭先に、白い、ホーロー製のバスタブが置かれていた。それ自体は、前からあったように思える。雨風に晒されて、あちこちが黒ずんでいた。私が注目したのはそこではなく、そのバスタブの中に、一匹の犬が横たわっていたからだ。大きい犬だった。長い金色の毛並みをしていた。おそらくゴールデンレトリバーだったのだろう。おじいさんが飼っている犬ではない。それがバスタブのへりに頭をもたれかける形で、バスタブの中に寝そべっていた。
 私はその犬に、異様なまでに目を引き付けられた。ブラックホールじみた不気味さがあった。真夜中にトイレに起きてきて、顔の無いぬいぐるみが床に転がっているのを目にした時に似ている。犬はこちらに背を向けていた。表情を確かめることはできなかった。それが余計に、不気味に見せたのかもしれない。
「Aちゃん」
 あかねちゃんが私に気がついた。彼が顔を上げて私を見る。一秒か二秒、見つめ合っていたのだが、すぐに彼は興味をなくしたように私から視線を外した。
「ここに住んでたんだ」
 道路になにか書きつけながら、彼が言う。親指ほどの、白く小さい石をチョーク代わりにしているらしい。しかし色が薄すぎて、線というよりもひっかき傷に見える。
「うん」
 そう答えながら、私はぞわぞわとしたものを感じていた。彼の話す声に、子供らしさを感じられなかったからだ。「ここに住んでたんだ」という言葉に、何の感情も込められていないような気がした。幽霊や、コンクリートや木々や小石に話しかけられたと感じるのにも似ている。木片同士がぶつかり合った音が、たまたま人語に聞こえたという感覚に近い。
 今思い返すと、あの頃のあかねちゃんは随分無口だった。そう言う私も、一年時から三年生にかけてはひどく話したがらない子供だったようだが。
 私は途方にくれたように、道路にしゃがみ込んでいるあかねちゃんを見つめていた。彼の丸めた背中越しに、バスタブと犬が見える。あかねちゃんが、その犬の存在をまるっきり無視しているのも奇妙だった。犬が見えていないかのような振る舞いだ。まさかあかねちゃんが、ここまで連れて来たわけじゃないだろうし。犬はやはりぴくりともせずに、だらりと頭を出している。私は思い切って、あかねちゃんに尋ねることにした。
「死んでるの?」
「え?」
「その犬」
 あかねちゃんは犬を振り返った。数秒の間のあとに、立ち上がって私に向き直る。
「起きとるよ」
 あかねちゃんは何故だか笑いながらそう言った。彼の半ズボンの裾が、小石の削りかすのせいかチョークで遊んだ後みたいにうっすらと白く汚れている。私は口の中で呟くようにして「そうなんだ」と言った。やはり犬はぴくりともしない。なんだか随分と恥ずかしいことを聞いてしまったような気がする。私はうつむいて、足元の草を蹴った。下を向いたほっぺが重い。するとあかねちゃんは、なぜだか妙ににやにやとしてこう聞いてきた。
「なんで死んでると思った?」
「……」
 私はうまく答えられず、黙って首を振った。ちょうどその時、犬がこちらを振り向いた。犬は鳴きもせず、ただ私と見つめ合った。黒々とした目の、もの悲しげな顔をした犬だった。なにかに絶望しているように見えた。あかねちゃんも振り返って、その犬を見た。しかし彼は、別段思うことはないらしい。特に犬に対して言うこともないまま、彼から見て道路の左手側へ目を向けた。私の家を出て、向かって右側の方だ。奥に行くと道路が途切れていて、水田で満たされている。事実上の行き止まりだった。
「あっちに学校見えるよなあ」
 彼の言うとおりだった。水田のずっと向こうには、蜃気楼みたいに私たちの通う小学校が見える。なので、その水田を突っ切って行くことさえできれば、わりあいすぐに(といっても子供の足で十分ほどはかかるものの)学校に着けるはずなのだ。だから普段私が使っている通学路は、遠回りするような形になっている。
「まっすぐ行けんのかなあ」
「うん」
 あかねちゃんがまっすぐに私を見た。
「一緒に行ってみいひん?」
 断る理由もなかった。私は「うん」とだけ頷いて、歩きだした彼の後についていった。
 それ以降のことはあまり覚えていない。ただ、私が家に帰る頃にはあたりが真っ暗になっていて、出迎えた母親が私を泣いて抱きしめていた。あかねちゃんはそばにいなかった。別に、けがをしたり行方不明になったわけでもないのに、どうしてこんなに泣くのだろうと思った。
 なんとなく私は、この日の犬についての問答で、彼とのゲームに勝ったような気がした。彼にとっては、いつ自分が提示したのかも分からない、曖昧模糊なゲームだっただろう。私の方も、勝とうと思って答えたわけではなかった、それでも、最終的に私はそのゲームに勝ち、彼のテリトリーに踏み入ることを許されたのだ。少なくとも私は、そんな風に思っている。