遺書

「私はね、いろんなオペレーターと友達でいるけれど、特に君とは近しい仲にあると思うんだ」

 テーブルを挟んで向かい合うようにして、ドクターとシルバーアッシュがソファーに座っている。いま、執務室にはこの二人しかいない。つまりドクターが今しがた口にした「君」は、シルバーアッシュのことを指していた。
 シルバーアッシュはその言葉を受けて、数回まばたきをしてから長い脚を組み替えた。彼にしては珍しい、動揺が表に出た仕草であった。
「それが嘘偽りのない言葉であると信じてもいいのか?」
「迷惑だった?」
「いいや。私自身、お前にそう思ってもらえる立ち位置でいたいと昔から考えていた」
「そう」
 ドクターは、お行儀よく両手を膝の上にのせている。その姿に緊張は見られない。目深にかぶったフードとフェイスシールドによって表情は読み取れないものの、彼はずいぶんリラックスしてこの会話に臨んでいるように見えた。
 シルバーアッシュの方は違った。傍目からはいつもと同じように見えるだろうが、胸の内は緊張によって張りつめていた。何故ならば、ドクターが彼に言い放った言葉はまさしくシルバーアッシュが長年待ち望んでいたものであり、それでいて一生をかけても、そのような言葉を引き出せないだろうとも思っていたからだ。
 盟友。ドクターへ呼びかける時、シルバーアッシュはよくその言葉を使っていた。しかしドクターの方から、同じ言葉を使って呼びかけられたことはない。友人と思っているのかも怪しかった。
「私と君の間に、利害関係はないと思ってる。もちろんロドスとカランドが事業的な契約を結んでいて、君がオペレーター登録をしている時点で、全く無いとは言い切れないわけだけど」
「ああ」
「それでもいざという時は、君は損得抜きで私のことを考えてくれると思ってるんだ」
「一字一句その通りだ、盟友よ」
 シルバーアッシュはやはりいささか緊張したまま、ドクターの言葉の続きを待った。こんなにも改まって友情を確認されるとなると、人によっては告白やらプロポーズやらが待ち受けていると勘違いするだろう。
 しかしこの男は、一般的な思考回路をしていない。ここまでお膳立てしたうえで、「君と友情を確認し合えた記念に」と安物のチョコを一粒渡してくるだけで会話を締めくくる可能性もある。予測のつかない対話をしてくるのがドクターという男だった。
 良かった、とドクターは言った。「君も私と同じ気持ちなことが分かって、安心した」と。
「それを踏まえたうえで、君に渡したいものがあるんだけど──」
 ドクターはそう言いながら、懐から何かを取り出した。それは、封筒に見えた。白い、なんてことない見た目をした、ごくありふれた封筒。
 差し出されたそれを、シルバーアッシュが受け取る。手に取り、なんとはなしにひっくり返して、表に書かれていた言葉が彼の視界に入る。「遺書」とそこには書かれていた。おそらくボールペンによってだろうと推測できる、手書きのインク字によって。
「……」
「あ、今から命を絶つとかじゃないから」
 思わず無言で視線を向けたシルバーアッシュに、ドクターは手を振ってそれを否定した。
「最近になって、自分はいつ死んでもおかしくない立場なんだなって、ようやく実感できてね。そうなった時、友人の一人くらいには、まあ何かしらの気持ちを伝えておきたいなあって思ったんだ」
 ドクターはどこか軽率にも思える口調でそう説明する。それでも、封筒に書かれた二文字の単語を見つめる目から、深刻そうな表情が消えることはなかった。それを見て、ドクターが言葉を続ける。
「それにこれは、遺書であって遺言書じゃないから」
「というと、つまり」
「例えばロドスの機密事項に関する情報とか、それに付随する権利の相続みたいなのは、全然書かれてないからね。私が個人的に、君に伝えたいと思った心情的なことしか書いてないから」
 だから、安心してね、と彼は言った。フェイスシールド越しであっても、その声の穏やかさはシルバーアッシュにきちんと伝わった。まるで明日の献立について話すようであり、遺書という単語に付属する悲観的なイメージはそこにない。ドクターは数秒間、シルバーアッシュの反応を窺い──不意に子供のように首を傾げた。
「残念だった?」
「なにがだ」
「相続に関係ないって分かって」
「いいや」
 シルバーアッシュが首を振る。残念? むしろ彼は歓喜していた。ドクターの内面に関わる、個人的なこと。それは彼が一番に望んでいるものだった。友人から贈られるものとして、きらびやかな肩書きも、多額の財産もシルバーアッシュは望んでいない。ドクターから吐露される、ひどく内密な心情。命に代えてもそれを手に入れたいと思うオペレーターがどれだけの数いるだろうか。
「何度も言うけど、それは遺言書じゃないから。君にはそれを読む義務も管理する義務もないからね。すぐ破り捨てちゃってもいいし。そうされると、まあ、私が少ししょげ返るだけだし」
 ドクターは防護服から伸びた足先で、ざり、と執務室の床を掻いた。シルバーアッシュはその仕草を、ひどく愛おしいものであるような目をして見つめていた。愛おしく、慈しむべきものであり、そして自分が独占する権利を持ったもののように。

 シルバーアッシュが次にロドスを訪れた時、ドクターはあるものを懐から取り出して彼に渡した。それは、以前託したものとほぼ同じ、なんてことない無地の封筒だった。表面に書かれた「遺書」も変わらない。使われているペンの種類、わずかなインクの溜まり方まで同じような気がした。
 それを受け取ってすぐ、光に透かすようにひょいと封筒をかざしてみせた後に、シルバーアッシュはこう尋ねた。
「以前の続きか?」
「ううん。改訂版」
 ドクターはこともなげにこう言ってみせた。最初の「遺書」を受け渡しして、あれから二か月も間を空けていない。
「時間が経った分、気持ちが変わることだってあるだろう?」
「それはそうだが」
「前に渡した分は、破棄していいよ。まあ、読み比べて変化を楽しみたいって言うんなら別に止めないけど」
「いいのか?」
「私の管理下を離れて君の手に渡った時点で、全ての権利は君にあると思ってる」
 シルバーアッシュは、手の中の封筒をじっと見つめた末に「前のものと取り違えないようにしなくてはならないな」と呟いた。
「表に番号でも振っておけばいい?」
「必要ない」
 シルバーアッシュは美しい微笑を浮かべながらそう答えると、受け取ったばかりの封筒を懐にしまい込んだ。

 またロドスを訪問すると、ドクターはやはり「遺書」と書いた封筒を渡してきた。そうなるだろうと予想できていたシルバーアッシュは、特に驚くことなくそれを受け取った。
 しかし懐に仕舞う前に、手にした封筒を軽く揺すった。中に入っているのだろう、折りたたまれた便箋の重みが彼の手首にかすかな手ごたえを感じさせる。ドクターから「遺書」を渡されるのはこれが三度目であるが、その過程で封筒が特別軽くなったようには思えなかった。
「私に手記を遺してくれることはありがたいが、逆にお前の負担になっていやしないかと不安になるな」
「私が好きでやってることなんだから気にしなくていいよ」
「手書きじゃないとはいえ、ワープロでこの文字量を打つのは手間にならないか?」
 シルバーアッシュがそう訊ねると、ドクターは彼を見上げた後、無言のまま数秒間彼を見つめ続けた。意図が分からず、シルバーアッシュもその目を見つめ返す。蛍光灯のすぐ下にいるせいか、フェイスシールドの奥がやけにはっきりと見通せた。色のうすい、大きな目がじっとこちらを見つめている。
「知ってるんだ」
「なにがだ」
「それがワープロで書かれてるってこと」
 うすく笑みを浮かべたまま、シルバーアッシュの顔がわずかにこわばる。
「『遺書』が手書きで書かれてるのを見たら、中の文書も手書きだと普通は思いそうだけど」
 口の中で呟くようにドクターが言う。痛いほどの沈黙が二人の間を満たしていき──「悪かった」というシルバーアッシュの声が、その静寂を最初に打ち破った。
「中の遺書を読んだ」
「そうだろうと思ったよ」
 どこか居た堪れなさそうに自身の行いを打ち明けたシルバーアッシュに反して、ドクターは何事もなかったかのようにそう答えた。「君の手に渡った時点で、全ての権利は君にあると思ってる」とは言ったものの、暗黙のルールとして存在する「生前には開封しない」を破られたにも関わらず、ドクターはずいぶんけろりとしている。
「中を見たのは、最初の一通だけだ」
「それも予想通りだ」
 ドクターは静かにそう言った。
「私が生きているうちに、最初の遺書にだけは目を通すだろうと分かっていた。それは私を軽んじているためにしたのではなく、不安だからこそしたんだろう?君はこれが本当に『遺書』であるか確信が持てなかった。私がちょっとした悪戯として仕掛けたものだという可能性を君は捨てきれなかったんだ。たとえば、中には白紙の原稿が入っているだけだとか──」
「……」
 シルバーアッシュはそれ以上釈明しなかった。あれの中身が正真正銘の「遺書」であった以上、ドクターの思いを軽視したのは事実であり、情状酌量の余地はないと考えていたからだ。そしてそう自覚していたからこそ、中を覗き見たことを隠し通そうとしていたのだが──
「嫌じゃなかった?」
 不意にそう尋ねられ、シルバーアッシュは我に返った。見ると、ドクターは先ほどのように、感情の読み取れない目でシルバーアッシュを見上げている。そこに嫌悪も苛立ちも浮かんでないように思えた。
「そこに書かれていたのを読んで、嫌な気持ちにはならずに済んだ?」
「……お前の内面を知って、後悔するような男に見えるか?」
 素直に認められなかったのは、罪悪感のためだろうか。それでもドクターは、にこりと笑った後に「よかった」とだけ返した。「君にとって迷惑だったらどうしようってずっと思っていたから」と。
「できれば次からは中を読まないでね。別に君の好きなようにしてもいいんだけどさ。私がなんだか照れくさいし」
「ああ」
 シルバーアッシュはそう答えて、自分でも無意識のうちにフェイスシールド越しの頬に触れようとしたのか、その顔へ手を伸ばしていた。しかしドクターは、まるで煙でも避けるかのようにひょいと上半身を反らしてその手をよけた。シルバーアッシュはすぐ我に返って手を引っ込めた。それ以上の進展は、その場では起こらなかった。

【エンシオディス・シルバーアッシュへ
 長い間、君には親切にしてもらったね。この手紙が開封されている時、私はもう死んでいるのかと思うと妙な気持ちになってくる。けれど、それより先に君が死ぬか、開封されないまま忘れ去られるかして、誰にも読まれないまま塵になっていく可能性だってあるのかと考えると、そう気負って書く必要はないんだと思えてくるよ。
 君の方も、そう重々しく捉えないで、お茶でも飲みながらこれを読んで欲しい。
 今思うと、君に伝えていないことがたくさんあるように思える。たとえば君について私が好きだったところなんかは一つも挙げていないような気がしてきた。だから代わりにここで挙げさせてもらうと、私より体温の高い君の手は、多分君が思うよりも私は内心気に入ってたよ。
 あとはその顔も、今思うとずいぶん好きだった気がする。死んだら君の顔を拝めないなんて残念だ。
 君は声もよかったね。色んな人に聞かせてあげれば良かったのに。オペラ歌手になれとまでは言わないけど、今からでも、もっとお喋りになってみたら?
 君には親切にしてもらったと最初に書いたね。それは本当にその通りで、ロドスに対する物資援護もそうだし、君は私個人の気持ちも軽くしてくれたんじゃないかな。
 君は私のことを「盟友」だとずっと呼んでたけど、確かに私たちは一貫してお友達だったのかもしれない。
 「もしお前の人生を救ったのは誰だ」と死後に訊ねられることがあったとして、私はロドスで色んな人にお世話になったから誰か一人の名前を挙げるのは心苦しいんだけど、それでも一人選ぶとしたらそれは】

 そこまで読んで、シルバーアッシュは文面をなぞっていた目を伏せた。この封筒に入れられていた時と全く同じように、折り目に沿ってきちんと畳み直す。
 それは、一番初めにドクターから託された「遺書」だった。ドクターが生前のうちに開けたものとしては、最初で最後のものである。他にまだ、七通ほどシルバーアッシュは所持しているが、それらを開封する予定は今のところない。遺書の書き手が、まだ健康に生きているからである。
 シルバーアッシュは、ふつふつと湧き上がるものを抑え込もうとして、近くに転がっていた枕を手持ち無沙汰に引き寄せた。彼はイェラグに建てられた屋敷の、私室のベッドに腰かけてこれを読んでいた。
 以前、彼はこの手紙を最後まで読み終えたことがある。だから、既に数回は同じ文面に目を通しているはずなのに、彼は穏やかな気持ちで読み終えることが未だできずにいた。
 他七通は、ドクターの希望に沿って開封しないままにしていた。それらは私室の金庫の中にしまい込んでいる。
 その七通を読まずにいること。それはシルバーアッシュの自制心をもってしても難しかった。意中の相手に愛されている証拠がそこにあり、相手が生きているうちにその実情を知ることができないというのは、なんて残酷なことだろう。
 既に開封してしまったこの一通目に限ってでもいいから、彼はドクターにこう求めたくてたまらなかった。ここに書かれていることを、目の前で読み上げてくれないかと。
 金庫にしまい込まれたいくつもの遺書たちは、そこに在るだけでシルバーアッシュの意識を吸い寄せて離そうとしない。頑丈に作られた金属の檻の中で、ひそやかな笑い声をたててこちらの姿を観察しているようにさえ思えてくる。くすくすと吐息交じりの声を上げて、一人思い悩むシルバーアッシュの姿を笑っているのだ。
 いつか、ドクターが本当に死んでしまった時、彼の遺体はこの世界から魔法のように消えてしまって、いくつもの遺書と引き換えに、新しい肉体を得た彼が、金庫の中でうっとりと眠っている妄想まで時折頭に思い浮かべてしまう。
 もし本当に、そうなってしまえばどれだけ良いだろう。少なくとも、そうやって生まれ変わったドクターは、シルバーアッシュただ一人のために存在しているのと同じだろうから。
 シルバーアッシュはため息をつきながら、読みかけの遺書を封筒にしまい、金庫の中へと戻す。今日もまた、他の遺書へ手をつけずにいた彼を褒めるように、白く細い手が彼の頬を撫でたような気がした。