『お昼 いっしょに食べませんか』
平日の昼間、突然送られてきたそのメッセージをもう三度は読み直した。オフィスの自席で、大きく息をつきながら椅子の背もたれに身を預ける。窓の外では、のんびりした青空が広がっていた。
相手は、トーマのお友達の男の子だ。同じ学部の子らしい。この前トーマと出かけている時にばったり会って、流れでLINEを交換した。断る理由もなかったら。けれどそれ以降、今日に至るまで一度も連絡は寄こされなかった。
そういうもんだろう、と納得していた。社交辞令として交換しただけだ、と。それなのに、今日突然このメッセージが送られてきた。
時間はちょうど十二時前だ。会食の予定も、立て込んでいる仕事も無い。どんな文面で返すべきかで三分悩み、最終的に「行けます」のスタンプを送った。可愛らしいうさぎが敬礼しながらそう宣言しているやつ。こういう時スタンプは便利だ。文明の利器だと思う。既読が付いて数十秒もしないうちにとあるラーメン屋の食べログのURLが送られてきた。
「あやとさんの会社の前でまってます」
財布だけ手にして会社を出ると、その子は駐車場を囲う生垣の、ブロック部分に腰かけていた。駆け寄ると、こちらを振り向いてはにかむように笑った。
「エントランスで待ってても良かったのに」
そう言うと「だってこの格好ですよ」と彼が言う。いかにも大学生らしい、明るい色のたっぷりしたパーカー。小柄で、可愛らしい顔立ちをしている。目が大きい。耳が隠れるくらいの長さの黒髪をしていて、こういう感じの韓流アイドルがいたな、と思った。どことなくトーマにも似ている。大学生というのは、同じ雰囲気の子でつるむのが普通なのだろうか。
「気にしなくていいんだよ」
「無理ですよ。アウェー感すごいし」
彼が生垣から腰を上げる。ズボンのお尻の部分を、子供っぽい仕草ではたき落とした。それを見て、何故か微笑ましい気持ちになる。うまくは言えないけれどこの子に対する警戒心がすっかり薄れてしまった。
連れていかれたラーメン屋は、昔ながらの中華屋という感じがした。行列ができていたり、野菜や肉が山のように積まれているような店を想像して勝手に気圧されていたので、少し安心してしまった。カウンター席に並んで座る。注文してすぐにラーメンが出来上がって、湯気がいっぱいのどんぶりが目の前に置かれる。私が五目ラーメンで、お友達がチャーシュー麺だ。
「綾人さんって、もっとそっけない感じの人かと思ってました」
「へええ、そういう風にトーマが話してるってこと?」
そう言うと「俺の口からは言えませんよ」と生真面目に返される。
「だって、すごいぞっこんなんですもん、あいつ」
「ぞっこん?」
「そう、ぞっこんですよ。べた惚れだし、めろめろですよ」
「おやおや」
「あのトーマが」
あのトーマって、どんなトーマのことを言ってるの。そう聞き返したくなった。私は大学にいる時のトーマを知らない。どんなふうに笑って、どんな目で見られているんだろう。
「前、みんなで合宿に行ったんですよ。三日間」
「うん」
「それで、トーマに冗談のつもりで『綾人さんに会いたいでしょ』って俺が聞いたんです」
「うん?」
「そしたらあいつ、すごく真剣な顔で『会いたいよ』って言ったんですよ」
思わず吹き出しそうになる。お友達の前で一体何を言ってるんだろう。あの子は。
「だから俺もびっくりして、他の奴らも、まあそいつらはちょっと面白がってたんですけど、みんなでトーマに言ったんですよ。『抜け出しちゃえよ』って。『こんな合宿抜けて綾人さんに会いに行っちゃえばいいじゃん』って」
私は笑ってしまった。最近の大学生というのは、みんなこんな風に無邪気でいい加減なんだろうか。抜け出せばいいなんて無責任なこと言って。
「でも、結局中抜けしなかったんですよあいつ」
「仕方ないよ」
「学生結婚しちゃえよ、ってみんなでけしかけてるんです」
嚥下したはずのスープが、口の中に戻ってきそうになった。慌てて水を飲んでそれを胃の方へ流し込む。
「綾人さん玉の輿っぽいから、きっと結婚式は豪華になるよとか、そしたら学部のみんなで出席すればいいじゃんとか、籍入れたら結婚指輪して学校に来てとか好き放題言われてますよ」
「大変だねえ、トーマも」
さすがにそれは同情してしまう。トーマの方も、言われてばっかりで嫌がらないんだろうか。
「でも、まんざらでもなさそうでしたよ」
「……」
「だからみんな茶化すんですよ」
トーマへの同情が一気に失せてしまった。スープを飲んだせいで喉の奥が熱い。
「スープ、飲み干す派なんですね」
「意外だった?」
「長生きしたいタイプなのかと思って」
「トーマのために?」
そう茶化してあげると、彼は楽しそうに笑った。
ラーメンを食べ終わり、店を出る。温かいものを食べたせいか、風が冷たくて心地良い。
「誘ってくれてありがとう」
ひどく穏やかな気持ちでお礼を言った。歳をとるたび実感するけれど、こうやって食事やら遊びやらのために声をかけて誘ってくれる人は貴重だ。「どういたしまして」と彼が言う。
「じゃ、大学こっちなので」
「うん」
だんだん遠ざかっていきながら、何度もこちらを振り返る。
「また誘いますから」
「うん」
「今度はトーマも一緒に」
「そうだね」
それから彼は、何かを逡巡するように口を閉ざした。数秒の間の後に、意を決したように口を開く。
「俺も今度、彼氏、連れてくるので」
その日の夜、洗濯物を畳んでいるトーマに「今日君のお友達とお昼食べたよ」と教えた。トーマは「え」と硬直した後に「なんで、誰と、ていうか何処で食べたんですか」と畳み掛けてくる。それに一つずつ答えてあげながら、つい「ふふふ」と笑ってしまうのを抑えられなかった。
「あいつ、オレには何も言わなかったのに」
「おや、私と会う時は君にお伺いを立てなきゃいけないのかい?」
「そういうわけじゃないですけど……」
彼は落ち着きなくそわそわし始めたかと思うと、たった今畳み終えたはずの洗濯物を、上から順に広げてはまた一から畳み直してしまう。多分、自分でも何をしているか分かっていない。
私は、別れ際に言われたことを考えていた。トーマもそれについて知っているとばかり思っていたが、この様子を見るにそうでもないのかもしれない。こういうのって、私みたいな第三者が他人に教えてもいいものなんだろうか。
「あの……変なこと、言われませんでしたか」
「変なことって、例えば?」
「……何も言われてないならいいんです」
「トーマは学生結婚したい?」
「ぶっ!!」
トーマが吹き出す。一瞬のうちに顔が真っ赤になっている。ジブリに出てくる犬か猫みたいに、髪の毛がぶわりと膨らんでいた。「やっぱり教えた……」と俯いている彼に私は言った。
「君がいいなら、今すぐ結婚しても私は構わないよ」
彼は赤面の余韻を目元に残したまま、少し恨めしそうにこちらを見た。
「……オレが稼げるようになってから、式は挙げさせてください」
「へえ、いい心がけだね」
「伊達に綾人さんの彼氏やってませんからね」
「働き者な旦那さんで嬉しいよ」
そう言いながら、彼の肩に頬を擦り寄せる。こういう風に、少しからかいながらじゃないと、私からじゃれつくのは今でもちょっと気恥ずかしい。
「綾人さんの方こそ、式を上げたいタイミングとか、入籍したい日とか無いんですか」
「君が私に愛想を尽かさないうちに、したいとは思っているけどね」
彼の手が頭を撫でる。髪に手ぐしを通し、指先で耳たぶを柔くもてあそぶ。
「オレは、綾人さんの気が変わっても無理やり結婚するつもりですけど」
「あはは、私の気持ちは無視する気かい?」
彼なりの冗談だと思って、茶化しながら肩に預けていた顔を上げる。けれど意外にも、彼は真面目な顔をしてこちらを見つめていた。真剣な目と視線が絡まって、どくりと心臓が跳ねる。
「綾人さんのこと、手放すつもりはありませんから」
大きな目が、じっと私を覗き込む。怖いほどに凪いだ、底の見えない瞳だ。自分の鼓動がうるさい。なんて返すべきなのか、何も思いつかないまま彼と見つめ合う。
そんな時間が数秒、もしくは数十秒も続いた後に、トーマは急にふっと目元を緩めてにこりと笑った。
「冗談ですよ」
そう言って、どこか所帯じみた仕草で畳終わった洗濯物を重ねる。私はドッと汗が噴き出すのを感じた。背中にじわりとシャツが張り付いて気持ち悪い。
「……最近のトーマはちょっと意地悪だね」
「誰かさんに鍛えられたんですよ」
「もっと、大学生の男の子みたいな、可愛いこと言ってくれてもいいのに」
「もう、綾人さんだって意地悪じゃないですか」
くすくすと笑いながらトーマが洗濯物を持って立ち上がる。鼻歌を歌いながら引き出しにしまっていく背中を眺めながら、昼間お友達に言われたことを思い返す。
『だって、すごいぞっこんなんですもん、あいつ』
『そう、ぞっこんですよ。べた惚れだし、めろめろですよ』
つまり、さっきみたいなのが「ぞっこん」って言うことなんだろうか。さっきの余韻を未だに残して、ほんの少し早い鼓動を打っている心臓を持て余す。もしかしたらトーマは、ちょっと怖い旦那さんになるのかもしれないなと思った。