恋人から電話がかかってきたのは、午後の仕事がちょうどひと段落した頃だった。着信名を確認し、電話をつなぐ。
「フィガロ?」
雑音越しに聞こえる恋人の声に、思わず頬が緩む。スマホを耳に当てたまま、席を立って喫煙所に向かう。デスクの間を通り過ぎていく際に、誰かが淹れたコーヒーの匂いが鼻を掠めた。似たようなスーツ姿をした同僚たちの姿と、コピー機が稼働する音。それなりに有名な外資系の会社ではあるけれど、働いて数年も経つと、つまらない仕事ばかりだと思うようになった。恋人との同棲生活があまりにも充実していて、そう感じてしまうだけかもしれない。
「すみません、仕事中に」
「ううん。大丈夫だよ」
廊下に出て喫煙所を見ると、運良く誰もいなった。そこに入り、通話の音量を上げる。開放的なオフィス、というのがこの会社の売りらしいけど、サボりづらくて個人的には好きじゃなかった。廊下と喫煙所を仕切る壁も、透明なつくりになっていて中に誰が居るか丸見えである。勤務中のたばこ休憩が認められているだけマシなのだろうか。
「いま、外回り中ですか?」
「違うけど。なんで?」
「いえ、会社の近くに今いるので、もし会えたらなあって思ったんです」
すみません、わがままですよね。申し訳なさそうにそう続ける声に、可愛いなあとつい思ってしまう。いつも礼儀正しくて控えめなのに、時々こうやって妙に積極的というか、人懐っこい子犬みたいになる。
自然と、今朝家を出る前に見た恋人の姿が頭に思い浮かんだ。行ってらっしゃい、と眠そうに言う声。今日は二限かららしく、まだパジャマを着たままで、やわらかそうな前髪が額に張り付いていた。まるで眠気の残り香みたいに。
「今どこにいるの?」
そう訊ねると、会社近くのスタバにいると彼は答えた。そっか、とだけ答えた。いいことを思いついた、というわくわくした気持ちが、彼に悟られてしまわないよう、注意深く。
「……ううん。大丈夫。暗くなる前に帰るんだよ。変な人に着いていっちゃ駄目だからね」
そこまで子供じゃないです、とふくれる声を受け流して通話を切った。喫煙所を出て自席に戻る。パソコンで、社内のスケジュール共有アプリを立ち上げた。今から一時間半程度を「外回り」で埋める。どうせ他の同僚だって、同じようなことをしてるだろう。日々真面目に働いているんだから、これくらいの休憩は許されるべきだ。何食わぬ顔で外に出る。冷たい風が頬を叩いた。もう秋だということをようやく実感したような気がした。
教えられた店に入る。外に面した窓際のカウンター席に彼はいた。パーカーを着た後ろ姿。幸運なことに、左隣の席が空いている。ホットコーヒーを頼み、そろそろと彼の背後に迫る。こちらに気が付く様子は無い。いたずらを仕掛ける子供は、こういう気持ちなんだろうか。そう思いながら、名前を呼んだ。
「晶」
彼が勢いよく振り返る。まんまるに見開かれた両目。フィガロ、と吐息交じりの声で小さく叫ぶ口。予想通りの反応だった。今この瞬間までは。
奇妙なことに、何故か彼の右隣に座っていた男もこちらを振り向いた。ゆるやかな、気怠そうな仕草で。俺は可愛い恋人の体越しに、その男と目が合った。面白いくらいに目立つ赤い髪。整っていると言える顔面。目の下の隈、に見えたそれは、よく見るとアイシャドウのようだった。なんだこの男は。そう思った瞬間に、男がやはり気怠そうに口を開く。
「誰ですかこの男」
それはこっちの台詞だ、と言いたくなった。それを寸前でこらえる。代わりに、人当たりの良い微笑を顔に張り付けた。怯むべきじゃない。自分はこの子の恋人で、同棲相手なのだ。自分より近しい立場の男なんて、この世に存在しない。この場で上なのはどうやったって自分の方だ。
「お友達?」
恋人が答える前にそう訊ねる。彼が頷いた。そこに重ねて質問する。男が口を挟む隙を作りたくなかったから。それと、交友関係はちゃんと把握しているのだと、アピールしておきたかったのもあって。
「前話してた、理工学部の?」
「あ、その子とは違うんです。同じ大学の子じゃなくて……」
「誰ですかこの人」
しびれを切らしたのか男がまた訊ねる。うるさいな、と正直思った。晶が男を振り向いて、にこやかに教える。
「一緒に住んでる人ですよ。ほら、この前教えた……」
その紹介に満足感を覚えながら、椅子を引いて隣に座る。本当なら、ちゃんと恋人だってところまで口にして欲しかったけれど。男はつまらなさそうに「ふうん」と言った。勝ったな、と思った。しかしその瞬間に、また男が口を挟む。
「禿げたおじさんかと思ってました。サラリーマンだって言うから」
そう言って、退屈そうにストローを口に咥える。男の前には期間限定のフラペチーノが、晶の前にはコーヒーと閉じられたテキストが置かれていた。ズゴゴ、という音をストローが立てる。顔にコーヒーをぶっかけてやろうか、と正直思った。けど、恋人がびっくりするくらい可愛い顔で、俺に視線を向けて苦笑したので、そんな考えはどこかに飛んでいってしまった。
「来てくれたんですか?」
「うん」
「お仕事中だったのに」
「だって、会いたいって言われちゃったらさ」
晶が、ふふ、と口に出して笑う。丸い頬が少し赤らんでいた。両手でカウンターの端を掴み、椅子ごと少しのけぞるようにして背を背後に伸ばす。少しだけ行儀の悪い仕草だった。でも、彼の表情も振る舞いも、そうでもしないと抑えきれないという風で、自分の胸の奥が甘く疼くのが分かった。
「寂しかった?」
そう聞くと、晶は答えないまま困ったように笑った。隣にいる「お友達」を気にしてのことなのだろう。それが愉快でたまらなかった。
「俺は寂しかったよ」
畳みかけると、彼は苦笑したままちょっと首をすくめた。そして「お夕飯、何がいいですか」と話題を変えられる。
「なんでもいいよ。晶が食べたいもので」
「俺は、おでんがいいかなあって思ってるんですけど」
「じゃあそうしよう」
すると、不意に晶が隣を振り返って「ミスラはおでんの具でなにが好きですか」と聞いた。話題を振ってあげたらしい。優しいのがこの子のいいところではあるけれど、正直今だけはそいつをのけ者にしておきたかった。男はフラペチーノを飲み終えたのか、ふたを外して、カップの底やみぞに張り付いてる分を舌で舐め取ろうとしていた。行儀が悪い。はちみつ入れに鼻先ごとつっこむくまのプーさんみたいだ。
「ロールキャベツ」
と男が答える。それと同時に、唇の端についたクリームを指でぬぐって舐め取った。それが変にさまになってる。そこらの頭が軽い女の子なら、こういう男に惹かれるのかもしれない。俺の晶はそんなことないだろうけど。
「お肉がいっぱい詰まったやつですか?」
「肉がいっぱい詰まったやつです」
晶がくすくすとひそやかな笑い声をたてる。多分、二人の間だけで通じる冗談みたいなものだろうと分かった。
俺が隣にいるのに。そう苛立つのは、多分仕方がないことのはずだ。だって、俺とこの子は恋人同士で、その男が邪魔者なはずなのに。そう思った瞬間に、体が動いていた。晶の太ももに、片手を置く。彼と視線が交わる。布越しに、彼の体温と確かな肉つきが感じられた。
「今日は一緒に帰ろうか」
身を寄せて囁いた。隣の男にも聞こえるだろう声量で。
「早くあがれるようにするからさ、駅で待ち合わせして、一緒にスーパーに寄ろう」
太ももに置いた手を、内側の方へ滑り込ませた。他の場所よりもずっと体温が高い。男がこれを見て、打ちのめされるのを期待した。
「あきら」
男がそう呼びかける。隣で行われている児戯に、気づいているのかいないのか、分からない声色。
「これ、一口あげます」
あのフタを外したフラペチーノのカップが、晶の手に渡される。男がさんざん舐め取ったせいで、クリームやココアパウダーがわずかにへばりついているだけになったカップ。もちろん、俺の恋人は困惑していた。
「あの、スプーン……」
「直接舐めた方がおいしいですよ」
何を言ってるんだ、こいつは。こいつが散々舐め回したのを、この子の口にも入れさせるつもりか。
「馬鹿じゃないの?お前」
「馬鹿ってなんですか。失礼な人だな」
呆れて何も言えない。そして晶もそうらしく、目を丸くして手の中のカップを見ているだけだ。早く突き返せばいい。できないなら、俺が代わりに拒否してやってもいいのに。
そう思って見ていると、不意に彼が、カップのふちにそろそろと顔を近づけた。さっき男がそうしていたみたいに、内側へ鼻先を潜り込ませる。そして、ほんのわずかに、舌先を伸ばした。ぞくりとするほどに赤い舌。それが、カップの内側を舐め取った。潤んでぬめりを帯びた舌に、ココアパウダーが拭われる。そして、一秒もしないうちに、また口の中へ引っ込んでしまった。
「……鼻についちゃうかと思いました」
気が付くと、晶がにっこりと笑ってこちらを見ていた。びっくりするほどに可愛らしい、少し照れ臭そうな顔で。
「ミスラは器用ですね」
晶が男にカップを返す。一拍置いて「そうでしょう」という返答が聞こえた。
俺は多分、呆けた顔をしていたと思う。そして多分、男の方も。
どうしてあの場所に「お友達」がいたのか。家に帰ってから訪ねると「俺のインスタの投稿を見て、近くにいたからって寄ってくれたんですよ」と彼は言った。見ると、確かにそれらしいものがあった。あの席から外を映した画像に、「べんきょうしてる」とだけ書かれている。特徴的な建物の多い景色なので、見る人によってはどこのスタバかすぐに分かるだろう。少ないけれどいくつかいいねも付いていて、多分その中に、あの赤い髪の男のも混じっているはずだ。
俺は奇妙な気持ちになった。本当に偶々、あの男が会いに来たのだろうか。もしかしたら。根拠の無い妄想が頭に浮かんでいく。電話を切った後、俺があの店に行くと分かっていて、わざとあの男を呼び出したとか? ラインでも使えば、俺の見ていないところで会う約束を取り付けることもできる。なんのために? そりゃあ、俺に嫉妬させるため。もしくは、あの男の方に嫉妬させたかった? その両方を楽しみたかったのかもしれない。
意地の悪い妄想だ。ため息をついて、ソファーにもたれかかる。夕飯を食べ終わったばかりなせいで、胃が重い。こんなことを考えるのはやめよう。そう思いながら彼のインスタを眺める。奇妙なほどに、他人の存在が感じられない。野良猫を映したもの、一人分の靴だけ入り込んだ足元、あとは、今日みたいなスタバの画像。投稿は多くて月に三回程度しかない。明らかに身内に見せるためだけのものばかりで、文章もタグもひどく簡素だ。その、SNSに浸かりきっていない感じが、すごくいいなと思っていた。それが、いまや少し不気味に見える。誰かに向けて撒いた、餌か毒のようで。
「……フィガロ?」
顔を上げると、廊下から彼が顔を出していた。お風呂から上がったところらしい。パジャマを身に着けて、髪が少し湿っている。思わず、彼のスマホを目で探した。リビングテーブルの上。お風呂場に持ち込まず、ここに置いたままだ。大丈夫。誰に向けたわけでもなく、胸の内でそう呟いた。
「ああ、今入るよ」
そう答えて立ち上がったところで、彼が不意に「すみません」と口にした。少しうつむいた、怒られる直前の子供のような顔。
「……何が?」
「今日、仕事なのに会いに来てくれて」
「ああ、全然。会社員だもん。息抜きくらいするよ」
「俺がわがまま言ったから」
俺はちょっと笑って「おいで」と彼を手招いた。彼は素直に俺の言うとおりにする。そして、大人しく俺の腕の中に収まった。
「俺も、ちょうど会いたいと思ってたから」
「本当ですか?」
「うん」
彼が顔を上げて俺と見つめ合う。その視線に、何故かぞくりとした。薄墨色の目の中に、今まで見過ごしていたものが、潜んでいるような気がしたから。無意識のうちに、彼の目を覗き込んでいた。そこには何も無いように見える。凪いだ水面のように静かだ。ただ、その奥に、淡い影が見えた気がした。
「わっ!」
その瞬間に、彼が頭を伏せて俺の胸に頭突きをした。
「なになになになに!?」
彼が犬みたいに頭をぐりぐり押し付けてくる。甘えてるのだ、と理解するころには、まるで堪えきれなくなったように彼が笑い声をあげていた。思わず俺も笑って、より強く彼の体を抱き寄せた。頭頂部に鼻先を埋める。シャンプーの甘い匂いがした。腕の中の体が、驚くほど熱い。彼のパジャマの襟が、じゃれ合いのせいでぐしゃぐしゃになっている。そこから見える鎖骨が、不思議なほど白く見えた。触れたい、と思った。奇妙な疼きを持って。そこに手を差し入れようとした瞬間に、彼がするりと腕を抜けていった。
「あっ」
「おやすみなさい」
彼が寝室へと消えていく。閉じられた扉を、しばらくの間黙って見ていた。けれど、可愛らしい顔がひょっこり出てくる気配も無いのを悟ると、ため息をついてソファーに座り直す。二度目のため息をついた。
「……風呂に入るかな」
ふと、テーブルの隅に目が吸い寄せられる。彼が置いたまま、忘れていったスマホ。煌々と明るい蛍光灯の下で、それはまるでブラックボックスのように、どこかおどろおどろしい気配を帯びてそこに佇んでいた。
「……」
手を伸ばしかける。けど、途中でやめた。くだらないことだ。本心を探ろうとするなんて。それに、彼がどの男と遊んでいようと、同棲することを選んだのはこの俺だけだ。それだけは確かな事実としてここにある。もし、面倒な「お友達」がこれからも付きまとってきたとして──彼がそう仕組んだのか、そうでないかのどちらにしても──目障りになれば追い払ってやればいい。それこそハエか羽虫のように。少なくとも、「恋人」と公言されている俺には、それをする権利があるはずだから。