血肉と香水

「いい匂いがする」
 ドクターのその言葉が、シルバーアッシュの視線を捉えた。微笑を含んだ瞳だった。
 明らかにオーダーメイドだと分かるスーツ越しに、花や果物とはまた違う、甘い香りがシルバーアッシュの体からしている。どうやら、香水をつけているらしい。普段ロドスを訪れている時の彼からはしない香りだった。
「いつもはつけてないよね、それ」
「病人もいる場所に、香りものをつけていく男に見えたか?」
「そういうわけじゃないけど」
 ドクターが少しだけ首をすくめる。
「じゃあ、仕事の時はつけてるの?」
「いいや」
 シルバーアッシュはゆったりと首を振った。
「留学中の社交場では、よく使っていたがな。華やかに装えば装うほど、関心を得られた。ここ数年はつけていない。以前持っていたものは全て手放した」
 なら、今つけてるそれは? ドクターが視線でそう訊ねると、彼はやはり微笑してこう答えた。
「お前と、二人きりで会う時のためだけに買った」
 シルバーアッシュの浮かべる笑みは、甘い。仕事中の彼だけを知っている者からすると、きっと見慣れない表情だろう。美しい容貌と相まって、その微笑は怖いほど魅力的に見えた。まだ二十にも届いていない少女が目にすれば、のめり込むようにシルバーアッシュに溺れていくに違いない。しかし、実際に溺れているのはシルバーアッシュの方だ。彼の瞳の中には、ドクターへの陶酔じみた好意が滲んでいる。
 ドクターは、胸がざわめくのを感じた。体を流れる血液の中に、ほんの一滴だけ、血でも水でもない液体が落とされるような心地がした。その液体はおそらく、今シルバーアッシュがつけている香水のように、甘やかな香りがするのだろう。
「嬉しいな」
 ドクターはできるだけ素っ気なく聞こえるよう、そう返した。シルバーアッシュに執心しかけているさまを、本人に悟られたくはなかった。灯りを絞った部屋の中で、ベッドサイドのランプがシルバーアッシュの頬を淡く照らしている。前髪の影が、やけに黒々と濃く、彼の目元にかかっていた。
 ここは、ロドスではない。ビジネスの場でもなかった。品の良いクリーム色で統一された室内。ひとりがけ用のソファーがふたつ、大人二人が寝転がってもかなり余裕があるだろう巨大なベッド。ここはリゾート地のホテルだった。それも、隣にリビングルームまであるような、スイートルームと俗に言われるものだ。
 香水の甘い香りが、霧のように薄く淡く広がっていく。ドクターは、室内の空気全てに、その香水の気配が入り混じっているような気がした。その空気が、ドクターの全身にじっとりと貼り付く。それは体中のすべてを、シルバーアッシュの視線に晒しているような感覚にさせた。

 長期休暇を一緒に過ごそう、と誘ってきたのはシルバーアッシュの方からだった。有名なリゾート地の名前が挙げられる。その場所に特別不満はなかったが、ドクターはこう口にした。
「どうせなら、うんと高いホテルにしよう」
 無邪気にも聞こえる声で続ける。
「だって私も君も、ショッピングとかビーチとかを楽しむタイプじゃないだろう?」
 ドクターの手の中にはそのリゾート地のパンフレットがある。今しがたシルバーアッシュに渡されたものだ。そこには人工の海を使ったマリンスポーツや、乗馬やショーなんかが観光客向けに紹介されていた。二人ともそういうものに精を出すタイプではないし、そもそもドクターの方は長時間陽の下にいれば熱中症を引き起こすかもしれない。それなら、きれいで広々としたホテルの中でゆっくり過ごす方が彼にはずっと良かった。
「それもそうだな」
 そう頷いたシルバーアッシュの顔に、さしたる変化はなかったように思う。しかし後日、ドクターがその休暇の過ごし方をオペレーターの数人に話したところ、「意外とがっつくねえ、ドクター」という反応をされた。
 がっついている? その言葉の意味が分からずドクターは首をかしげる。もしかして、金額のことを言っているのだろうか。でも、彼にしても金をそう惜しむタイプでもないだろう。彼らは食堂で昼食をとっている最中だった。オペレーターは口の中のものを飲み込んで、こう続ける。
「だって、ホテルでゆっくり過ごしたいって言ったんでしょ? リゾート地だっていうのに、彼氏にわざわざ。そうなったらもう、アレじゃん」
 ドクターは衝撃を受けた。オペレーターの言葉は曖昧なものだった(というか、意図的に濁したのだろう)が、その意味はすぐに理解できた。そんなつもりで言ったわけでもないのに、そう受け取られてしまうのかと呆然とする。本当に他意はなかったというのに。そういえば、寝室の内装を見てベッドが大きいとかはしゃいでしまった気がする。
「あたしも、一日中一緒にいてもうんざりしない彼氏が欲しい」
 オペレーターがぼんやりと愚痴る。それに反応する余裕は、あの時のドクターにはなかった。

 ホテルのシーツに包まれて、ドクターは夢を見ていた。
 夢の中の彼は、眠る直前と同じことをしていた。ほとんど衣服を身に着けないまま、ベッドの中でシルバーアッシュとまぐわう。じゃれあう子猫のように頬をすり寄せあった後、唇を重ね合わせた。
 互いの唾液が口の中で混ざり合う。そのうちに、奇妙な匂いが鼻を抜けていくのが分かった。甘い、とドクターは最初に思った。シルバーアッシュがつけていた香水と同じ、甘い香りだ。しかしその判断もすぐに揺らいでいく。違う。鉄錆の匂いだ。香ばしく甘い、金属が熱せられたような匂い。
 口の中の唾液がふくらんで、あふれそうになる。それが唾液ではないことに、ドクターは気づいていた。二人が顔を離す。唇は、赤黒くねっとりとした、タールのような液体で繋がれていた。血。鼻に抜けていった匂いの正体。窒息しそうなほどに、口の中に血が溜まっていく。
 ドクターはシルバーアッシュを見た。彼はうっすらと笑っていた。たった今ドクターの舌を嚙みちぎったとは思えない微笑。
「やっと私の手の中に堕ちたか」
 舌の足りない口で、ドクターは何かを言おうとした。しかしそうするより早く、自身の眼球がぐるりと上を向くのが分かった。意識が遠のいていく。シルバーアッシュの腕の中で。それは祈りの末に得た安息にも似た心地がした。あふれる血で喉が塞がれていく。本当に、こうしなければ私が手に入らないと思っていたのか? そう尋ねようとして、けれどそれは叶わなかった。

 目を覚ました時、ドクターは全身にびっしょりと汗をかいていた。ベッドから身を起こす。快適な空調のおかげで、その汗が急速に冷えていった。寒気すら感じるほどに。
 その冷えから逃れるように、ドクターはスウェットの上を頭からかぶり身に着けた。着古してくたくたになっているものなので、肌によくなじむ。ようやく安堵を得られたような気がした。
 ドクターはベッドの中を見た。シルバーアッシュがこちらに背を向けて寝ている。肩が剥き出しになっており、おそらく下着以外何も着ていないのだろうと思った。分厚い背中だ。時間は午前十時。普段の二人を思えば、随分とお寝坊だった。
 一体何をして過ごしていようか。大きなガラス窓越しに、リゾート地の賑やかな景色が見える。人工の海と砂浜。マッチ棒より小さなシルエットになった、観光客たちの行き交う姿が見下ろせた。それらをぼんやりと見つめていると、不意にインターホンが鳴った。来客に覚えはなかったが、ドクターはドアを開けた。相変わらずスウェットの上だけを身に着けた姿だったが、膝辺りまで隠れているので構わないだろうと思った。
 そこにいたのはホテルの従業員だった。髪の短い、若い男だ。二人分のコーヒーを載せたトレイを手にしている。ルームサービスは頼んでいない、とドクターが答えると、男は少しはにかみながらトレイをドクターに押しつけた。
 男が去っていったので、ドクターは首を傾げながらトレイを手に部屋に戻った。テーブルに置き、よく見ると、コーヒーの受け皿の下に名刺ほどの大きさをしたメッセージカードが挟まれている。
「僕は今日19時に仕事を上がります。良かったら向かいの喫茶店でお話しませんか」
 そんな風なことが書かれていた。ドクターは感情の読み取れない目で、そのカードをじっと見つめた。
 彼にとってはよくあることだった。行く先々、初対面の人にさえ声をかけられたり誘われたりする。恋愛ごとじゃなくても、先月自死した母親の話とか、小説家になるのが夢だったのに役場のパートをするしかなかった自分の話など、そういう身の上話を聞いてもらいたがったり、もしくはドクターと友人になりたがる人間が大勢いる。ドクターからすると、奇妙に思えるような積極性で。
 ドクターは首を傾げたまま、あの従業員のことを思い出そうとする。このホテルにチェックインする際、たしか受付にあの従業員がいたのだ。手続きのためにシルバーアッシュが何か書きつけている間、手持無沙汰そうにしている彼にドクターが声をかけた。
「きれいな目だね」
 その男は、グリーンがかった薄茶色の目をしていた。男は少し驚きながら「ありがとうございます」と小声で返した。
「もしかして、クルビアの人?」
「どうして分かったんですか」
「なんとなく、話し方で」
 男は少し恥じ入ったように目を伏せた。
「すみません、訛りが抜けてないんだと思います」
「別にいいんじゃない? 私は好きだよ」
 男が顔を上げて、まっすぐにドクターの目を見つめた。ドクターは口を開こうとしたが、ちょうどシルバーアッシュが書き終わった手続きの用紙を受付に返すところだった。それからは、そのままシルバーアッシュと一緒にエレベーターで部屋に向かった。ただそれだけだ。今となっては、あの時自分が彼に何を言おうとしたのかさえもう思い出せない。
 もちろん、この誘いは断るつもりだった。返事も無しに彼を喫茶店に待たせるのも可哀想だから、それまでに断っておいた方がいいだろう。あとで受付に下りた時、「さっきはコーヒーのサービスをありがとう」と言って、チップを渡しながら軽く断ればいいだけだ。もし彼が見当たらなければ、他の従業員に「渡しそびれたチップ」だと言ってお金を渡してもらえばいい。多分、それだけでも伝わるだろう。
 このカードは、シルバーアッシュの目につかない場所に隠すべきか。きっとやきもちを焼くだろうから。しかしドクターは横着して、そのカードをコーヒーカップの受け皿の下に押し込んだ。かなり奥に入れたので、受け皿の陰になってあまり目立たないだろう。
 それっきり、メッセージカードのことなど忘れたような顔をして、ドクターは部屋を見渡した。すると、棚の上に置かれた、香水瓶が目に留まった。シルバーアッシュのものだろう。ガラスの中に、金色の液体が閉じ込められている。
 ドクターはなんとはなしにそれを手に取り、軽く揺らした。金色の液面も、その動きを追って波打つ。つけてみたいな。勝手に使ったら怒るかな。いや、そうはならないだろう。ドクターが彼の私物に手を出すことを、むしろシルバーアッシュは望んでさえいるのだ。そう思いつつも、香水を使うのは気が引けた。そもそも、使った経験がない。
 ドクターはその瓶を手に取ったまま、ベッドの中へと戻った。そして、そばのサイドチェストの上に置く。ベッドにもぐりこんだ状態で胎児のような恰好になると、ちょうど視線の先にその香水瓶がある配置になる。金色の液面越しに、室内の様子がぼやけて見えた。ドクターはしばらく目を開いたまま、その金色の液体を眺めていた。そうしているうちに、まぶたがゆっくりと下がっていき、長いまつ毛が絡み合う。小さな寝息が、空調の音にかき消されながら部屋に溶けていった。

 目を覚ます。随分長く眠っていたような気がしたが、時計を見ると、さっき目を覚ましてから一時間も経っていない。あたりを見渡すと、意外なことにシルバーアッシュの姿がなかった。からっぽのベッドの中を見て、次にテーブルの上へ視線をやる。あのコーヒーのうち、片方が飲み干されていた。メッセージカードを敷いていた方のカップである。そして、あのカードが受け皿の下に無い。
 ドクターは素足のままベッドから降りた。シルバーアッシュの姿を探す。部屋をうろついて、洗面所の方から物音がしたのでそちらに向かった。
 予想通り、シルバーアッシュはそこにいた。洗面台の鏡を前にして、こちらに背を向けて立っている。室内の電気はつけていない。その薄暗い部屋の中で、彼の指先に、奇妙な青い光が灯されている。ライターだ。ジッポライターの灯す火が、溶けるように青く光っている。その火が舐める先には、あのメッセージカードがあった。
 彼の指先でつままれたカードの端に、火が燃え移る。角を覆いつくしたかと思うと、紙片が徐々に黒く焼け焦げていく。ドクターは息を詰めてそれを見ていた。ものを燃やした時特有の匂いが、彼の鼻に届く。ようやく声をかけたのは、カードの4分の1ほどが焼け落ちた後だった。
「シルバーアッシュ」
 彼が振り返る。突然呼びかけられて、驚いた風もなかった。ドクターがそこにいることに、最初から気づいていたのかもしれない。美しい微笑が、薄闇の中でドクターを見つめる。彫りの深い目元に、彫像じみた顔立ち。唇の隙間から、獣の牙が覗いた。
「目が覚めたか」
「どうして燃やしてるの」
「朝食はどうする」
「火災用のセンサーに引っかかるんじゃない」
 ドクターの言葉に、シルバーアッシュは「そうだな」と言って笑みを深めた。カードを指先から解放する。大理石で作られた洗面台に落ちていった。水に濡れて、火はすぐに消え失せる。カードは、既に半分ほどまで形をなくしていた。
「階下のレストランにするか、ルームサービスで済ませてもいいが」
「かわいそうだよ」
 まるで何もしていなかったかのように振舞っていたシルバーアッシュであったが、ドクターのその言葉にだけは不満そうな顔をした。眉をわずかに寄せて、口元だけがこわばったように笑みを浮かべている。
「『かわいそう』なのは私の方だ。少し目を離すだけで、恋人が羽虫にまとわりつかれている」
「虫なんて言わないで、せめて蝶にしてよ」
「蝶も虫だろう」
 ドクターは少し考えて「そうかもしれない」と返した。白く骨ばった手が、ドクターの髪を撫でる。焦げ臭い匂いが、その指先にまとわりついていた。
「断るつもりだったよ、もちろん」
「そうだろうな」
「君が寝てる間にでも、受付に行ってチップを払うついでに断っておくつもりだったんだよ」
「チップ?」
「コーヒーを届けてもらった時、払ってなかったから。私が注文したわけじゃなくて、向こうが急に持ってきたんだけどさ」
「ああ」
 シルバーアッシュは納得し、しかし不意に意地悪気な笑みを浮かべたかと思うと「そうは言っても、お前がわざと、あの男が部屋に来るよう誘い込んだ可能性もあるな。コーヒーを理由にして呼びつけて」
「そんなことしてない」
 ドクターはややむくれて言った。
「分かっている。だが、私にはそうであった方がまだマシだったな」
「なんで?」
 ドクターがそう尋ねると、目を合わせずに「意図的にたらし込んでいた方が、無意識に寄せ付けているより私の気が休まる」と答えた。
「私には見えない、蜜か何かでも分泌しているんだろう。お前の体は」
 シルバーアッシュがドクターを抱きかかえ、ベッドに下ろす。剥き出しの白い足をすくい取って、熱を帯びた目でその足指を見つめた。
「だからあんなに羽虫が寄りついてくる」
 薄い唇が、足の甲に押し当てられる。その皮膚に浮かぶ、薄青い血管をなぞって舌が這わせられた。柔らかい唇だった。たった今、他人を「羽虫」呼ばわりした唇には到底思えない。
 顔を離したシルバーアッシュの目が、ベッドサイドに移動していた香水瓶を捉える。
「気に入ったか?」
「うん」
 話題が移ったことにほっとしながら、ドクターが頷く。
「ねえ、私にもこの香水つけてよ」
「どこにつけたい?」
「君が決めて」
 ドクターは他意なく即答した。
「私の体についてなら、私より君の方が知ってそうだから」
 体温の高いところにつければ強く立ち昇るとか、顔に近い位置は避けた方がいい、くらいのことは知っているものの、つけたい位置にこだわりがあるわけでもない。彼に任せた方が良さそうだとドクターは本心から思っていた。特に、体からどんな匂いがしているかなんて、私自身より知っていそうだ、と。
 シルバーアッシュは微笑んだ。よくないことを思い付いていそうな、悪い顔をして「なるほど」と頷いた。
「いい牽制になる」
「牽制?」
「同じ匂いをさせてから、断りに行くのだろう?」
 ドクターは一瞬考え込んで、すぐに顔をしかめて否定した。
「私はそんなに嫌味ったらしくない」
「では、嫌味ったらしいのは私の方だけということになるな」
 シルバーアッシュが断言する。ここまで堂々とされると、むしろ清々しささえあった。
「足首にまぶすつもりだったが、それなら耳の裏につけてもいいだろうな」
 長い指が、うすい耳たぶをつまんで軽く引っ張る。
「ねえ、つけすぎて公害みたくしないでよ」
「わかってる」
 シルバーアッシュが耳元に顔を寄せるので、つける加減を確かめたいのかと思いドクターも身を寄せてやったら、すぼめた唇から生温かい息が耳の奥へと吹きかけられた。ドクターは飛び上がりそうになって、たまらず裸足の足裏でシルバーアッシュの膝を蹴った。猫が喉を鳴らすように、低い笑い声が喉から発せられる。
「チップは、私が払っておく」
「私がやるよ」
「いい勉強代になったなとその相手に言っておきたい」
「やな性格だなあ」
 ドクターは嫌味ではなく、本心からそう言った。それでも、夢の中で舌を噛みちぎってきた彼よりはずっとましに思えた。なにしろ、こちらの方が分かりやすく嫉妬してくれる。
 彼の大きな手が、ドクターの前髪に手ぐしを通す。あの焼け焦げた匂いはしておらず、もちろん血臭もしてこない。ただ、甘やかな香水の匂いがするだけだった。