薔薇とチョコレートケーキ

 ドクターは、真向いに座る男を眺めていた。
 昼間のテラス席。白い、アンティーク調のテーブルと椅子。石棺の中で目を覚ましてから、少なくとも十年の月日が流れていた。どうやら自分は普通の人とは少し違う感性を持っているらしい、と彼なりに自覚している。それでも十年の中で作り上げた価値観や認識というものは存在し、彼に言わせると美形の基準を定義するならば「花を背負っていても見劣りしない」が一番適切だろう、とのことだった。
 ドクターはもう一度、向かいに座る男の顔を見た。そばに植えられた花を背後にしても尚、美しく見える男だった。
「最近のお前は、他人の顔を観察することに楽しみを見出しているのか?」
「そうみたい」
「あまりいい趣味とは言えないな」
「分かってるよ。じろじろ見るなってことでしょ」
「そうではなく、変な気を起こす者がいるかもしれん」
 テラス席に植えられているのは今時あまり見ない大ぶりの薔薇で、これまた珍しいことにピンクベージュ色をしていた。日に焼けて色あせた、レースカーテンを想起させる色。梅雨どきの黒く湿った土のせいで、その甘やかな色合いがより強調されている気がした。
 あと十年早く、その趣味に目覚めていればよかったものを、とシルバーアッシュが独り言のように呟く。
「なんで」
「さすがの私もいくらか年を取ったからな」
「そうかなあ」
 そう言って、ドクターはさっき以上に対面の顔をじっと見つめた。シルバーアッシュは軽く組み合わせていた両手をほどき、また同じような形に手を落ち着かせては苦笑した。先ほどの言葉はまるっきり世辞や冗談というわけでもなく、実際にドクターの視線にいくらかの気恥ずかしさを覚えているのかもしれない。
 しかしこう見返してみても、やはりシルバーアッシュの言葉はドクターを納得させなかった。年を取ったのは事実だろうが、彼が言葉に含ませた「老い」のようなものは微塵も感じられない。目元には小さなしわが増え、肌は数年前より明らかに乾いていた。けれど彼に限っては、生々しい色気を与える要素にしかならなかった。ここ数年は、どこだかの俳優に間違えられることが格段に増えたらしい。
「実年齢よりは若く見えるよ」
「お前もついに社交辞令を口にするようになったか」
「いや、本当に」
 ドクターの記憶を辿ってみると、出会ったばかりの頃の彼はむしろ、実際の年齢より老けていただろう。それは顔のつくり云々というより、あの頃にだけあった、息詰まるほどに張りつめた雰囲気や、険のある目元がそう見せていたのだ。今はあの時よりずっと、柔らかな表情をしている。それを踏まえると、やはり彼の見た目にそう変化はないように思えた。
「それを言うなら、私の方がずっと老け込んじゃったよ」
「ほう?」
「未成年に間違われなくなった」
「それが当たり前なんだ」
「それは、そうかもしれないけど……」
 ドクターは自分の両手を見た。今は手袋を外している。フードとフェイスシールドもそうだ。視界には、生白い手があった。その奥には、二人分のコーヒーカップと、チョコレートケーキがひとつ。
 雨の匂いが濃い。今は晴天に近い曇り空なので、これから降りだすわけではないだろう。雨粒を吸った薔薇や土からしているものだ。そこに、チョコレートの匂いがうすく混ざり合っている。
 シルバーアッシュの背後には依然として薔薇が咲き誇っている。湿度のせいか花びらの一枚一枚がどこか重たげだった。薔薇の色は、シルバーアッシュの肌の色をわずかに白くして、ぼんやりと赤みを足したような色をしている。その手前にある彼の顔は、少しもくすんでいるように見えない。花がどれだけ年月を経ても花であるように、シルバーアッシュもまた、いくら月日が経とうとも美しさを損なわないように思えた。
「そうやって人前でケーキを食べていてもさまになるのだから、お前はまだ若い」
「なに。うらやましいの?」
 ドクターは華奢なフォークの先でいちごを突き刺すと、シルバーアッシュの前に掲げて見せびらかすようにくるりと回した。そしてぱくりと頬張る。
「ああ」
「ふうん」
 いちごを咀嚼した後、フォークをスプーンのように使いながら、ホイップ上に絞られたチョコレートクリームをすくい取った。それをシルバーアッシュの眼前に突き出す。
「あげる」
 一番おいしいところだよ、と彼は続けた。シルバーアッシュの視線がフォークの先に留まり、一瞬だけ寄り目になる。ほんのわずかな沈黙の後に、彼はテーブルの上に軽く身を乗り出して、そのチョコクリームを口に含んだ。微笑を浮かべた彼の目は、クリームを口にする瞬間も、ドクターの目を見つめていた。ドクター自身は気づいていないだろうが、彼の目は十年前と同じように、まつ毛が長く色の薄い、大きな目をしていた。
 シルバーアッシュが浮かせた腰をまた椅子に戻す。ドクターはフォークの先でケーキを切り分けていた。いちごもデコレーションクリームもなくなって、すっかり飾りのなくなったそれを眺めては「スポンジの方をあげれば良かった」と後悔した。
「雨が降らなければいいな」
 シルバーアッシュが言う。彼の足元にある、湿った薔薇たちの言葉を代弁するように。「そうだね」とドクターは返した。言葉の半分は、口に含んだケーキのスポンジに吸い込まれて、少し不明瞭になっていたが。