芽生え

 朝五時。まだ日が昇りきっていない時間に、ムリナール・ニアールは自室の洗面所に立っていた。自室と言っても、ロドス本艦内で彼に割り当てられた部屋のことである。
 彼は普段、ここから遠く離れた支部で任務についている。そのためこの部屋は、何かしらの用事で彼が本艦を訪れた時にのみ使う場所だった。その洗面所も含めて、元からあてがわれていた備品以外、彼の内面を感じられるような私物は室内に殆ど見当たらない。それは本艦に滞在する日が少ないためではなく、彼自身の性格によるものに思えた。
 電気をつけていないために、部屋は薄暗い。カーテンから入り込んだ僅かな光が、室内を青みがかった色に照らしている。ムリナールは高い背を少し屈めて、鏡と向き合っているところだった。
 険しい顔をした、中年の男が映っている。整った顔立ちではあるものの、それは本人にとってあまりプラスには働いていない。少なくとも、他者が彼に対して抱いている近寄り難さを打ち消してはくれなかった。落ち窪んだ目元と寄せられた眉が、端正な顔をしているために余計に目立ちいっそう彼を気難しそうに見せている。
 前髪をかき上げて、すぐに手を離した。ぱらぱらと額に髪が降りかかる。周囲の親しい人たちは、彼とその姪たちの髪の色は同じだと口々に言う。カジミエーシュの栄光を思わせるような、輝かしい色をしていると。しかし彼自身はそう思っていない。朝焼けの色と、農村で汚らしく踏み荒らされた枯れ草の色ほどに違うように見える。ここ十数年、髪の手入れになど気を遣っていなかった。そのせいか、傷んだ毛先は色が抜けてわずかに白っぽくなっている。
 彼はため息をついた。これから刑務作業につかねばならない囚人のような面持ちで、顔を洗い、身支度を整えていく。そこでふと、洗面台の端に置かれたガラス瓶に目が留まった。それは彼の姪の一人がプレゼントしてくれた、男性用の化粧水である。彼がこれを使うことはあまりなかった。それでも今日、彼がこの存在を思い出したのは、ドクターと対面する機会があるからに他なかった。書類の受け渡しと、後日行われる合同訓練についての確認。少なくとも二度、顔を合わせる機会がある。ムリナールは少し悩んだ後に、その化粧水を手に取った。
 彼の記憶通り、甘い、花の香りが手の中に広がった。

 ドクターについて特筆すべきことといえば、あの虚弱さについてだろう。まるで無菌室から出されたばかりの赤子のように体が弱く、運動と名のつくもの全てに適性がなかった。虚弱という言葉で済ませることも躊躇わせる。そういう罰を負わされてあの体に生み落とされたのでは、と思うほどであった。ムリナールの見立てでは、それ以外にも平衡感覚と遠近感に何らかの問題があるだろう。ドクターが歩く姿を見て彼はそう考えていた。
 ドクターは出来る限り体力をつけるために、ロドス艦内では階段を使っているようだった。しかし三階分ほどのぼりきると、疲れ切って階段の端に腰掛けて身を休めているのをよく見かける。通りがかったオペレーターがそれを見て、彼をおぶさって目的の場所に連れていく光景も日常茶飯事であった。
 結局人の手を借りるなら、最初からエレベーターでも使えばいいだろう、とムリナールは内心そう思っていた。しかしながら、ドクターが安心し切った様子でオペレーターの広い背中に身を任せている光景に、よく分からない感情が芽生えることもあった。
「ムリナール」
 今日もまた、彼は階段の隅で休憩していたらしい。お行儀良く足を揃えて座っていた彼が、通りがかったムリナールに声をかけた。
「……ごきげんよう、ドクター」
「うん。ごきげんよう」
 フェイスシールドの奥でにこにこと笑う顔を、彼はじっと見つめた。ドクターに目を通してもらうべき書類を、彼は今手にしていなかった。ドクターに会いに行こうとするより先に、偶然ここで出くわしたのだ。
「詮索するようで申し訳ないのですが、身を休ませているのですか」
「うん」
 ドクターは自分の虚弱さを特に恥じることなく肯定した。
 ムリナールは目を瞬かせた。この虚弱な生き物を目にするたびに、彼はいろんな感情が浮かんでは消えていくのを感じた。例えば、騎士のように跪いて手を差し伸べてやりたい気持ちと、彼を床にでも叩きつけて痛めつけてやりたい気持ちである。それらは相反し、お互いを昂らせるように一方の感情をくすぐりあっていく。そのどちらが自身の本心であるのか、ムリナールはいつも見当がつかなかった。
「よろしければ、私が部屋までお連れいたしましょうか」
「ええ?いいよ、そんなことしなくて」
「何故です?他のオペレーターにやらせていることが、私には任されない理由がないでしょう」
 ムリナールはそう言い終わるより先に、ドクターの体に手を伸ばした。抱き上げられるとき、ドクターは一瞬だけ抵抗するような素振りを見せたが、すぐに大人しくなった。
 彼を横抱きにして、ムリナールは階段をのぼっていった。その間、子犬のようにお行儀よく縮こまっているドクターの姿に、視線をやらないよう彼は意識しなくてはならなかった。まるで肉つきの良い猫を抱いているような、心地よい重みが腕に与えられている。
「執務室ですか」
「うん」
 所定の部屋の前まで来て、廊下に下ろすと「ありがとう」とドクターは言った。「当然のことをしたまでです」とムリナールが返す。そう言いながら、あともう一言でもいいから、ドクターから何か言葉をかけられたかった。
 特に具体的な台詞を求めていたわけではない。単に彼と向き合っている時間を少しでも長引かせたかったのだろうか?それとも、「またよろしくね」でも何でもいいから、自分のために言葉を尽くしてくれているのを実感したかったのか。その心を読んだのか、それとも気まぐれによるものか、ドクターが彼を見上げたまま、ゆっくりと首を傾げる。そして、どこか幼げな口調でこう言い放った。
「お花の匂いがするね」
「──」
 ムリナールは一瞬、何を言われたのか分からず、黙ってその目を見つめ返した。長いまつ毛に囲われた、大きな目を。
「雨の匂いと、あと、ドライフラワーみたいな匂いがする」
 ムリナールはようやくその言葉が指すものを察することができた。今朝方、彼が自身の顔と首筋に馴染ませた化粧水の香りだろう。ドクターの例えが合っているかは分からない。その単語を聞いて特定の香りが想起されるほど、彼はドライフラワーというものに興味を持っていなかった。彼はそういう男だった。
 ドクターはにこりと笑って「またね」とだけ言って執務室の中に消えていった。軋んだ音を立てて、目の前でドアが閉じられる。ムリナールはしばらくの間、物言わぬ扉の前でじっと立ち尽くしていた。そして、不意に正気を取り戻したかのように、ついさっきまでこの腕の中にドクターを抱いていたことを思い出す。
 彼は腕に顎を埋めるようにして匂いを嗅いだ。花のような香りを想像していたもののそこには何も感じられず、さっきまでドクターが腕の中にいた痕跡など、どこにも見当たらないのだった。